眞洞
真夏の照りつける日差しはなりを潜め、吹きくる風は冷たい線が混じる。庭に降り注ぐ柔らかな光が、秋の訪れを知らせていた。
「はぁ、」
自分でも呆れるほどに大きな溜息を吐く。この清々たる空気とは裏腹に私の気持ちは憂鬱だった。長屋門の前を掃除しようと持ち出した箒をひと掃きし、手を止めてはまた溜息を吐く。私の悩みの種は、先日の杏寿郎様に漏らした言葉だということは明白だった。
" もう一度、言ってくれないか "
彼の真剣な言葉と表情を思い出し、かっと顔に熱が集まる。
(どうして私、あんなことを言ってしまったのかしら)
お慕いしている、なんて。
もし、あの時もう一度その言葉を言ったら杏寿郎様は応えてくれたのだろうか。いや、そんな都合のいいことが起きるはずがない。
私はしがない煉獄家の女中なのだ。もしかしたら、なんて考える暇なく一喝されるに決まっている。それに彼に相応したい女性はもっと他にいるだろう。いや、でも万が一があったら…
何十回、この問いを自分に繰り返したかわからない。後悔と羞恥の念を頭の中から追い出すように、箒を忙しなく左右に振った。土埃が膝小僧まで舞い上がり、これでは掃除しているのか散らかしているのかわからない。
そんなことばかりしているせいか、後ろから近付く影に気づくことができなかった。
「紫亞」
「ひゃっ!」
急に名前を呼ばれ、思わず箒から手を離してしまう。カラン、と箒が乾いた音を立てて転がった。
振り向くと任務から帰ってきた杏寿郎様が目を丸くして立っていた。
「お、おかえりなさい。杏寿郎様」
「ああ、ただいま戻った!」
秋晴れの空に負けないくらいの堂々とした声が響く。私はそそくさと箒を拾うと、汚れてしまった着物の裾を払い彼に向き直った。
「目立った傷はないようで、安心いたしました」
「うむ!君も朝から精が出るな!」
見られていたのか、と苦笑する。あれから杏寿郎様は変わった様子もなく普段通りだ。私はというと気持ちを切り返えることができず、彼の顔をまともにに見れなくなっていた。私だけが気にして置いてけぼりをくらっているような気分だ。先日の出来事は彼にとって何の変哲もない日常に過ぎなかったのだろう。そう思うとちくりと胸の奥が痛んだ。
「休暇を貰った!」
私の気持ちなど梅雨知らず、杏寿郎様が意気揚々と続ける。
「紅葉を見に行かないか」
「紅葉、ですか?」
「ああ、見たいと言っていただろう」
杏寿郎様の言葉に顔を上げる。彼の穏やかな笑顔に覚えていてくれたのか、とはっと息を飲んだ。言った本人でも忘れてしまうような、取り留めのない日常の会話のつもりだった。
どうする?と再度伺う彼に嬉しい気持ちを抑えきれず、気づけば二つ返事で応えてしまっていた。
「では出発だ!」
それから私はいつもの二倍の速さで掃除をし終え、杏寿郎様と軽い朝餉を済ませた。そしていざ!と草履に足を通す。
近場とはいえ、山に登るため、服装はなるだけ動きやすいものを選んだ。杏寿郎様はいつ鬼が出るかわからないと隊服のままだ。いつもと変わらない出で立ちだが、私の気持ちは浮き足立っていた。彼と出かけるなんて久しぶりだ。
私は今朝の憂鬱な気分もすっかり忘れて、杏寿郎様の斜め後ろを付いて歩く。足取りは軽い。彼とならこのまま休まずにどこまでも行けそうだ。
その後、私は自分の考えの甘さに悲鳴を上げることになる。
「す、すみません…」
前かがみになり、片手で胸を抑える。少しの傾斜を短時間歩いただけでこの様だ。その横で仁王立ちをする杏寿郎様は息ひとつ上げずに涼しい顔をしていた。迷惑をかけてしまった、と情けなさと申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「君は一般人だからな、致し方ないだろう。俺も気づくことができずに申し訳ない」
「いえ、そんなことは」
「少し休んでいこう」
杏寿郎様の目線を追って、そちらを見ると簡素な佇まいの茶屋があった。
「おや、串団子や汁粉もあるぞ。何が食べたい?」
「い、いえ、私が買いにいきます」
「いいから。君は休んでいなさい」
諌めるように言われ、素直に長椅子に腰掛ける。彼の今の声音は従わなければ叱られるそれだ。
「…串団子を、お願いします」
「承知した!」
ぽつり、申し訳なさそうに小さく応えると、彼はさっきとは打って変わって揚々とした様子で注文をしに行った。
「ありがとうございます」
「ああ、俺もちょうど小腹が空いていたところだ!」
注文し終えた彼がこちらに戻り、私の隣に腰掛ける。少しして茶屋の老婦が二人分の串団子と茶を私たちの間に置いていった。
杏寿郎様が串団子をひとつ手に取り頬張る。うまい!と山に響くような声が隣から聞こえてきて、私も彼に倣って串をつまむ。
ずっしりと重みのあるそれは、形の揃った団子が三つ連なっており、上には綺麗に炊きあげられた餡子の粒がぎっしりと乗ってある。
ひとつ頬張ると、もちもちとした食感と程よい甘みが口の中いっぱいに広がった。
おいしいですね、と言おうとして彼に顔を向けると、ばちりと彼の大きな瞳と目が合った。
「よかった」
「は、はい。とても美味しくてよかったです」
「いや、」
団子の事かと思ったが、違ったのだろうか。彼に一喝され私の頭には疑問符が飛び交う。
「君が笑ってくれてよかった」
いつもの勇ましい表情から一変、杏寿郎様がふんわりと微笑む。その優しげな瞳から目が離せなかった。
「最近溜息ばかり吐いていただろう」
「…えっ」
「どうしたものかと心配していた」
彼の言葉にどきり、と心臓が跳ねた。杏寿郎様は私の事をよく見てくださっている。そう思うと恥ずかしいような嬉しいような、そしてきゅっと胸が締め付けられるような、様々な感情が押し寄せて私の中で渋滞していた。
それからは団子の味などよくわからなくなってしまっていた。
「もう足の方は平気か?」
「はい!お陰様でだいぶ楽になりました」
「では行こうか」
杏寿郎様が立ち上がり、私に手を差し伸べる。まだ目的地はその先だ。だか、億劫な気持ちよりも彼と一緒にいられる嬉しさの方が大きかった。少し躊躇いながらも、その大きな手のひらに自分のそれを重ねた。
「それでは、お邪魔しました」
草履を履き、玄関先で丁寧に頭を下げる千寿郎様に会釈を返す。
「何もお構いできず、すみません」
「いえ、」
彼が引戸を少し開けたところで、何かを言い淀み振り返った。
「紫亞さん、…煉獄家の生家に帰ってきませんか」
言いながらも彼の視線は下がり、両手は袴を握りしめる。最後の最後に勇気を振り絞って言ったようだった。
彼の言葉に、そうね、と私も考えあぐねる。ここは元々杏寿郎様の御屋敷だ。私のようなものがずっと一人でここにいる訳にもいかない。
ここに来たのだって、炎柱に就任した事で槇寿郎様に勘当された杏寿郎様の面倒をと、彼が頼んだことだった。
杏寿郎様がいない今、私は生家に帰るのが妥当だ。
「…わかりました」
「はい!父には僕から話しを通しておきます」
それでは、ともう一度律儀にお辞儀をして、彼は家路へとついていった。
しん、と先ほどまでは感じなかった静寂が屋敷を包む。彼はもう帰ってこないのか、そう思うと、途端にこの屋敷が仄暗く冷たいところのように思えた。
生家に帰ったら私の気持ちは和らぐだろうか。と考えてすぐに否定した。ぽっかりと空いた胸の穴は、どれだけ時間が過ぎようと塞がらないことを知っている。どうせ、どこに行っても彼を思い出してしまうだろう。
「そうだわ、紅葉を」
それならいっその事、杏寿郎様の思い出を辿って、また彼に会いに行こう、と思った。生家に帰ってしまえば、遠出などできなくなるのだ。
あの目を奪われる程に鮮やかな赤を思い出し、私の足は自然と動いていた。
201116