01
「紫月は死んだよ」
ぽっかりと切り取られた空から、風を切るような声が降ってきた。
綾部は額に伝う汗を拭うことも忘れ、天を仰ぐ。楕円の端から6年い組の立花仙蔵がこちらを見下ろしていた。太陽を背にした彼の顔は陰になり、表情までは読めない。時刻は正午を回っていた。
立花の言葉を聞いてもなお、綾部が考えていたのは、どうしてここにいるのがわかったのかということだった。
この穴は誰にも見つからないように人通りを避けた場所に掘ったのだ。
唯一、彼女だけにわかるように。
そこまで考えて、はっと息を呑むと大粒の汗が目の中に入り思わず目を瞑った。
下を向けば、ぽたりと雫が地面に落ち濃いシミを作る。
「おまえがずっと彼女の影を追っているようでは困る」
立花の声に誘われるように再度ゆっくりと顔を上げる。
僕が彼女を…?
綾部の表情を見て、立花が困ったように小さく息を吐いたのがわかった。
無自覚か、と立花が呟く。
「ほどほどにな、体を壊すなよ」
「…はーい」
綾部の気の抜けた返事を聞くと、立花は後ろ髪を引かれる思いで踵を返す。
立花が去った後も綾部は暫くの間、虚空見つめていた。
久世紫月が死んだ。
頭の中で反復するが、およそ理解が追いつかなかった。それは言葉の羅列にすぎず、彼女は今もどこかで生きているような気がした。
彼女がいつも冗談を言うときに使う " なんてね " という常套句を携えて、今ここに現れるような気さえした。
綾部は手にしていた踏鋤を地面に置き、腰を下ろす。背を端に寄せ、ぼーっと土壁を見つめた。無意識にもうひとり分、座れる空間を取っておくのが癖になっていた。
綾部が久世紫月に対する感情は形容し難いものだった。
尊敬というには堅苦しく、恋慕というには早熟すぎた。それでも彼女の存在は綾部にとって、まごう事なく特別だった。
いつからそうなったのかはわからない。彼女の第一印象は最悪だったはずだ。
彼女に初めて会ったのは、忘れもしない綾部が2年生の春だった。
ーーーーー………
久世紫月は学園内では知らない者はいない、というほど有名人だった。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とは、まさに彼女のことを指すのだと誰もが口を揃えた。頭脳明晰、実技も完璧。だが彼女は鼻にかけず、常に穏やかで笑みを崩さない。困った者がいれば手を差し伸べる、その姿が男女問わず憧れを集めた。
学園内にいれば、彼女の名前を聞かない日はない。下級生からは久世先輩にお願いすれば、上級生からは久世がいれば、教師からは久世なら安心だ、という声が飛び交う。
綾部の学年も習うように、彼女が何かしら功績を残す度にきらきらと瞳を輝かせた同級生によって話の種になっていた。
ただ1人、綾部を除いて。
「久世紫月です。よろしくね」
薄桃に色付いた唇から発せられた音は、鈴を転がしたような声だった。
切れ長だが丸みを帯びた瞳が細められると、綺麗に縁取られた睫毛が影を落とす。
食堂は昼時だからか結構な人数がいる。それにもかかわらず、後ろの生徒が息をのむ音が聞こえるくらいには静まり返っていた。
それほどに皆、綾部と彼女の動向を興味深々と伺っていたのだ。
綾部は顔色を崩すことなく、隣に黙座する立花仙蔵に視線を向ける。久世紫月を紹介してきたのは彼だ。
彼は綾部と目が合っても、不思議そうに目を細めるだけで助力する気がないようだ。
綾部はもともと委員会で立花に用事があった。だが、この状況はなんだ。食堂で立花の姿を見つけ、近寄ると隣には先客の姿が。それも巷で噂の久世紫月だ。立花は彼女がひとつ上の学年にも関わらず、砕けた口調で話している。肘が触れるほど距離は近く、談笑を続ける2人は所謂 " お似合い " だった。
立花に向けていた視線を久世に戻す。
彼女の肌は陶器のように白く、鼻筋はすっと通っている。瞳は硝子玉のように澄んでいた。
まるで人形のようだ。
そう、作り物のようだった。その笑顔も、その言葉も、仕草でさえも彼女の心は宿っていない。周りの生徒たちは観客。彼女はあらかじめ用意された台本に沿って演じているように見えた。
…不気味だった。
綾部が何も反応を示さないことを不思議に感じたのか、彼女が首をかしげる。立花のものと似た艶やかな黒髪が揺れたのを見て、綾部は漸く眉間に皺を刻んだ。
「本当にそう思ってます?」
綾部の言葉を聞いた久世の笑みが、まるで手のひらに落ちた雪のように消えていった。
細められた目は丸く見開かれ、弧を描いていた唇は本来の形を取り戻す。
まさに呆気に取られた、という表情だった。
「それに僕はあなたとよろしくするつもりなんてありませんから」
そう言い捨て外方を向ける。先ほどまで静かであった食堂が、波ひとつない水面に小石を投げ込んだようにざわめき出した。
“ 久世先輩の申し出を断ったぞ "
" あの2年は誰だ "
所々聞こえてくる声に綾部はさらに眉を顰める。どうしてこうも苛立ってしまうのか、久世紫月のことが気に入らないのか、綾部自身もわからなかった。ただ、ここから1秒でも早く立ち去りたい気分だった。
「それでは、僕は戻りますんで」
「ま、待て!喜八郎!」
口をへの字にして踵を返す綾部に、先ほどまで黙っていた立花が漸く立ち上がる。
先輩からの制止の声も無視をして、綾部は歩みを早めた。
綾部の後を追おうと立花が一歩踏み出した時、右腕をぎゅっと掴まれる。
「いいよ、仙蔵」
後方からの声に立花が咄嗟に振り返る。彼を止めたのは言わずもがな困った顔で笑う久世だった。彼女の顔を見て、前方に伸ばした腕がゆるゆると下がっていく。立花は綾部を追うことを早々に諦め、彼女と同じように眉を下げて微笑した。
「紫月、悪いことをしたな。少々変わってはいるが、悪いやつではないんだ」
「ううん、気にしてないよ」
久世は立花から視線を綾部に向ける。小さくなる後ろ姿に目を細め、口元はゆっくりと弧を描いた。
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