紅葉
碌な準備もせずに、私は昨年杏寿郎様と歩いた道を辿っていた。頬や耳は冷たくなり、足は棒のようだったが構わず進む。
いつか彼と団子を食べた茶屋を通り過ぎ、気づけば空気が先程よりすっと冷たくなるのを感じた。見上げると群青の空は高く、その隙間を縫うようにブナの葉が黒く影を落としている。
草履の裏でぽきりぽきり、と小気味よく小枝が折れる音がして、やっと昨年彼と通った道だということを思い出した。
「ここから足場が悪くなる。気をつけて進もう!」
「はい」
砂利か引かれ整備された道とは違い、この道は地面から根が剥き出し、でこぼことして歩きづらい。無造作に進めば背の低い枝や葉が足首を引っ掻きそうだ、と慎重に足を進めた。注意は足元に向けながらも、杏寿郎様に遅れを取らないようにと時たま前に視線を運ぶ。すると五尺先で彼が地面を踏み付けて歩く姿を見つけた。
何をしているんだろう、と疑問に思っていると、私まで続く道の草木がしなっていることに気づく。彼は私が歩きやすいように道を作ってくれていたのか。私が先程息を切らしていたのを見て、気を使ってくれているのかもしれない。お礼を言おうと口を開いた時機に彼が話しかけてきた。
「君の好きな季節はなんだ?」
少し考えてから、単純と思われるかもしれないが、秋と答えた。
「秋か、いいな!」
私は秋の朝がとても好きだった。体を刺すような夏の日差しと違って、秋の日差しは包み込むように優しく温かい。空気は乾いて透き通り、時に一筋の冷たい風が吹くのも心地よいと思えた。その情景を思い出していると、杏寿郎様が声を大にして言う。
「食べ物がうまい季節だ!」
彼の言葉にくすりと笑ってしまった。大食漢の彼が考えそうな事だ。
「何よりさつまいもが旬だ!」
「帰りに市場に寄って、買って帰りましょうか」
「それはいいな!」
二人で他愛の無い話をしながら歩く。他所から見ればなんて事ないことだろうが、私には特別な時間だった。きっといつまでも美しい記憶になる。彼が私をどう思っていようと、どうでもよくなるくらいに。
暫く歩いて、山道と空が垂直になっている事に気づく。もう少しで山頂らしい。やっとだ、と疲れていたはずの足も少しばかり早くなる。杏寿郎様が先に辿り着き、私の方に視線を寄越すとほら、と手を差し伸べ、見てごらんと引っ張った。
「わぁ!」
自然と感嘆の声が漏れる。
見渡すところ一面が秋の色に染まっていた。視界いっぱいに濃淡それぞれの朱色が広がり、圧巻の景色だった。所々イチョウの黄色も混ざり、冴え冴えと黄金に輝く。
そして私は秋が好きな本当の理由を思い出した。夏の名残を残す青々とした葉さえも飲み込まんとする炎のような猛々しさ。それは物凄い速さで色付き広がる。だが、圧倒される存在感に恐ろしさはなく、不思議と安心感が勝る。
まるで杏寿郎様のようだ、と思った。
曖昧な私の中の思いがストンと形になった時、私は自然と口を開いていた。
「来年も杏寿郎様と、この景色を見に行きたいです」
目の前の紅葉から目を離さずに言う。すぐ隣にいる杏寿郎様には聞こえたはずだが、何も反応がないことに不安を覚えて恐る恐る視線を向けた、その瞬間だった。
強い力で腕を引かれ、ふわりと何かに包まれる。移りゆく視界の中に炎を思わせる羽織がはたりと揺れ、私の額はコツンと何かに当たる。
数秒して、私は杏寿郎様の腕の中にいることを知った。
「きょ、杏寿郎様…?」
何が起きたのか状況を飲み込めず、私は目を丸くするほかなかった。頭上から彼の落ち着いた声が降ってくる。
「夢であっても、君が俺を慕っていると聞いて嬉しかった」
それは先日私が漏らした言葉に相違なかった。杏寿郎様はずっと覚えてくださったのか、そう思うと途端に羞恥心が湧き上がった。同時に混乱した頭はどうすればいいかわからず、行き場を失った両手は宙を彷徨う。
バクバクと私の心臓が脈打つ音だけが煩かった。
「えっ、あ、あの」
「俺はいつ死ぬかわからない身だ」
彼の言葉に、先程までごちゃごちゃと散らかっていた頭の中がすうっと落ち着きを取り戻す。
「もし、命を賭すような状況に陥ったとしても俺は君の元へ帰ることより、目の前の命を守ることを優先するだろう」
言われずとも、杏寿郎様が鬼殺隊に入隊した時…いや、もっと前からわかりきっていたことだった。いつの日だったか、一度だけ奥方様の話を聞いた時がある。
その時の光景を思い出すように、私はゆっくりと瞳を閉じた。
彼女は静かに燃える炎のように暖かく、強い人だったという。
私がここに仕えた時には床に伏してる事が多く、会話らしいものはした事がなかった。だが亡くなる直前まで御三方の身を案じ、私にあとは頼みますよ、と優しく凛とした声で言われたのは今でも鮮明に覚えている。
その彼女に " 弱き人を助けることは強く生まれた者の責務だ " と言われたという。
彼はずっと彼女の言葉を守ってきたのだ。
「それでも君には信じて待っていて欲しい」
私の肩を抱く杏寿郎様の腕の力が強くなる。それに応えるように背中に手を回し、縋るように羽織を握りしめた。
鼻先がツンとして、目頭が熱い。私は誤魔化すように彼の胸元に頬を寄せた。どくん、どくんと彼の心臓が脈打つのが聞こえる。
「そして来年も再来年もその先もずっと、君とまた紅葉を見に行きたい」
彼は私の肩を両手を優しく掴み、ゆっくりと身体を離す。私の顔を覗き込む瞳は微かな熱を孕み、真っ直ぐに私を捉えていた。その吸い込まれそうな双眸に目が離せない。
「君は俺の事をどう思っている?」
「……あの、」
「君の気持ちが知りたい」
「私は、」
少し言いあぐねて、決心したように息を小さく吸った。真摯に向き合ってくれた杏寿郎様に私も報いたい。もう自分の気持ちに嘘を吐きたくないし、誤魔化しもしたくないと思った。
「私は、ずっと前から杏寿郎様を…お慕いしております…!」
声が震えてしまった。同時に視界が揺れて、目の前が霞む。それでも目を細めて彼が柔らかく笑ったのがわかった。
「ああ、俺も君が好きだ!」
ーーーやっと山頂まで辿り着いた時には日は傾き、空は夕焼け色に変わろうとしていた。まだ紅葉には早かったらしく、杏寿郎様と見た山火事の如く深紅に染まった景色は目にすることが出来なかった。所々色付きはしているものの、青々とした葉が目立つ。
ふぅ、と深く息を吐くと視線を足元に落とした。
(…私、何をやっているのかしら)
ここに来れば、杏寿郎様に会えると思っていた。しかしそんな事あるはずもなく、彼がもう居ないという事実をまざまざと叩きつけられるだけだった。
彼と見た圧巻の景色も、私と来年も紅葉を見に行きたいという彼の声も、抱き締められた体温も全て鮮明に覚えているのに、その記憶は私の心を蝕んでずたずたにする。
(…帰ろう)
空が橙に染まり暗い影が落ちる頃、私はやっと元の道へ引き返すことにした。踵を反し、下りはもっと注意を払わなければと考えながら視線を移す過程で、暗がりでも深紅に色付く紅葉が目に入った。
どうしてこの一枚だけ、と不自然に思ったが、その鮮やかな朱に引き寄せられるように近づく。手を伸ばし、もう少しで触れられそうなその時、ガクンと足場が崩れ体が傾いた。
危ない!と思った時にはもう遅く、私の体は転がるように下へ下へと落ちていった。
201121