燦々
瞼の裏で斑模様の光が蠢いている。薄く目を開けると、自分のまつ毛の隙間から仄暗い天井が見えた。ゆっくりと瞬きを繰り返し、大きな息を吐きながら寝返りをうつ。
その過程で視線が天井から見覚えのあるローテーブルやテレビに移っていく。私と一緒に息を潜めた部屋は誰も邪魔をすることなく、何をしても咎められず、紛うことなき唯一の聖域だ。私の左頬が枕に到着した時、至近距離で焔色の鬣が揺れ密かに目を見開いた。
私の目の前で向かい合うように煉獄先生が頭をベッドの端に乗せて、寝息を立てている。
(…綺麗な寝顔)
いつもキリッと上がっている眉は、力を抜いたように柔らかな曲線を描いている。きめ細かい肌と男性の割に長いまつ毛を、ただじっと見つめていた。何秒間そうしていただろう。左手が弱い力で握られる感覚がして、徐にそちらに顔を下げた。胸の位置で私の手を覆うように、大きな煉獄先生の手が重なっている。
「…っん"?!」
悲鳴を飲み込むようにして口から盛れた声は、喉を潰した時のそれに酷似していた。
(な、なんで煉獄先生が…!?)
驚きのあまり肩が内側に丸まるように縮こまり、全身が硬直する。私の出した声に反応して、煉獄先生が眉間に皺を寄せた。
(ま、まずい…!)
何がまずいのだろう。いや、まずいのだ。この状況は一体どうしたのか。頭へ一気に血が登り堂々巡りの幼稚な考えしか浮かばなかった。
彼のまつ毛が頬の下に影を作り、ゆっくとその奥から炎を宿した瞳が覗く。数回瞬きをすると、彼の目は直ぐに私を捉えた。
寝起きのためか、いつもの赫々とした眼光はなりを潜め、代わりに優しい光を孕む。緩やかに口角が上がり、彼がふんわりと微笑んだ。
「おはよう」
「お、おはようございます…」
煉獄先生が私の返事を聞いて、さらに笑みを深めたので慌てて飛び上がるように起きてしまった。
「え、えーと、あの…」
未だに繋がれた手に気を取られながら次の言葉を探す。
「あぁ!すまない!」
煉獄先生は、ばっと手のひらを開いてパーの形を取ったまま、両手を小さく上げた。
「君の部屋で寝るつもりはなかったんだがな!俺としたことが、不甲斐ない!二日酔いはないか?頭痛や体の怠さは?」
「は、はい。大丈夫です…それよりこんなところで寝かせてしまって、」
すみません、と言葉を続けようとして、いやいや、違う。違わないけど!どうして私の部屋に煉獄先生が?と私の頭は先ほどと同じように混乱し始める。頭が沸騰して目の前がぐるぐる回っていくような感覚に、目頭を摘んで頭を垂れていると、彼が私の様子に気づいて口を開いた。
「唄杜先生は寝てしまった後だったため、記憶にないと思うが、あの後俺の手を離さなくてな」
「え…」
「夜中に鍵もかけず、君の部屋を出ていくことも気が引けたゆえ、そのまま居座ってしまった!」
煉獄先生の話に頭痛が酷くなる。私は昨夜、煉獄先生に帰らないで、と駄々を捏ねただけに留まらず、先に寝落ちし、床で一夜を過ごさせるという失態をしてしまったらしい。
「す、すみません…」
「いや!気にするな!」
しょんぼりと肩を落とす私とは裏腹に、煉獄先生は溌剌と応える。心做しか嬉しそうな雰囲気を纏っていると感じるのは、私の都合のいい錯覚に違いない。
「君も起きた事だし、そろそろ俺も失礼しよう!」
煉獄先生が立ち上がり、固まった体を解すように背伸びをする。
その様子を、ぼけっとベッドの上で見ている私はきっと間抜けな顔をしているのだろう。彼のいつも新品のようにアイロン掛けされたワイシャツには、ところどころ皺が出来ている。
煉獄先生と対照にくたびれたシャツを見ていると、なんとも情けない気持ちに駆られた。
「あの、せめてお詫びをさせてください」
「お詫びなどいらない」
「そんな訳にはいきません!」
ベッドの上から身を乗り出すようにして食い気味に話す私に、煉獄先生は少し目を見開くと念慮するように、むっと口を結んだ。
「そこまで君が言うなら、そうだな」
私が提案しようと思ったが、何か頼みたいことがあるらしい。煉獄先生の発言を待つ時間はそれほど長くは続かなかった。うむ、と彼が頷いたのを見て、ごくりと生唾を飲み込む。
「煉獄家に今度遊びに来て欲しい!」
「……え?」
思ってもいない提案にぱちくりと目を点にし、ぽかんと口を開ける。
「ちょうど千寿郎も君に会いたいと言っていたところだ!」
「えっ、れ、煉獄先生の家…?」
「来週の土曜日はどうだろう?」
「え、えーと、特に用事は…」
「では決まりだな!」
状況を飲み込めていない私を置いてけぼりにして、あれやあれやと予定が組まれていく。あ、えっ、と母音しか出なくなってしまった私を横目にひとり大きく頷き、もうこの話は終わりだとばかりに清々とした表情の煉獄さんが、私に視線を寄越した。
「楽しみにしている」
大きく見開かれた瞳が笑みで細くなり、唇が弧を描く。そんな表情で微笑まれたら、私は意味の無い声を発することをやめて、はい、と返事をするしかなかった。
「では、俺はこれで失礼する!」
私の返事を聞いて満足気な煉獄先生が、玄関へと向かう。私も彼の後を追うように、そちらへと足を進めた。
「煉獄先生、」
ドアの取っ手を捻ったところで、その背中に小さく声をかける。煉獄先生が振り返り、私と目が合うタイミングで口を開いた。
「ありがとうございました」
「あぁ!戸締りはしっかりするように!」
ドアの隙間から朝日が零れ、煉獄先生と仄暗い廊下に一筋の光が差し込む。太陽の燦々とした光が似合う人を私は彼以外に知らない。
ガチャリ、とドアが閉まってからも私はその場に立ち尽くしていた。どうしてか、昨晩のような心を蝕むような寂しさはなかった。私は仄かに残る彼の体温を留めるように、無意識に左手を握りしめていた。
ーーーー………
怒涛の週末が明け、いつも通りの平日が始まる。授業終わりに廊下を歩いていると、後ろからパタパタと数人の騒がしい足音が聞こえてきた。
「紫亞ちゃんだー!おつかれー!」
「紫亞ちゃんじゃなくて、唄杜先生でしょう!」
私の横を通った生徒に向かって注意すると、彼らは悪戯っぽく笑って走り去っていく。
むっと唇を結びながらも、随分と生徒たちとも打ち解けたな、と自然と頬は緩んだ。あまり威厳はないようだ、という言葉が付け足されるが。
遠くなっていく背中を暫くの間見つめて、ふう、と小さく息を吐く。ざわざわと外が騒がしいことに気づき、視線を窓へと移すと広大な校庭が目に入った。昼休みのため、生徒たちがサッカーをしに来たようだ。なんとなしに生徒たちの動向を見ていると、その中に混じって煉獄先生の姿を見つけ自然と目で追ってしまう。
そう言えば、よく生徒たちにサッカーや野球に誘われるのだと以前聞いたことがあった。きっと運動神経もいいのだろうな、と勝手に想像して笑みが零れる。ここは三階だし、私には気づかないだろう、と鷹を括っていたのが誤算だった。
(っ…?こっち見てる…?)
何を感じ取ったのか、彼がこちらへと視線を向ける。一瞬私を見ているのではないと思ったのだが、ばっちりと目が合い咄嗟に逸らしてしまった。
少し感じが悪かったかな、と恐る恐る視線を向けると、彼は私をしっかりと見つめ、にこりと微笑む。私も少し視線を彷徨わせた後、不器用ながらに微笑み返した。
そのやり取りはほんの数秒で、煉獄先生は生徒たちに呼ばれ、彼らのもとに走っていく。
私はどきどきと煩い心臓に手を当てて、大きく深呼吸を繰り返していた。
今さらながらに思い出したが、あの夜、彼は勘違いでなければ私の傍にずっといる、と言った。あれはどういう意味なのだろうか。
(…期待、してもいいのかな)
自宅にお邪魔する件は百歩譲って家族ぐるみで私のことを知っている、という点が前提にあるため判断しづらい。
うーん、とひとり唸っていると、唄杜先生、と後ろから声をかけられる。
「冨岡、先生…?」
振り返れば、青のジャージ姿の冨岡先生がいつもの無表情で立っていた。なんとも珍しい人に声をかけられた、と目を丸くする。
「先週末は大丈夫だったか?煉獄が無事送り届けたと聞いたが」
「は、はい。大丈夫でした」
「そうか」
眉ひとつ動かさず、淡々と話す冨岡先生に苦笑しながら答える。常に表情を崩さず、冷静沈着な彼のことを以前は苦手だと感じていた。だが不器用ながら気を使ってくれているのだと気がつき、彼の見方が変わったのは最近の話だ。
「煉獄のことだ。不埒なことは働かないと思っていたから心配はしていなかった」
不埒、とは煉獄先生と縁のない言葉のようだ。心の中で大きく頷いていると、まだ何か伝えたいことがあったのか冨岡先生が言葉を続ける。
「それに以前、ずっと昔から心に決めた人がいると聞いていたからな」
「え…?」
心に決めた人…と私は呆然として呟く。まるでその言葉が雷になって脳天に突き刺さり、指先が冷たくなったような気がした。
210212