振り回されて180度



「好きだ」
自分の感情に名前がつくまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。



跡部のことは昔から知っていた。同じ東京の学校に通っていて、地区予選やら練習試合やらで出会うことも多かった。その度に向こうはこちらに突っかかってきて、そしてそんな跡部から向けられる感情にうまく返答するのが難しかった俺は、特に返事をすることもなく目を逸らして話の終わりを告げていた。

俺の態度はずいぶんと愛想の悪いものだと思うし、当時の自分もそんな自分が歯がゆくて、さらに跡部からの接触を避けるようにしていた。なのに跡部はそんなこと気にもとめていないのか、また日を改めて会うことがあれば変わらず俺に話しかけてきた。

考えても分からないものをずっと腹の底に抱えておくのはどうかと思った。分からなければ分からない人に聞くのが良いと思った。だから跡部にも聞いたのだ。どうしてそんなに俺に構うのか、と。

返された言葉はシンプルだった。
「テメェが強いからだ」
跡部は俺のテニスを追いかけて、執着して、そして、きっとそれだけだった。
あいつが見ているのはテニスを通した自分であって、テニスをしていない、ただの男子中学生であるときの“手塚国光”には見向きもしていない。
その事実に気付いた時。俺は正確にはどう思ったのかは分からない。けれど俺の心は珍しく荒れて、気付けば壁打ちの跡がひどくまだらに出来ていて、その光景に鼻の奥がツンとした。

中学三年生、夏。関東大会初戦。
俺は跡部と初めて試合をして、負けた。
試合に勝った跡部は笑わなかった。ただ、俺の腕も一緒に持ち上げて、それ以上何も言うことはなくベンチへと戻っていった。

衝撃だった。少し自惚れていた。
跡部が俺と関わって、何かしらのアクションを起こさずに帰っていくのは初めての経験だった。
いつだって俺に真っ向から挑んできて、試合が始まる前や、日程の全てを消化し終わった後、いつでも話しかけてくれていた。

結局その日は最後まで言葉を交わすことはなかった。
関東大会の大事な一戦を乗り越えたばかりだというのに、素直に喜ばしい気分にはなれなかった。



「…跡部」
「よう」

学校を後にすべく、一人で校門までの道のりを歩いていると、門の所に見慣れた姿が見えた。
茶色のブレザーを羽織っていて、それは夏の終わりを告げているようだった。

全国大会は数日前に終わっていて、部活も半ば引退状態だった。
跡部に会うのも、全国大会で再戦して以来だ。特に変わった様子もなく、そんなことを考えては変わったのは俺自身だと思った。

いつも頭のどこかで跡部のことを思っていた。考えていた。
目をつむれば対戦していた時の姿がよみがえる。心地よくなってきた秋風にまどろみかけていると声が聞こえてくる気がした。澄み切った空を見ればその瞳の色を思い出して、そしていつも胸がしめつけられる心地がして、泣きそうになるのだ。

「何か用だったか」
「まあな、日吉部長に代わって練習試合の申し込みってやつをだな」
「俺はもう部長ではない、そういう話なら海堂に直接言うべきだ」
「…なんだあ?今日はずいぶんとつれねーな」

当たり前だろう。なんだってそんな事務連絡を伝えられなければならない。
わざわざそれを伝えるためだけにここまで足を運んだのか。もう少しうまく時間を使うべきじゃないのか。どうせなら、俺に会いに来たとでも言えばいいのに――。

脳内で暴走した思考はあらぬところへと着地点を見出した。
跡部が俺に会いに来たと言って、俺はなんて返事をするつもりだったんだ。
こんな時間からでは満足に試合が出来るとは思えない。だからもしそういってくれたなら、それは俺個人に会いに来てくれたという意味にとらえられて、ああ、それは。

自覚してしまえば、今までの自分の不可解な衝動にも説明がつく。
急激に体温のあがる身体を感じながら、少しだけ目線が下な跡部へと近付く。
いきなりの俺の行動に、ずりっと後ずさる跡部を門が背中につくまで追いつめて、その瞳を覗き込む。
きれいな曇りのない青の瞳には俺しか映り込んでいなくて、そのことに深い満足感を覚える。

「好きだ」
自分の感情に名前がつくまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。

俺の言葉の意味は正しく跡部に伝わったようで、夕焼けていく空に負けないぐらい、頬が紅潮していくのが分かる。肌が白いから目立ちやすいのだ。腕を顔に持っていて懸命に顔を隠そうとするから、もったいなく感じてその腕を引きはがす。それでも顔は下を向けられて、目線が合わないのがもどかしい。

「本当は、」
「なんだ?」

絞り出されるみたいに紡がれる跡部の声に耳を傾ける。平素の凛としたよく通る声ではなくて、ともすれば風にかき消されてしまいそうなほど小さな声だ。初めて聞く、跡部の声だ。

「本当は、お前に会えるんじゃないかと思って、ここに来たんだ」

たまらなくなって、腕の中に跡部を閉じ込めた。おずおずと背中に回された腕に徐々に力が入っていくのが分かって、そのことへの愛おしさが自分の中で降り積もる。肩にかけていた鞄がドサリと落ちた音がした。