それから最後に、心
愛も心臓もまがい物の続き



 彼女の隣は居心地がいい。
 そう気づいたのは彼女を三回買った後だった。
 彼女は僕が所属する組織の経営傘下に置かれた娼館の娼婦をやっている。とびきりの売れっ子というわけではないようだったけれど、穏やかで丸い雰囲気といい、娼婦という職業に対する真摯な真面目さといい、もう少し派手な身なりをすれば――彼女は店の中でも比較的質素な、着飾らないほうだった――すぐにでも男の目を惹いて大人気の売れっ子になれるような素質があるように思われた。と同時に、自分の稼ぎをぱっと使ってしまわないできちんとしまっておいたり、あるいは寄付なんかをしたりしている彼女の、いかにも素朴で純粋そうな顔立ちや立ち居振る舞いが、派手な化粧や装飾品で損なわれてしまうのは惜しいような気がして。
 娼婦に本気で入れ込むなんて、そんな間抜けなことはないと思っていたのに、自分が知れず彼女に惹かれていることに気づくのにそう時間は掛からなかった。
「僕は君と過ごせるだけで充分楽しいんだ。貰っておいて。それであとは君が自由にしてくれ」
 そう言って半ば押し付けるようにしてチップを払った時には、少なからず惹かれていたのだ、と思う。「君と過ごせるだけで充分楽しい」――……これは自分でも驚くことに、本心から出た言葉だった。

 彼女――名前と隣り合って酒を飲んだり、ただ言葉を交わしたりするだけでも僕は充分満足だったのだ。性の萌芽がある前の無邪気な少年のような心に、一切の戸惑いがなかったと言えば嘘になる。僕はもう長いこと後ろ暗いマフィアの世界に身を置いていて、純粋な子供にはとても見せられないような男女の戯れや、明るい陽の下で笑っている人々には到底話せないような悪行に手を染めて、そんな無邪気な、あどけない純真さはとうの昔に捨てたはずのものだった。それが手元に一時でも舞い戻ってくるというのは、ある夜には喜ばしく、ある夜には恐ろしかった。彼女は僕に安心と歓喜とを与えたが、同時に瑣末な不安と自分がまるきり作り変えられてしまうような恐怖――不思議なことにこの恐怖は心地のいいものだった――をも与えた。
 僕が彼女に会うのを辞めなかったのは、名前の隣で得られる、僕には不似合いなほどの無防備がひどく心地よかったからだ。



 でもやっぱり、この前のは失敗だったかな、とほんの少しぎこちない彼女の接待を受けて考えた。アルコールが程良く回ってきて、胸のあたりがふわふわと軽くなって、頭の中が少し緩んで、気分が良くなって。それでつい「大切に思っている」「愛してると言ってもいい」などと言ってしまった。
 彼女が――否、彼女と僕が身を置いている世界というのは、そういう言葉が要らない枷になる世界だ。無論うまく受け流してしまう人もいる。僕も今まではどちらかというと受け流す側の人間で、嘘でも本当でも愛を囁いたり囁かれたりすることはあってもそのどれも気にしたことはなかった。だが、彼女はそうではない、らしい。彼女はあれから二週間経った今でも、どことなく頬を赤らめてぎくしゃくと下手くそな挙動を起こしている。
「大丈夫かい?」
 危なくロックグラスを倒しかけた彼女に堪らずそう問いかけた。名前は少し怯えたような顔をして丸みを帯びた肩を揺らし、「大丈夫です」とややあって答えた。

「ビリーさんこそ大丈夫でしたか。かかったりしませんでした?」
「大丈夫、かかってもないよ。僕のことより君のほうが心配だけど」

 体調が悪いの、ととぼけたふりで問いかけると、彼女は静かに首を振ってそれを否定する。そうして「ビリーさんの心を煩わせるほどでは。……でも、ありがとうございます」とこの前同じ部屋で会った時と同じ言葉を口にした。
 彼女は良くも悪くもとても真面目だった。僕が放った二言であれほど動揺していたのに、娼婦とその客という線引きをどこまでも守ろうとしている。寄りかかってくれても、というとそれはひどい我儘だけれど、それでも僕のせいだと詰ることくらいしたって許されるはずなのに、と思わずにはいられない。僕はつまるところ、必死で割り切ろうとしている彼女から、その線引きを取っ払ってしまって、もっと進んだ親しい関係になりたいという衝動を抱いているのであった。それに従わないのは、そんなことをして一方的にぶちまけたところで名前を困らせるだけだとわかっているからだ。

 僕と彼女とは、金で女の子を買う男と、買われる女の子という関係を保たねばならない。

 これは多分、この世界の不文律だ。破ることは容易だけれど、それが彼女を幸福にするとは限らない。
「そう……なんだか顔が赤いみたいだったから、どこか悪いのかなって思ったんだけど、うん、そうじゃないならいいんだ」
 薄い金色にきらめくアルコールを注いだグラスを傾けながら、慎重に言葉を選んでいく。下手に踏み込むようなことを言ってはいけない。かと言って冷たくてもだめだ。彼女の様子を窺うと、やはりほんの少し肩が強張っていた。
 二人の間に横たわる沈黙は妙に重苦しく居心地の悪いものだった。数ヶ月をかけて築き上げた、沈黙が苦でない関係、というものがあの一夜で全部だめになってしまったような気さえする。僕らしくもない弱気な空想に内心ため息を吐いて、彼女が何か言うのをじっと待った。
 彼女は十数秒……あるいは数分の間黙していたが、やがて意を決したように、それでも恐る恐ると言った風に口を開いた。

「たぶん、ちょっと緊張してるんだと思います」
「緊張?」と気づかないふりを装って答える。
「……その、ビリーさんがいらっしゃるのは、なんだか久しぶりだから」
「確かに久しぶりだけど、……そんなに緊張してるの?」
「ちょっとです、ちょっとだけ……」

 言いながら彼女はグラスを勢いよく傾けて、一気にバーボンを呷ってしまった。僕が止めに入るだけのゆとりさえないその行為ににわかに心臓が逸る。
「一気に飲んで平気なの、君そんなに強くないんじゃなかったっけ」
 彼女は大抵の場合グラス一杯をゆっくり空けるのだ。それをいっぺんに飲み干してしまっては、と腰を浮かせて隣へ行くと、名前は「まあ、なんとか」と舌足らずに言って一層顔を赤らめた。それが酒によるものなのか、それとも――自意識過剰との謗りは覚悟の上だが――僕が近づいたことによるものなのか、今となってはもはやわからなかった。
 ちょっとの緊張を誤魔化すためにバーボンを勢いよく飲み干した彼女の視線は早くも定まらなくなっている。別な新しいグラスにピッチャーから水を注いでそっと渡すと、彼女は存外素直にそれを受け取って、一口、二口と飲んで、ぽつりと「ビリーさんが、」とこぼした。
「ビリーさんがこの前言われたことが、気になって。……私の立場でそれを気にするなんて、やっぱりおかしいし、不似合いだとも、思ったんですけど」
 酔った彼女の口からこぼれ出た独白に、僕はつい黙り込んでしまった。
 酩酊状態の彼女から、彼女の本心とも言うべき言葉を聞くのに罪悪感を覚えなかったわけではない。だがそれ以上に、彼女を少なからず想ってしまった僕の心のほうが――あるいは身体もひっくるめて――、彼女の感情が自分の予想とあっているか、名前が以前の出来事をどう受け止めたのか、この場で聞きたいと叫んでいた。ちっぽけな罪悪感などというものは、その咆哮に跡形もなく掻き消されて、胸中に激しく渦を巻く本能の中にあっという間に飲み込まれてしまった。
 どこか怯えているような調子で彼女は言葉を落としていく。

「……私、本当に嬉しかったです。ビリーさんに、その…………大切に思ってる、って言われて、それに、あ、愛してるとまで言われて、本当に嬉しかったんです。でも私は娼婦ですから。そういう風に言われて喜ぶなんて、……きっと私が思ってるのとは、全然違う意味なのに――そんな意味で使われるはずもないのにって思ったら、うまく笑えなくなってしまって」

 今日も心配をかけてしまった、とそう呟いた彼女の声は、不自然に震えていた。思わず伸ばした手で柔らかな頬を撫でると、丸くきめの細かい肌はしっとりと濡れていて。目尻からぽたぽたと落ちるしずくを拭ってやりながら、「君の思ってる意味っていうのは、どういう意味なの」と努めて優しい声で尋ねる。僕の胸中には、まさかこんな風に泣いてしまうだなんてという驚愕が嵐のように吹き荒れていた。
 彼女は途端に押し黙って、「それは、」と言葉に詰まってしまう。

「誰にも言ったりしないって約束する。誓ってもいい。……どんな意味なのか教えてくれないかい」

 ……不文律は僕の中からほとんど消えかかっていた。僕はどうにかして彼女の真意を知ろうという気になっていたし、彼女の思う意味合いと僕の言った意味合いが一致するならなるたけ早くそれを伝えたいと考えていた。
 彼女はあちらこちらに視線を彷徨わせ、これまでの独白の中でも極めて躊躇いがちに、「恋、とか、」と消え入りそうな声で囁いた。
 次の瞬間、続きを聞く前に口づけていた。柔らかく震えるくちびると、ほろほろと涙をこぼす眦に数回キスを贈って、君のそれは何も間違いじゃないと告げる。少し性急なくらいの僕の動きに、彼女は目を丸くして首筋まで赤く染めたままぽかんと口を開けている。少し間抜けなその顔が可愛らしい。
「信じられないかもしれないけど、……君の考えてる意味であってるんだよ、名前」
 急いたような僕の言葉に、彼女は何度か目を瞬かせて「恋、とか、なんですか……?」と口にした。澄み切った硝子玉のような瞳がきらきらときらめいている。驚きの中にかすかな歓喜を覗かせる瞳に浅く頷いて、彼女の手からグラスを取ってテーブルに戻す。まだ状況を完全には飲み込めていないらしい彼女をやわく抱き寄せると、少しののちに「あ」とかすかな叫びが上がって。そろそろと背中に回った小さな手のひらが心の底から愛おしかった。




title:ユリ柩
→afterward
top