風薫る
「跡部サン、ってそんなにすげー人なんスか」
みるみるうちに昼の時間が長くなっていく今日この頃。本日の練習メニューはワンセットマッチの試合形式で、レギュラー陣の弱点を洗い出していくというもの。一試合、また一試合と消化していく中、次に当たる相手が随分と白熱した試合 を繰り広げているようなので、その待ち時間を休憩時間に回すことにした。
ベンチのあるところまで下がって、タオル片手にボトルで水分補給。穏やかな 木陰にいるのは自分と、―そして日吉部長。
ベンチに浅く腰掛けながら、バインダーに挟み込んだ紙に事細かに書き付けて いる。その様子をぼーっと見ていたら、視線に気づいたのか日吉部長が顔を上げて、呆けた表情を浮かべていた自分と目線がかち合った。即座に流れた気まずい空気を打ち消すように言ったのが、先の質問だ。
同じくレギュラーの鳳先輩がぽろっと零したその名前。
部長の下剋上相手、とかなんとか。我が部が誇る、シングルス最強の日吉部長 が誰かに負けるとは思えないのだけれど。
「お前、中等部から入学したのか?」
「よく分かりましたね、合ってます」
成程、と小さく呟いた部長は、何かを考え込むように目線を下げた。ボールをラケットで打ち返す音がきっかり一往復分聞こえて、それから部長の言葉が続いた。
「誰もが魅了される強くて華麗なテニスをする人。俺がテニスを始めるきっかけで、目標。こっちは全力で追いかけてるのに、捕まらなくてイライラする」
自分に顔は向けられているけど、多分、見ているのは俺の向こうにいる人なんだと分かった。初めて見た、闘志でギラつく日吉部長の目。この視線を受ける先には、きっとその跡部サン、しか居ないんだろう。
「かっけぇ...」
「は?」
思わず声が漏れて、その衝動のまま部長に詰め寄った。
「だって、俺が普段すげー!って思ってる日吉部長が、すげーって思う人なんでしょ?したら、すげーの二乗でめちゃめちゃすげー人じゃないですか!」
「...ふっ、ははっ」
いきなり笑い出した部長に思わず目が丸くなる。いつも冷静で、物事を俯瞰し て見ることに長けていて、向かい側のコートに立つ相手を見やる目は氷のように 澄み切っているから、それが酷く恐ろしい。それが部員のおよそ九割方が思い描 いている部長像だ。 笑う、というより嘲る、の頻度の方が高い気がするこの人が、笑いすぎて咳込むなんて想像すら出来ない。体を折り曲げてまで笑いきった部長がいつも通りの、 それでも少しだけ口角をあげた顔に戻るまで、思わず硬直してしまったほどだ。
少し癖のある、けれどよく通る声で名前を呼ばれる。瞬間、緊張が走って少し背中がこわばった。そして続けられた言葉は予想だにしないものだった。
「俺と打つぞ」
「えっ?」
突然の展開に困惑する俺をよそに、部長はバインダーの代わりにラケットを持って、袖を通していたジャージすらベンチにかけてしまった。
「俺一応、休憩しにこっちに来たんですけど...?」
それとなく体力の限界が近いことを申し出れば、やけに愉快そうな声色が返っ てくる。
「あーん? スタミナ不足は早めに克服しとけよ」
「日吉部長がおかしいんスよー!」
どうせならもっと万全の状態で貴方と戦いたいのに、とは思うものの。
部長と試合ができることは正直嬉しくて仕方がない。ずんずんとコートへ足を運んでい く背中を追いかけながら、緊張と興奮で滑る手汗を拭い、再度グリップを強く握 り直した。