初戀
何号室か、と聞かれ素直に番号を教える。二階の部屋だと言うと煉獄先生は嫌な顔をせず、わかった、と一言応えて歩を進めた。アパートの階段をかたんかたんと、小気味よく上がっていくと、それに合わせて煉獄先生の後頭部で結ばれている一束が揺れる。
ーーーその柔らかな髪に触れたいと思ったのはいつからだっただろうか。彼の大きな瞳に一秒でも多く写っていたいと思ったのは、彼の笑う顔をいつまでも見ていたいと思ったのは、いつからだっただろうか。私がその気持ちに気付いてしまったのは幸か不幸か、今考えても仕方のないことだった。
煉獄先生に背負られている状況に慣れる事はないが、お酒やら眠気やらで鈍くなった頭は上手く回らない。
" 紫亞ちゃんは好きな人がいる? "
何が好きか、という問いに私は場違いにも、頬を赤らめ、ふんわりと笑う女性の顔を思い浮かべていた。彼女は同性から見ても可愛らしく、正しく恋をする女性の顔をしていた。
ーーーー………
あれは同僚のしのぶ先生と彼女伝いで知り合った甘露寺蜜璃さんとお茶でもしないか、と集まった午後の事だ。
蜜璃さんはキメツ学園の卒業生でしのぶ先生のひとつ上の先輩らしい。現在は美術大学を卒業し、デザイナーの仕事をしているという。誰もが羨むスタイルの良さと、整った顔立ち、明るく優しい性格。女の子のいいところをぎゅっと詰め込んだような人だった。
凄くモテるだろうに、彼女はそれらの好意には気づかず、ずっと恋人を探し続けていた。
そんな彼女に最近になって彼氏が出来たという。
「伊黒さんったらねっ」
伊黒さん、とはキメツ学園の化学の先生だ。
何枚目かわからないパンケーキを美味しそうに頬張りながら、彼女が照れながら口を開く。
「私が美味しそうにご飯を食べている顔が好きだって言ってくれたの!」
きゃーっと蜜璃さんが喜びを頬に浮かべる。まさかあの二人が、と思ったが彼女の惚気話を聞いていると案外お似合いなのかもしれない。
「ふふっ、よかったですね」
蜜璃さんの幸せそうな笑顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。
「二人は最近どうなの?」
蜜璃さんが前のめりになりながら聞いてくる。しのぶさんと私は顔を見合わせると、きょとんと首を傾げた。
「しのぶさんは、あの、例の彼とは、」
恐る恐るといった感じで聞くと、彼女は笑顔を貼り付けたまま眉を顰めた。ピキリ、と額に青筋がたったような音がした気もしなくはない。例の彼とはしのぶさんを執着に追いかけている、年上であろう男性だ。顔は整っているのに行いは下劣極まりないという。何をされたのかは彼女の反応から聞く事を躊躇われた。
「冗談はよしてください。あんなストーカークソ野郎の事なんか眼中にないです」
ストーカークソ野郎とはなんとも強烈な言葉の羅列だ。綺麗な顔をしながら彼女はたまに辛辣な発言をする。更には透き通る鈴を転がしたような声で言われたものだから、私は思わず顔を歪めてしまった。
「それより紫亞さんの事です」
「いえ、私は…」
「この前煉獄先生と二人で帰られているのを見ましたよ」
「ん"っ…!?」
まさか彼の名前が出てくるとは思わず、心を落ち着かせる為にと口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった。
「ちょ、し、しのぶさん、あれは!」
「あら、本当に一緒に帰宅したんですね」
しれっといつもの様子で、もうそんな仲なんですか、と言われ、さっきの事を根に持ってらっしゃる、と苦笑する。
「えっ!煉獄先輩と?素敵だわ!」
私の反応を見て、蜜璃さんが瞳を煌めかせたのがわかった。私は慌てて両手を前に出して否定する。
「ち、ちがっ、」
「違うんですか?」
「違うの?」
どうしてこんな時に息が合ってしまうんだろうか、この二人は。私は開いた口を徐に閉じ、あからさまに目を逸らした。そして再度ゆっくりと口を開く。
「まだ、よくわからなくて、」
好きという気持ちが、と続けると蜜璃さんは目を瞬かせた。
そして先程の興奮を抑え、ゆっくりと瞳を伏せると、何かに思いを馳せるように胸に手を当てる。彼女の瞼の裏には、きっと彼がいる。どうして恋する人はこんなにも美しく、慈しみに満ちた顔をするのだろう。
「紫亞ちゃん、好きというのは……」
ーーー玄関の目の前まで来ると、やっと彼は私を下ろしてくれた。まだお酒が抜けきっていなかったせいか足が縺れる。
「あっ」
「っ…!君は危なっかしいな」
「…っ!」
よろけた体が壁にぶつかる前に煉獄先生の手が腰に回り、ぐいっと引き寄せられる。力強い大きな手は、今まで彼が男の人である事を意識しないようにと堰き止めていた私の思考をどろどろと溶かした。頬に触れた胸板に顔が熱くなる。血液が勢いよく全身に巡っていくような感覚に心臓は脈打ち、頭が逆上せたようにぼうっとした。
「す、すみません」
咄嗟に両手で煉獄先生の肩を軽く押し、距離を取ろうとするが、がっしりと捕まえられ離れる事が出来ない。
「鍵は」
煉獄先生の言葉に、はっとして鞄を漁り鍵を取り出す。今回はすんなりと見つけられたことに内心ほっとしていた。
鍵を差し込み玄関へと足を踏み入れると、半日しか空けていないというのに、久々に帰ったような感覚に陥った。彼が私の体を支えるようにしてゆっくりと床に座らせてくれる。なんとか自室に帰れた事の安心と疲れからか、体から力が抜けていくような感覚がした。同時に眠気までもが襲ってくる。
「それでは俺はこれで失礼する」
煉獄先生の手が私の肩から離れていく。
「俺が出たら戸締りを忘れないように」
わかったな、と再度念を押され、こくりと私は子どものように頭を縦に振っていた。
私の様子を心配そうに見ながらも、彼が徐に立ち上がり玄関へと踵を返す。
その背中を視界に写した時、何を思ったのか私は彼のシャツの袖を引っ張っていた。
(何をしているの、私)
煉獄先生が驚いたように振り返る。私も自分のした事だというのに、内心訳がわからないと困惑していた。
「ま、待って、ください」
煉獄先生を帰さなきゃいけない、この手を離さなきゃいけないとわかっているのに、私の体は言う事を聞いてくれなかった。
ここで行かせてはいけない。" 今度こそは引き止めなければ " 真夜中の闇に彼が連れ去られてしまうと思った。
「い、行かないで、ください…!」
私の声は今にも泣き出しそうに弱々しかった。
彼は数秒の間、黙って立っていたが、やがてゆっくりと片膝を床に付けしゃがみこむ。
「もう俺はどこにも行かない」
煉獄先生の言葉に鼻の奥が痺れ、目頭が熱くなる。浅い息を何回か静かに吐き出して、瞬きをすれば頬に温かな涙が伝った。彼は私の手を握り直すと、私を安心させるように緩やかな声音で告げる。
「君の傍にずっといよう」
熱を持ったの手のひらが私の頬に触れ、親指で私の目尻を撫でた。私はずっとこの言葉が欲しかったのかもしれない。
210123