これでよかったんだ

未だに深さを知らぬ碧。見たことのない波の色。楕円の気泡は、ない空を目指して儚く消える。私の心に巣くう海。ここより深い底無しの海。全てを飲み込み、全てを無に還さんとする。

この寛大な碧は私の体を抱いてはくれない。手を伸ばしても誰も掴んではくれない。ここには何もない。

薄れゆく記憶の中、彼の名前を呼んだ。何度も、何度も。祈るように。


どうか、あの子だけは、と。




幕開け




初夏といっても夜は冷える。
湿気を帯びた空気に混じって、濃い血と鉄の錆びた匂いが、今戦闘が終わったことを告げていた。

辺りは何事もなかったように静寂に包まれ、消えかけた電灯の灯りだけが仄かに彼の居場所を私に伝えようとしている。

「アレン…」

私は聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた。彼は動かなくなってガラクタに成り下がったモノをただ一点に見つめている。今回の敵は、親の死を嘆いた少年のAKUMAだった。その事実が彼と出会ったあの夜を彷彿とさせ、小さい背中が過去の彼を思い起こさせる。

彼の頬に一筋の光が流れた。滴り落ち、地面に染みを作る。私は居たたまれなくなって、やってはいけないと解っていても視線を逸らさずにはいられなかった。

また、あの目をしている。
責めるような、失望するような、自分の行いが正しいのか間違っているのかわからないといった目だ。

「アレン」

もう一度、今度は聞こえるように名前を呼ぶ。なるべく落ち着いた声で、静かに、優しく。

「…レティ」

こちらに視線を移した彼は、はっとして乱暴に涙を拭う。衝動で彼が握っていたであろうネジやボルトがカラカラと渇いた音を立て、落ちた。

「…どうして」

彼は一言紡んで視線を逸らす。眉を寄せ、唇を噛む姿が痛々しい。それから彼が口を開くことはなく静寂が二人を包んだ。ああ、可笑しいなと時々思うときがある。強大な神の力を手にいれたとしても、一番守ってあげたいと思う子さえ、救ってやれない。私は彼の苦しみを全て解ってはやれない。彼の痛みを全て癒してはやれない。 伏いて濡れた地面を見つめる。ロンドンは湿気を帯びていつも冷たい。この街の空気は私と彼を隔てて、彼を覆うように、私を遠ざけるように拒絶している。そんな妄想がひどく私を傷心させた。

「帰ろう」

彼の手を引く。私の手に収まるくらいの小さな手。これから恐ろしい何かが起こることを悟るように小刻みに震える手。それでも助けを求め縋るように、遠慮がちに握り返す弱い力が、彼の声にならない声を伝えようとしている気がした。

この子は、私が守ろう。守る、絶対に。守る。まるでその言葉しか知らないみたいに、何回も頭の中で繰り返した。このこは、わたしが、まもる。


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