夜明



それから私は随分と冷たい床に座り込んでいた。太陽が完全に姿を潜め、床の木目が見えなくなった頃、やっと顔を上げる。

半端に開けられた引き戸が、杏寿郎様がつい最近まで私の前にいた事をはっきりと知らしめていた。入り込む夜風が冷えきった身体に追い打ちをかける。先ほどの石のように固まった脚が嘘だったかのように自然と膝は曲がり戸へと進んだ。

「山に行かなければ、」

杏寿郎様に暗くなったら一人で家から出るな、と言われていたんだったわ、と思い出しながらも足は暗闇へと向かう。
夢を見ているのではないか、もしくはとうとう幻覚まで見るようになってしまったのか、という懸念は頭の片隅に追いやってしまった。もう一度、昨年杏寿郎様と見た紅葉の山に行けば、彼にまた会える。それは確信に近い感覚だった。

そして私は沈む意識の中、時が巻き戻ったかのように全てを忘れ杏寿郎様に起こされる。
" 悪い夢でも見たのか " と。








ーーーーーーーー………




「そろそろ出発しようと思う」

「…そう、ですか」

もう何回目だろう、決まって私は彼が任務に出る前に記憶を取り戻す。彼を止めるが為に何度も私は同じ時を繰り返していた。心の中では行かないで、と叫んでいるのにどうしてかいつも声にすることができない。

幾度となく触れてきた彼の髪を丁寧に梳かしていく。

「この髪紐は君が大事にしていたものだったな」

毎回同じ声音で、台詞で、杏寿郎様は話す。私は彼が次に口にする言葉を知っている。彼は果たされない約束をして、私から離れていくのだ。その先の情景を思い出し、知らず知らず櫛を持つ手が震えてしまっていた。

だが、今回は違った。
彼が私の手首をぱしりと掴む。こんな事今までなかった、と驚いて固まっていると彼が私に振り返った。

「俺が君に買ってやったものだ」

彼が私の手の中にある髪紐を見て静かに笑う。穏やかな表情だった。

「君の瞳と同じ色の髪紐だ。俺はいつもこれを着けていると君に守られている気がしていた」

ストン、と私は力が抜けたようにその場に座り込んだ。こんな事、今までなかった。今回は何かが違う。私は好機だと思い、早る鼓動を抑えながら口を開いた。

「…杏寿郎様、今回の任務には、」

「紫亞」

私の言葉を遮り、彼が強い口調で私の名前を呼ぶ。ゆっくりと顔を上げると揺るぎない信念を持った瞳が私を真っ直ぐに見つめていた。

「俺が行かなければ大勢の人が死ぬ」

彼の凛とした声に、はっと息を飲んだ。
わかっていた。私が止めても止めなくとも、彼は戦場に赴く。目の前の困っている人々を放っておけない、そういう方なのだ。
それでも私は彼の手を放せずにいた。

「い、嫌です。私……だって、杏寿郎様は…!」

『……唄杜っ、さん…!』

次の言葉を口にしようとした瞬間、また聞いた事のない少年の切羽詰まったような声が聞こえてきた。声の主を探すように周りを見渡すが、それらしい人影はどこにも見当たらない。ただ、長屋門の先に灯籠のような光が淡く揺れていたのが見えた。

「客だ」

杏寿郎様の声に彼の方へ向き直すと、私と同じように光を見て呟いた。

「見てきてくれないか」

「え…?」

「君の名前を呼んでいる。君の客だろう」

ゆっくりと左右に首を振る。視界が波を打ったように揺れて、今にも涙が溢れだしそうだった。門の外に出たら、杏寿郎様にはもう会えない気がした。

「嫌です、私、ずっとここにおります。杏寿郎様の傍に、ずっと」

「お願いだ」

行ってくれ、ともう一度強い口調で言われ、私は俯いて下唇を噛んだ。下を向いた反動でぽたぽたと涙が落ち床にシミを作る。いつの間にか彼の腕は私の手首から離れていた。私だけが縋って前に進めないでいた。

「これは君が持っていなさい。俺より君の髪に似合う」

私の手を彼の大きな手のひらが包み込み、髪紐をしっかりと握らせる。

「さあ、行くんだ」

門の方から再度、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。それは先ほどより大きく、はっきりと聞こえた。杏寿郎様が私に立つように促す。どこまで強く優しい人なのだろう。本当はもっと一緒に居たかった。取り留めのない話をして、彼のために食事を準備して、おはようを言う朝を何度も迎えたかった。でも、彼はそれを許してはくれない。

杏寿郎様の手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がる。一歩、一歩と後退ると、私の指先は彼の手のひら、指の付け根をなぞっていった。

「お別れだ」

お互いの指先が離れる頃、彼の少し悲しげな、でも安心した笑顔を最後に、私の視界は眩い光に包まれていく。暗闇に飲まれそうだった光は気づけば大きくなっており、それは太陽のように暖かかった。




ーーー目を開けると、刺すような光が視界に広がる。あまりの眩しさに耐えきれず、もう一度目を瞑ってしまった。

「紫亞さん!」
「唄杜さん!」

驚愕と歓喜が混じったような声が聞こえて、ゆっくりと目を開けると、陽の光を背にして小さな影がふたつ、こちらを心配気に覗いていた。一人は千寿郎様、もう一人は見た事がない男の子だった。

「よ、よかったあ、今胡蝶様を呼んできますね!」

千寿郎様が嬉々として立ち上がり、小走りで部屋を後にする。その様子をぼーっと見ていた私は、あまり働かない頭でここはどこだろう、と考えていた。

「ここは蝶屋敷です」

まるで私の考えがわかるように少年が答えた。彼の声にどこかで聞いたような既視感を覚えて視線を彼に向ける。隊士服を着ているということは彼も鬼殺隊士なのだろうか。歳は千寿郎様よりは上に見えるが、まだあどけなさは残る。こんな年端もいかない子でさえ、鬼を倒すために命を削っているのか、と心を痛めていると、少年は忙しなく視線を泳がせていた。どうやらじっと見つめすぎていたらしい。

「俺、竈門炭治郎といいます」

「あ、…わ、たしは」

起き上がろうとして、腕に力が入らず、ぽすんと布団へと逆戻りしてしまう。背中を打っているのか、鈍い痛みに顔を顰めた。それにずっと声を出していなかったのか、寝起きのように掠れて上手く発言できない。

「無理に起き上がらないでください!全身打撲しているんですから!」

全身打撲…と一瞬驚いたが、なるほど、とすぐに納得した。私は山の崖から転落したのだ。では、やはり杏寿郎様と過ごした日々は夢だったのか。

「唄杜さんに用事があって、屋敷を訪れたら何日も帰っていないと近所の方に聞いて。おかしいなと思って少し周りを調べていたら鬼の匂いがしたので、」

鬼とは、彼らが倒している、あの鬼のことだろうか。

「匂いを辿って山に入ったら、崖の下に妙な廃屋があって、唄杜さんはその中に囚われていました」

話によると、私はその廃屋で鬼の面妖な術にかかっていたのだという。居もしない人に話しかけ、ぼろほろの衣服を干し、空の茶碗を二人分並べていたというのだ。
一通り事の顛末を聞くと、静寂が二人を包んだ。にわかには信じられない話だ。なんせ私はその時の事を朧気にしか覚えていない。だが、彼が嘘を吐いているとは思えなかった。

「あの、俺、煉獄杏寿郎さんの唄杜さんへの言葉をお伝えに来ました」

最初に沈黙を破ったのは彼だった。彼の口から出た名前を聞いて、はっと息を飲む。

「杏寿郎さんは、あなたには生きて幸せになってほしいと」

「…そう、ですか」

杏寿郎様のいってくる、と出ていった時の笑顔を思い出し、目頭が熱くなる。涙が溢れだしそうになって、慌てて痛む腕も構わずに手で両目を隠した。その時、何かを握っている事に気づく。なんだろう、と手のひらを開くと行方知れずだった大事な髪紐がはらりと揺れた。

「これ、は…」

その髪紐を見た瞬間、パズルが繋がったように次々と全てを思い出した。
私の手に髪紐を握らせた大きく暖かい手のひらの温度を、私は覚えている。あの時、杏寿郎様が私をここに導いてくださったのだ。

「杏寿郎、様…!」

私は髪紐を両手で握りしめ、嗚咽を漏らす。それを聞いて、少年が俺!と口を開いた。

「俺、煉獄さんのような強い柱になります!彼の意志を受け継いで…!」

私は黙ってそれに頷いた。きっと、隣にいるこの少年が私を助けてくれた。私をずっと呼んでくれた声は彼のものだ。

「炭治郎さん、ありがとう、ございます。私を助けてくれて、杏寿郎様の言葉を伝えにきてくれて…!」

抑えが効かない涙は堰を切ったように溢れだし、枕を濡らした。それに合わせて嗚咽は大きくなる。ずっと、杏寿郎様を探していた。どこにもいないと思っていたが、私が知らないだけでずっと傍にいたのだ。その事を少年が私に教えてくれた。彼の意志と共に私に運んできてくれた気がした。

「おかえりなさい、杏、寿郎様…!」

おかえりなさい、と何度も私は繰り返していた。



201129 第一章完