この青さが
やがて灰になろうとも
※学パロ/事後



 私も彼もほかの同級生よりマセていた。特にウィリアム――ビリーの方は、同い年の男子の中でも飛び抜けて大人びていて、ついこの間中学を卒業したばかりだとは到底思われぬほど達観したところのある少年だった。私も周りの友人に「名前はおとなっぽいね」などと言われたことはあったけれど、私の「おとなっぽい」というのは彼の持つ「おとなっぽい」には遠く及ばないものだったのだ。


 よく晴れた暑い夏の昼下がりだった。
 銀のサッシに囲まれた窓の向こうではセミがジワジワとけたたましく鳴いていて――ビリーはこれを「砂嵐みたいであんまり好きじゃない」と話していたものである――、突き抜けるように青い空にはもくもくと膨れ上がった入道雲がいくつ浮かんでいた。近々取り壊しが決まっている旧校舎の、今や使うものもいない空き教室には最新式のクーラーの代わりにちっぽけな扇風機が数台、天井から床に向けて設置されている。
「今もつくと思う?」
「さぁ?でも案外ついたりするかもよ、……ほら」
 と、こんな調子でスイッチを入れた扇風機はくるくると懸命に羽を回して、立ち入り禁止の教室でうだるような熱とどっと重たい倦怠感を持て余す私たちを涼しくさせようとしていたが、悲しいかな、素肌を撫ぜる風はなんとも言えず生ぬるいものだった。
 気だるい身体に鞭打って汗を拭うのもそこそこに下着を身につける私を、彼はうっすら埃の積もった机に座って、何を言うでもなく眺めていた。
「あんまり見ないでほしいんだけど……」
「うん」
 ごめん、と言いつつ目線が逸らされる気配はない。
 こんな明るい教室で肌を重ねておいて何を今更恥ずかしがっているのかという疑問は尤もだと思うけれど、それとこれとは別だ。先程までは彼も私もまともに頭が回っていなかった。体内の水分という水分がことごとく蒸発してしまいそうな灼熱の中、ぴたりと一分の隙間もなく身体を合わせてただ互いを求めるだけの獣に堕ちるというのは、そういうことなのだ。
 しかしまぐわいを終えた今は違う。まともに働いていなかった理性がじんわりと戻ってきて、男に肌を晒しているのがひどく恥ずかしくなった。そうして晒け出された肌をまじまじと見つめていられるのも、兎角に居心地が悪かった。
 とにもかくにも早く服を着てこの場を後にしたい――そういう思いが強かったのだ。

「ビリー」

 そう彼の名前を呼んだ声は、自分で思っていたよりずっと低かった。
 咎の色を多分に含んだ声音にもしかし彼は臆することなく、
「つれないなあ、さっきはウィリアムって甘えてたのに」
 とからりと乾いた笑みを浮かべる。夏空の下によく似合う朗らかなそれは、つい先日まで教室で見ていたものと寸分違わない。人好きのする笑み。女の私から見ても愛嬌のある可愛らしい笑顔だけれど、ことに及んだ後に向けられるそれは不思議と艶を帯びて見えた。

「……それはそうだけど。でも別でしょ」
「そう?」
「そうだよ。本当、いつまで見てるの、あっち向いてて」
「はいはい、わかったよ、見なければいいんだろ。見ないからそんな目で睨まないでよ」

 ビリーはそう言ってふいと顔を横に向けた。見ない、ということをより確かにするためだろうか、少し切れ長のつり目はそっと伏せられている。――男のくせにくるんと上へカールした長い睫毛や、美しい曲線を描く鼻先から顎にかけての輪郭が何となく憎たらしかった。
 私が制服を着直して、カッターシャツやスカートについたしわをいかにして誤魔化すかと格闘する頃になっても、ビリーの服装は乱れたままだった。「暑い」とただそれだけの簡単な理由で、ワイシャツは袖を通して終わり、スラックスも足を通して終わり、という凄惨な有様である。はだけたままの襟元から覗く赤々した鬱血痕がいやに生々しくて堪らず目を逸らした。あれはまあ、きっと私がつけたに違いないのだ。いつつけたのか、何だってそんな目立つところにつけてしまったのか、甚だ謎ではあるけれど。

「……前閉じないの?」
「だって暑いし身体もだるいし」
「早く閉じて教室に戻るっていう選択肢は?」
「うーん、……」

 気乗りしないとでも言いたげな表情を浮かべ、ビリーはごくごく小さな唸り声を上げた。
 冷房設備の整った新校舎の方へ移動すれば無論ここより暑さはマシになる。身体がだるいというなら――これは私も同じことだけれど――それこそ保健室へ行ってしまうとか、そういうのもまあ良いのではなかろうか。怪我や体調不良で駆け込んでくるであろう運動部員の手前、事後の倦怠感でベッドを使用してしまうというのは何とも罪深いものだとは思うけれど、しかし横になれるだけずっと良いはずだ。それはビリーも重々わかっているだろうに何をそんなに渋ることがあるのだろう。
 彼の思惑をはかりかね、そのままジッと堪えて返答を待っていると「うん、」とビリーが浅く頷いた。
「名前が閉めてよ、そしたら君の案に乗っかるから」
 はい、とゆるく腕を広げるビリーからはどうしてか有無を言わせない圧力を感じる。私が彼の制服を閉じてやらない限り本当にここから動かないつもりだろうか――……、そんなことを真面目に考えてしまうくらいの迫力だった。

 置いて行ってしまったって良いのじゃないかとそう囁く意識もあったが、しかしこんな蒸し暑いところに一人で放っておくのも良心が痛む。放置、これはいくら何でも悪手だ。ビリーの子供じみた我儘に驚くような、呆れるような、そんな複雑な心境になったからと言って、放置だなんていうのはあんまりである。下手をすると人としてどうなんだと疑ってしまうかもしれない。
 けれど素直に、彼のシャツを留めてやるのもスラックスにベルトを締めてやるのも癪だった。ビリーとそういう流れになって――拒むことができたにもかかわらず――そのまま身を委ねたのは、ただ単に欲を持て余していたとか好奇心を抑えられなかったとかそういう理由が全てではない。彼がどうあれ私はビリーを憎からず思っていて、それ故に「彼とならいいかなぁ」とビリーに身体を許したのである。が、だからといって馬鹿正直にボタンを留めてやるほどの関係でもないとも思う。
 夏という季節に呑まれて肌を重ねただけのクラスメイト。そんなところが妥当じゃないだろうか。

「……ネクタイ締めるくらいなら」
 と返した私にビリーは「OK」と短く返答した。「じゃあ君が締めて」そんな言葉と一緒に細いストライプの入った指定のネクタイが放られる。それをどうにかキャッチして手持ち無沙汰に少しいじってみたり、眺めてみたり、そういえばネクタイの締め方ってどうだったっけと脳内の引き出しを開け閉めしたりする視界の隅で、彼がシャツのボタンをひとつずつ留めているのが見えた。
 気持ち程度に日焼けしたような色合いの、同級生と押し並べても一見しただけで華奢だと分かるような細い――というか薄い――身体が、眩しいくらい真っ白なワイシャツの生地に覆い隠されていく。ことの最中は彼から与えられる快感を受け入れるのに必死で、あまりまじまじと見つめたり観察したりする余裕などなかったが、こうして改めて見てみると華奢だの薄いだのと言った彼の身体にはうっすらと筋肉が浮いていた。細マッチョだかなんだか少し前に流行った言葉に当てはめるにはいささかの無理がある。とはいえ全く筋肉がないというわけでもない。らしい。

 ――この学校にプールがなくて良かった。

 まず滅多にお目にかかれない素肌にチラチラと視線を惹かれつつ、我ながらそれでよくただのクラスメイトが妥当だなどと大口を叩けたものだと呆れ果ててしまうほど、単純でその上馬鹿げたことを考えた頭に、あ、と小さな驚嘆、あるいは歓声が飛び込んでくる。
「何さっきから見てるのさ、」
 あんまり見ないでほしいんだけど。
 そう言った彼の声には揶揄の響きが見え隠れしていた。先刻私が投げたものと一言一句違わない言葉に「ごめん」と形の上では謝っておく。いや、半分は本心からの謝罪だ。残りの半分はまあ形ばかりのものであるが。
 とにかく私は半分の本心のためにビリーからすっと視線を逸らした。「いつまで見てるの」というのも口にするつもりだったのだろうか、ビリーが何やらほんの少しだけ肩を落としたのが、かろうじてギリギリ目に入ったがわざわざ逸らしたものを戻すのも少し間が抜けているように思われて、わずかばかり落ち込んだ素振りのビリーを振り返るのはやめにしておいた。


 一つ一つ丁寧にボタンを嵌めて、彼は今一度こちらに視線を向けると今度こそ「はいどうぞ」と言わんばかりにほんの少しだけ腕を広げた。
「君が結んでくれるんだろ?」
「うん」
 首肯して彼のそばへ足を進める。ビリーは相変わらず薄茶色になった天板の上へ浅く腰を下ろしていた。すらりと床に向けて伸ばされた足の間へつっと身を滑り込ませた私を、すかさず彼の腕がゆるく捕らえて囲ってしまう。そんな風にしなくたって別に逃げ出したりなどしないし、ちゃんとタイも結んでやるのにと不思議に思いつつ、ネイビーのネクタイを襟にくぐらせる。その拍子、制服の襟がわずかばかりずれた下からちらりと花びらにも似た痕が顔を覗かせた。
「ボタン、一番上まで閉めたほうがいいかも」
 なんてことない顔を装いながらぽそぽそと告げる。
 色素の薄い彼の肌に、紅いキスマークがぽつんと残されている――それがいやに蠱惑に映って、何やらそわそわと心の臓が落ち着かなくなって。無意識のうちに震えてしまった手に、ビリーは気づいただろうか。
「教室の前で閉めるよ」
「誰かとすれ違うかも」
「そんなに気にしなくたって良いじゃない。こっちに来る奴なんかきっといないよ」
「そう、かもしれないけど」
 そうは言っても私たちみたいな不良生徒がやってくるかもしれない。教員による見回りがないとも限らない。私たちの秘事が誰にも見つからずに終わりを迎えられたのも、ただ運が良かっただけかもしれないのだ。

 今更この行為が露呈するのがひどく恐ろしくなって眉を寄せてしまう。きゅ、と締め終えたネクタイをどこかおかしくはないだろうかと窺う私は、そんなに情けない顔をしていたのだろうか、ビリーが安心させるように背中を優しく叩いて、
「渡り廊下のところで閉める、なら構わない?」
 と耳元に落とした。「もし途中で誰か来たらすぐに閉めるから」
 それで許してもらえると嬉しいんだけどと困ったように笑う声に、半ば渋々ながらもこくりと頷く。自分たちの教室に戻る一歩手前でないならそれだけでもありがたいことだと喜ぶべきだろう。「それなら、」と小さく呟く私に彼は短い礼を述べた。お礼を言うのは私の方なのだから――と言うかむしろ謝るべきであるように思う――、と開いた口は、しかしはくはくと動くばかりで一向に声を発することができない。
 先の行為で喉が嗄れてしまったのではない。本当に上手く舌が回らなかったのだ。
 それでもビリーは何かわかった風に「うん、うん」と相槌を打って、
「君は何も気にしないで良いよ、……難しいかもしれないけど。もし何かあっても僕が誤魔化すから心配しないで」
 ありがとうと言えば良いのか、ごめんと言えば良いのかわからなかった。青さに身を任せたこの行為の後処理の責任を全て彼に背負ってもらう、というのは無論とても楽なことなのだけれど、それ以上に申し訳が立たないように思われる。
 だってこれは、彼だけの犯罪ではないのだ。

 結局私はしばし逡巡した後に「ごめんね」とだけ返した。ビリーはかすかに首を振って「悪いのは僕も同じだから」と優しく頬を撫でたかと思うと、とん、と軽く額に口付ける。やわく押し付けられた唇が一瞬囁くように動いて、そうしてゆっくり離れていく。ぱっと顔をあげ、まじまじとビリーの顔を見つめた私を、彼は少し困ったような……それでいてとても穏やかな眼差しで見つめ返してきた。彼の冬色の両目は柔らかくくすんだまま、その奥底にわずかな甘さを孕んでいて。

 ――まるで慕わしい誰かを見る時のような。

 ふっと湧いて出てきたひどいうぬぼれに彼には気づかれぬようかぶりを振って、きゅ、と締め付けられるような胸の痛みをなかったことにする。そんな考えはいくら何でも虫が良すぎるというものなのだ。どこまでも私に都合のいい想像を振り払い、戻ろう、という彼の言葉にこくりと頷く。
 教室に戻った彼は瞬く間にクラスの日常に溶け込んで、いつも通り、少し大人びて、しかし親しみやすい同級生の顔になっていた。私もそれに倣うようにして笑いながら、非日常から日常の中へ入っていったが、果たして彼ほどうまくできていたかはついぞ分からなかった。




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