02
綾部喜八郎は相も変わらず落とし穴を掘り続けていた。
この作業をしている時は小煩い同室に自慢話を聞かされることもなく、同級生に先日の事で詰められる事もない。彼にとって唯一安らげる時間だった。
「おーい、喜八郎ー!」
頭上から降ってきた声に、はぁと大きくため息を吐く。
「なに?」
鬱陶しさを隠しもしない綾部に、声をかけた張本人である平滝夜叉丸は顔を引き攣らせながら一歩後ずさった。やめておけばよかったと後悔しつつも咳払いを一つすると、ぐいと洞の中を覗き見る。
「最近落とし穴の数が多すぎやしないか?」
「それがどうかしたの」
この時の綾部のどうかしたのか、は疑問詞ではないことは明白だった。それの何が問題なのか、煩い、ほっといてくれ、そんな趣旨を含んだ声音だったことは滝夜叉丸も十分承知である。それでも彼は同級生として、そして同室として伝えなければいけなかった。
「下級生のよい子たちが困っているぞ」
「落とし穴に気づかない方が悪いのでは?」
ふん、と外方を向ける綾部に、やれやれと滝夜叉丸は肩を落とした。
自業自得、彼の常套句だ。
「学園長先生に叱られても知らんからな!」
そう言い捨てて、滝夜叉丸は学園内に戻っていく。彼の背中を目で追った後、綾部は愛用している踏鋤を地面にぐさりと突き刺した。
落とし穴はまだ2つ目。これからだという時に水を差されてしまった綾部は、すっかりやる気をなくしてしまった。
ふう、とひとつ息を吐くと、あらかじめ用意してあった鉤縄を使い落とし穴から這い出る。自室に戻ろうと歩を進める途中で何か違和感がした。
…先程掘ったばかりの落とし穴がぽっかりと空いていたのだ。
「…おやまぁ」
綾部は踏鋤を肩にかけると踵を返し、落とし穴の方へと向かう。
それにしても今回は罠に掛かるのが早すぎやしないか。
間抜けな下級生か不運な善法寺伊作先輩が出るか、はたまた予想だにしなかった何者か。
綾部は怪訝な表情を浮かべながらも、少しの好奇心と期待を込めて、ゆっくりと穴を覗き込んだ。
「げっ」
綾部が惜しみなく不快げな声をあげると、穴の中の物陰がこちらに視線を寄越す。数尺先からでもわかるほど、絹のような黒髪がさらりと肩を流れ、綺麗に落ちていくのが見えた。
綾部は数秒前の自分を呪いたくなった。穴に落ちていたのは、ここ数日彼が鬱憤を晴らすために穴を掘り続ける元凶となった人物、久世紫月であった。
彼女は穴に落ちたにも関わらず、落ち着いた態度で
、むしろゆったりと足を伸ばしている。
綾部の心境と裏腹に、彼女は彼の姿を確認すると、ふんわりと人のいい笑みを浮かべた。
「綾部喜八郎くん」
「…どうして僕の名前」
立花先輩から聞いたに違いない、とわかりきっていたが、綾部は動揺から聞き返してしまった。
「仙蔵に聞いたの。穴掘り大好きで天才トラッパーの綾部喜八郎って」
あなたのことだったのね、と久世は立ち上がりながら忍装束に付いた土埃を払う。まるで綾部がここに来ることがわかっていたような態度だ。
「どうしてこんなところにいるんですか」
「落ちちゃったの」
落ちた?優等生と言われている久世紫月が?だが、それ以上に気になったのは、彼女の余裕ある態度だった。
「助けてくれない?」
彼女の視線が綾部の右手に握られている鉤縄に向けられる。数秒彼はぎゅっと縄を無意識のうちに強く握りしめると、諦めたように肩の力を抜いた。
「あなた、こんな下級生の罠に引っかかるなんて、忍者向いてないんじゃないですか?」
たっぷりと皮肉を込めて言い捨てる。久世は貼り付けていた笑みを崩すと、微かに目を見開いた。
暖かく穏やかな風が綾部の髪を揺らし、桜の花びらが数枚、ひらりと目の前に舞い踊る。
彼女の黒曜石のような瞳が綾部を映し、微かに揺れたと思うと、花が綻ぶように微笑んだ。
「そうかもね」
慈しむように細められた瞳が一身に向けられ、綾部は一瞬たじろいだ。どうしてか彼女から目が離せない。この空間だけ時がゆっくりと進んでいるようだった。だが、すぐに気を引き締め、ぎゅっと唇を固く結ぶ。
綾部は縄を投げ下ろすでもなく、ただ穴の縁に腰を下ろした。
視線の先には、土埃を払いながらも余裕を崩さない彼女。
「……そうかもね、って、あなた笑ってごまかしてるでしょう」
「ふふ。見抜かれた?」
久世は頬に手を添え、小首を傾げる。表情は柔らかいのに、どこか挑発するような光を帯びていた。
綾部は眉をひそめる。
この女は何がしたいのか。後輩を揶揄いたい、ただの暇人でもなさそうだ。
「……わざとですよね」
ぽつりと綾部が言うと、久世は目を細めた。
「わざと?」
「わざと僕の落とし穴に落ちたんじゃないかってこと」
一瞬の沈黙。
風が吹き抜け、桜の花びらがまたひとひら、穴の底に舞い落ちた。
久世はそれを拾い上げ、指先で弄びながら口角を上げる。
「──もしそうだったら?」
心臓がどくりと鳴った。
問い返す言葉を探す間もなく、彼女は続ける。
「あなたと話したかったの。こんなふうに、誰にも邪魔されずに」
「僕と……?」
思わず素の声が漏れる。
その瞬間、彼女は縄を求めることもせず、ただまっすぐに綾部を見上げた。
その瞳には、優等生としての仮面の下にある、ほんの少しの寂しさと本音が隠されている気がした。
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