灯火
曾祖母の手記を見つけた。
私が小学四年生の頃の話だ。もうだいぶ昔のことだったので、どういう経緯で、何を思って読んでしまったのかは忘れてしまったが、あれは真夏のぱっきりと晴れた日だったことは覚えている。群青の鮮やかな空に大きな入道雲が浮かび、蝉の声がところかしこで響いていた。
お盆のため本家の叔母の家にお邪魔していた私は、あまり見慣れない白壁の蔵に目が釘付けになっていた。叔母や母親の目を盗んで重厚な扉を身体を押し付けながら開け、隙間から忍び込む。蔵の中はひんやりと冷たく、明かりといえば高く上にある正方形の窓から入る陽の光のみであった。
物珍しさから小さく感嘆の声を漏らし、自分だけの秘密基地を見つけたようで嬉々として、キョロキョロと忙しなく周りを見て回っていた。そして私は片隅で埃を被って控えめに置いてあった桐の箱を見つける。珍しい物はたくさんあったというのに、どうしてこの箱を開けようとしたのかはわからない。ただ、自然と歩は進み、埃を手で払うと迷いなくそれを開けた。
そこには布貼り織装のノートのようなものが入っていた。紐で綴じられているそれは色褪せてはいるが、大事に保管されていたのが見て取れた。そっと手に取りぱらりと捲ると、古い紙特有の匂いが漂う。古紙であったため黄ばんではいるが、文字はしっかり読めそうだ。綺麗な、だが昔の人特有の流れるような文字や難しい漢字に、当時の私は内容の半分も理解できなかったと思う。だがあんなに煩かった蝉の声も聞こえず、母親や叔母が心配して探し回るくらいには没頭していたらしい。
私はこの切り取られた夏の日の出来事をふと思い出す時がある。
あれは手記というよりも誰かに向けた手紙のようだった、といつも思うのだ。
ーーーーー………
「唄杜先生」
「あ、は、はい!」
先生、なんて、呼ばれ慣れないためか間抜けな返事をしてしまった。さほど気にしていないのか、胡蝶カナエ先生は朗らかな笑顔で続ける。
「最初は慣れないでしょうから、ベテランの先生の助手として授業に参加してもらいます」
「はい」
「今日は一通りオリエンテーションをして、他の先生方に挨拶をして、これからの準備をする感じですね」
「わかりました」
「初めての社会人で緊張するかも知れないけど、あまり気を張らないで気楽にね!」
両手で小さく握りこぶしを作り、がんばれのポーズをする彼女は、この中高一貫キメツ学園の生物教師だ。かく言う私も、晴れて今日からこの学園の家庭科の教師に就任した訳なのだが、つい一ヶ月前まで学生だった私は右も左も分からない新人だ。彼女の目にはおどおどした頼りない学生上がりに見えるだろうに、こうして優しく声を掛けてくださる。彼女の人の良さそうな笑顔にほっと息を吐いた。
「分からないことや困ったことがあったら、遠慮なく声をかけてね!」
「…はい!」
私の返事を聞くと、彼女も満足気に頷いた。そして、職員室と表札が付いた扉を前に立ち止まり、手のひらを扉の方へと向ける。
「ここが職員室です。まずは皆さんに挨拶をして、それから唄杜先生の席に案内いたしますね」
職員室を前にすると、今まで我慢してきた緊張感がどっと押し寄せ、一気に心音が大きくなる。新任の教師は何人かいたが、ここはマンモス校だ。担当が異なる科目だったり、高等部か中等部かの仕分けでちりじりになってしまい、ここでの挨拶は私だけになってしまった。
胸に手を置いて、何度も深呼吸する。
「では、開けますよ」
ガラリ、と引き戸が開けられると、騒がしかった室内が少しだけ静かになった。何人かの視線がこちらに向いたのを感じたが、しきりに見回すのも失礼にあたる。私は少し下のカナエ先生のスカートの襞が揺れるのを見つめていた。
そうだ、私は人見知りだった。
昨日の夜、こんなこともあろうかと何度も自己紹介の文章を考え練習してきた。
キメツ学園は卒業生が先生になる事が多いと聞く。目の前で先導してくれているカナエ先生もここの卒業生らしい。ちなみに彼女の妹であるしのぶさんは私の同期だ。そう、卒業生でもなんでもない私は蚊帳の外の人間なのだ。これからする挨拶でヘマせず、目立たず平和に過ごしていきたい。
彼女がちょうど職員室の真ん中で止まる。私も倣って立ち止まり、つま先を先生方の方へと向けた。
「こちら、今日から家庭科の教師として赴任された唄杜先生です」
先生、さあ。とカナエ先生が私に挨拶をするように促す。私は前で重ねていた手のひらをぎゅっと握り、意を決して前を向いた。
「今日からキメツ学園の家庭科の教師として赴任してきました、唄杜紫亞と申します」
幾つもの視線が私に注がれ、目を逸らしたい衝動に駆られる。がんばれ、私!と自分自身を叱咤して口を開く。
「まだ右も左も分からず、ご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、一生懸命がんばりますので、」
よろしくお願いいたします。そう続くはずだった言葉は出てこなかった。さらり、風に舞うように靡くたおやかな鬣に、はっと息を飲む。
ーーー燃え上がる炎を思わせるような髪色。私は彼の美しい髪に目を奪われてしまった。
彼のきちんと整った薄い唇が、優しい形に笑いをつくる。大きく赫々とした双眸がまっすぐに私を見つめていた。気立てが良さそうな人だ。初めて会ったはず。だが、どこか懐かしい雰囲気を放つ彼に、私は先ほどまでの緊張も忘れて見入ってしまっていた。まるで、時が止まったかのように長い間そうしていたと思う。
どうしてか、彼を見ていると胸の中にぽうっと灯りが点ったように温かかった。それと同時に締め付けられるほどに苦しかった。どうして、こんな気持ちになるのだろうか。彼とは会ったこともないのに。
当分、彼は私と目を逸らすことなく優しく微笑んでいたが、笑顔を崩し密かに目を見開いた。
「唄杜、先生…?」
カナエ先生の声ではっと我に還る。自己紹介中に上の空になってしまった。何を言おうとしていたんだっけ、焦りのためか瞬きを何回か繰り返すと、はらりと雫が落ち床を濡らした。一瞬、何が起こったかわからなかった。それが私が流した涙だと理解した時は、頬が涙で濡れ冷たくなっていた。
途端にザワザワと職員室内がざわめき出す。
「す、すみませ、ん。私、」
何度も指先で拭うが、なぜだか涙は止まることを知らず、むしろ先ほどより酷くなる。
(悲しくなんてないのに。なんで…?)
隣で焦るカナエ先生に心の中で何度も謝って、私は形容しがたい感情にただ戸惑っていた。
201205