盲目を撃て
自称ファンなヒロインとビリーくん
ほとんど独白



「ビリーくん、ファンサして!」
 食堂でコーヒーを啜りながらケーキをつつくのに少し飽きた頃、少し離れた斜め前の席からそんな声が飛んできた。気付かれぬよう小さなため息をこぼして渋々そちらに視線をやると、彼女がいつもの笑顔で、チョコレート色の瞳を期待に煌めかせながら僕を見つめていた。僕はまたため息を吐いて、「飽きないね」とわざとぶっきらぼうに口にする。昔は彼女にもいい顔を見せていたけれど、愛想良く振る舞えば振る舞うほど彼女の猛撃――「ファンサして!」だ――が酷くなるので、最近では愛想も小想も尽き果てたような態度で接することにしていた。彼女の攻撃が緩む兆しはないけれど。

 彼女――苗字名前はこのカルデアの医療スタッフの一人だ。疲れのせいかそれとも元々の性質なのか、頭のネジが数本飛んだような性格をしていて、僕のことを心の癒しとしているらしい。可愛いとか好きだとか、言ってくれるのは構わないけれどほんの少しだけ騒々しくて――賑やかとはちょっと違う――僕はちょっと苦手に思っていた。僕を好きなのはいいけど、僕のいないところでそういう話をしてほしい、そんな感情がないと言えば嘘になる。とはいえ、前にちょっと迷惑だと言ったらしばらく近づいて来なかったから、全く話の通じない人というわけでもないらしいのが、唯一の救いだった。

 さて僕から愛想のない返事をもらった彼女はというと、少ししょげこんだような顔をした後、「でも可愛い」と小声で口にして「ちょこっとだけでいいのでしてくれたら嬉しいです」とはっきり申し出た。
 ……僕の欲しい言葉じゃないんだけど。
 僕のファンだという割に僕の気持ちには鈍いらしい。厄介な人に好かれてしまったなと思いながら、渋々片手で銃の形を作って「Bang!」と彼女を撃ってやる。
 こうすると彼女は静かになる。黙らせるにはこれが一番有効だから仕方なくだ。
 ゴム弾よりもずっと弱そうな見えない弾丸を喰らった彼女は、ぐっとシャツの胸元にしわを寄せてにわかに頬を赤らめ、「ありがとうございます」と浅く礼をして、よく連れ立っているスタッフのところへぱたぱたと駆けて行き「ファンサしてもらった」と何の意味があるのか律儀な報告をした。連れ合いの女性スタッフに「君からも何とか言って止めさせてよ」と視線を送ると、彼女よりずっとまともそうなそのスタッフはそっと両手を合わせて軽く会釈を返してくる。多分彼女から苗字さんに注意がいくだろう。そうしたら多分、また少し静かな日々が戻ってくる。きっとそうなるに違いないと半ば祈りに近い感情を抱きながら、ホイップをたっぷり使ったどっしりと甘いケーキにフォークを突き立てた。




 苗字さんはあの日僕に撃たれて以来、僕のところへ顔を見せていなかった。もうかれこれ二週間ほどになるだろうか、最初の三日間は、本当に静かで、少し賑やかなカルデアでの日常が戻ってきたと安心して過ごしていたが、ここまで長引くと何やら一周回って心配になってくる。医務室はもちろん、廊下や食堂、時折管制室でも彼女の姿を見かけることがあるから、当人が体調を崩したとか怪我をしたとかではないらしいとは分かっているけれど、だとしたら何だってこんなに長くやって来ないのだろうと少し不思議だった。
 無論、来ない方が僕としては有難い。騒がしいのはあまり得意とするところではないから、たった一人で十分に「騒がしい」の基準を満たす彼女も、全くもって得意ではない。できれば来ない方が嬉しい――というと少し語弊があるだろうか、何にせよあまり頻繁にやって来られても困るから、このくらい距離を置いてくれた方がちょうどいい、というのが正直な所感だ。けれど何となく……本当に何となく、自分でも奇妙だと感ずることに、何かが物足りないと思う僕がいるのだ。
 馬の合う友人と酒を飲みながらカードをしたり、マスターと他愛もない会話を楽しんだり、喫煙所特有のニコチンとタールの匂いに包まれながら情報のやり取りをしたり、たまに本を読んでみたり。僕はそれで大いに満足のはずだ。僕の考える「日常」の中に、苗字名前へのファンサービスは入っていない。無論彼女との一連の会話もそうだ――例えばこれがもっと別なものだったら或いは加えられていたかもしれないが――。だのに、物足りない。
「何だよ」
 と我ながら随分拗ねた声が漏れた。はっと我に返って誰にも聞かれていなかっただろうかと神経を研ぎ澄ませる。……僕の感覚が捉えられる限りでは、誰の気配も感じない。肝心の苗字さんは、僕の声が届かない場所でドクター・ロマニと真剣な顔で話している。視界に入った彼女の姿を目で追っている自分に、腹が立つようなはたまた呆れ果てるような気分になって、僕は一つ大きく息を吐いた。
 ――今日は飲もう。
 全部忘れるまでとはいかないが、酔いがしっかり回るまで飲もう。


 僕は自分がこうすると決めたものは、よほど事情がない限り変えることのない男だった。カルデア内に設置されたバーラウンジで、ロックのテキーラをポキと一緒に呑みながら、脳裏に浮かぶ彼女の幻影に深々と息をつく。口の端から漏れた紫煙が視界をくすませるのをぼんやり眺めて、どうして彼女のことばかり考えてしまうのだろうと青臭い思考に意識を放った。
 苗字さんがやって来ないおかげで、僕は慣れないファンサービスを要求されることもなく、生前では考えられなかったほど平穏な日々を送っていられる。彼女に「ファンサして!」とリクエストされたいなどとはちっとも思っていない、そのはずなのだけれど。

「……やだな」

 知れずフィルターを噛み締めていた煙草を灰皿に押し付けて小さくこぼす。
 あんなおかしな要求は御免なのに、彼女がいなければ物足りない。それはおそらく、僕の中で「苗字名前にファンサービスを欲される」という一個のイベントが「日常」の中に組み込まれていたが故に違いない。違いないからこそむしゃくしゃする。そんな風になってしまった――或いは、されてしまった――ことそのものに対して、どうにも苛立ちが収まらなかった。こんなものはさっさと忘れてしまうに限ると考えれば考えるほど、僕のウインク一つで頬を紅色に染めて――悔しいことに――可愛らしく顔を綻ばせ、ありがとうと謝辞を述べる苗字さんの光景が、頭のずっと奥底にこびりついて離れなくなるのだ。
「やだな」
 訳もなくもう一度こぼして、ポケットの中から半ばひしゃげたキャメルの箱を取り出して、一本抜き取ろうとして、やめにした。
 煙草とテキーラとで靄がかかった思考に、まるで天啓のようにして此方から彼女に会いに行けばいいのだという閃きが降ってくる。そんなことしなくていい、結局は彼女を喜ばせるだけだとなけなしの理性が即座にそれを叩き潰さんとするも、僕の心の方はそんな糾弾など存在しないと言わんばかりに、彼女のところへ行こうと声高に叫んでいた。
 喧しいくらいの咆哮に、グラスの中のテキーラをいっぺんに呷って、会いに行けばいいんだろ、と口の中で吐き捨て立ち上がる。バーの壁に吊るされた古めかしい振り子時計は、二十三時過ぎを指し示している。この時間ならば彼女も自室にいるだろう。

 廊下ですれ違ったスタッフ――先日彼女と一緒に連れ合っていたスタッフだ――に苗字さんの部屋はどこかと尋ねると、彼女は随分驚きながらも「突き当たりまで行って、曲がってすぐ、一番目のドア」と教えてくれた。
「名前には内緒にしておいた方がいい?」
 と問うてきた彼女に、少し迷ってうんと頷く。
 彼女が敢えて僕を避けているのなら、僕が来ると知って場所を移る可能性も否めない。カルデアの建物はとにかく広い。この時間から施設内をぐるぐる人探しするなんて御免だ。僕は一刻も早く彼女に会いたかった。
 僕の首肯に「OK」と頷いた彼女に別れを告げ、緩やかにカーブする廊下をずっと歩いて行って突き当たりの角を左へ曲がる。一番目のドア、と目的の白い自動扉を見上げてちらと電子キーを確認すると「施錠」を示す赤いランプが灯っていた。
 こん、と一度ドアをノックする。じぃんと骨に伝わる痺れが普段よりずっと大きく感ぜられて、ひっそり顔を顰めた僕の耳に、ややあって「はーい」と悲しいかな聞き慣れた彼女の声が滑り込んだ。

「僕だけど」
「僕だけど、って、え、ビリーくん⁉」
「そう、君のビリーだよ」

 皮肉たっぷりにそう言ってやると、一枚扉を隔てた向こう側で彼女が大いに動揺する気配があった。次いで、どうして、とか、何で、とかいう言葉が微かに聞こえてくる。彼女はどうも僕の方から自分を訪ねてくるとは露ほども思っていなかったらしい。僕だって、自分から彼女を訪ねることがあるだなんて考えたこともなかった。
「君のヒーローがわざわざ訪ねて来たって言うのに部屋に入れてくれないのかい」
 とんとん、と再度ノックしてそう急かすと、彼女は「待って!」と悲痛な叫び声を上げ、「こんなの聞いてない」とか「本当に何で……?」とか色々なことをぽんぽん口にしながらそれでも電子キーの操作板を触ったのだろう、小さな電子音がロック解除を告げ、やがてドアは微かなモーター音とともに自然に開かれた。

 彼女の部屋は、僕の部屋と同様、白で統一された備え付けの調度品が同じようなレイアウトで配置されていた。唯一違うところはDIYだろうか、手製と思しき小さな本棚がベッド脇に置かれているところだ。サイドボードの上にも本が数冊積まれている。頭のネジが数本飛んでいると思っていたが、彼女は意外にも読書家であるらしい。一番上に置かれた小説本からは栞の頭が飛び出していた。
 小さな部屋の中で、彼女はうっすらと頬を染めて僕が現れたドアの方を凝視していた。僕の後ろでドアが静かに閉まって、真っ白な部屋には僕と彼女の二人きりになる。すると彼女はファンを公言している相手と二人ぼっちになったのにすぐさま勘付いて、いよいよ分かりやすく焦りだし、
「部屋にビリーくんがいる……?」
 と口走って軽くシーツを整え、どうぞとベッドの上を指し示した。確かにこの部屋ではくつろげる場所は寝台の上くらいのものだ。自分のベッドに男が座ることについて何の感情も湧かないのだろうかと酔った脳裏で考えながら、彼女の申し出をかぶり一つで断って、「すぐ終わることだから」と告げる。
 彼女は少し呆けた顔をして「そうですか」と返事をした。普段淀みなく言葉を紡ぐ口も満足に回らないらしい。彼女の「そうですか」は不自然に震えて、発音も不明瞭だった。
「名前」
 とその名前はするりと口からこぼれ出た。心の中ですら一度も呼んだことのない彼女のファーストネームは、口に出してみると存外あっさり舌に馴染んだ。こうして聞くと綺麗な音をしているのだな、とそんなことを考えながら彼女を見つめると、苗字さん改め名前は、ほとほと困り果てたような顔をして「はい」と短く返事をする。

「どうして急に来なくなったの」

 僕が一番聞きたかった質問は、自分で思っていたよりも簡単に口から飛び出ていった。こんなことはなかなか言い出せはしないと思っていたのにと内心驚く僕の前で、彼女もその顔いっぱいに驚愕を滲ませている。どうして、と僕の言葉を繰り返した声からも、彼女の驚嘆はありありと伝わって来ていた。
「そう、……」
 どうして来なくなったの?
 もう一度、今度は少し声を和らげて問いかけると、ややあった後に「迷惑だと思って」との返答があった。

「迷惑?」
「私はその、ビリーくんが好きだ!ってファンサとかねだってたけど、よく考えたらビリーくんには迷惑だよなと思い直したというか。友達にもはっきり言われて考え直したって言うのかな。……ごめんなさい、今更かもしれないけど」
「確かに今更だね。でも今はいいよ」

 言いながら一歩また一歩と彼女のところへ足を進めていく。彼女は僕と一定の距離を保つようにしてじりじり後退りしていたが、やがて背中を壁にぶつけて、随分焦ったような表情になりながら、僕と、自分の後ろの壁とを見比べた。そんなことをしたって壁が後ろに下がったりはしないし、僕が足を止めたりすることもないのだと思い知らせるように彼女との距離を一層縮めて、彼女の両腕で退路を塞いでしまう。名前の丸い頬の朱がますます色濃くなって、細い肩が小さく震えたのに吐息だけで笑んで。
「君へのファンサービスはもうよくなったの?」
 問いかけると彼女はよく見ていなければ分からないくらい微かに首を振ってこれを否定した。
「よくないです、よくないけど、でも、これは困る」
 近いよ、ビリーくん。
 こう言って心底動揺して恥ずかしがる彼女の瞳は、たっぷりの涙で情けなく、そして弱々しく潤んでいた。溌剌としているはずの声も何やらしおらしく震えている。
「近いよ」
 彼女はもう一度繰り返し口にして、よく熟れた林檎のように真っ赤に染まった顔をそっと両手で覆ってしまった。艶を帯びた深い茶色の髪の隙間から、赤くなった耳が微かにちらつく以外には何も見られなくなったことに、ほんの少しだけ物悲しさを覚えて、彼女の手をそっと取り払ってしまう。なかなか退かないかと思われた両手は、意外にもあっさり僕の手に従って彼女の胸の辺りまで押し下げられ、名前の可愛らしい抵抗は、抵抗としての体を成す前に終了を迎えた。

「ビリーくん、……」
「なぁに、名前」
「一度離れない?本当に近い……ひ、ヒーローがこんなに近いと流石に照れます、ファンサービスってレベルじゃないよ」
「ふぅん?……ねぇ、君って本当にただのファンなのかな」

 は、と彼女の口からほとんど息のような声が漏れる。唐突な僕の言葉に唖然としたまま硬直した彼女に、出来るだけ柔らかく微笑んで、
「だってさ」
 と続けた。
「さっきからすごく顔が赤いよ。それに鼓動もうるさいくらいドキドキしてる。君の……例えば憧れの人とか、ヒーローがこうしただけでそんな風になるものなのかな」
 生身であった頃よりずっと鋭くなった聴覚は、彼女の小さな心臓がひどく激しく脈打つ音を微かに拾い上げていた。こんな風に人間の心臓は鼓動して、それで壊れたりしないのが不思議なくらいに、彼女のそれはどくどくと逸っている。自分の憧憬や愛着を捧げる相手に、こうして壁際に追い詰められて、それで黄色い悲鳴を上げるというのならまだしも顔を真っ赤に染め上げて目にいっぱいの涙を溜めて、顔を見られまいと恥じらうというのは僕には少し分からなかった。もしかすると彼女はそういう人間なのかもしれない、くらいには感じたけれど、それでもやはり違和感はあった。
「どうなの」と返答を急かすと「なる、」とやはり震えた声が返ってくる。

「本当に?」
「ほ、ほんとに。だって好きな人だもの、びっくりするし恥ずかしいでしょ……」
「そうなんだ?君があんまり照れるから、てっきり僕に恋してるんだと思ったのに」
「恋」

 そう反芻した瞬間、彼女の顔はますます赤らみ、とうとう首まで鮮やかな紅色に染められてしまった。ドッと一際大きく跳ね上がった鼓動に、これは案外図星かもしれないな、と酔いに任せて放った自惚れが自惚れに留まらない可能性について考える。
 彼女が僕に向ける感情が、憧憬や愛着ではなく、恋慕だとしたら。それは不思議なことに僕を大いに喜ばせる「もしも」だった。
 つい、とうっかり指を滑らせた彼女の頬は、手袋を隔てても十分に伝わるほど熱く火照っていた。「恋」と繰り返し呟いた彼女の手が、僕の手に重なって、そのまま自然に指が絡む。
「恋……だとしたらどうするの、ビリーくん」
 と、彼女は今にも溢れんばかりの涙を溜めた双眸で僕を見上げて問いかけた。ことんと心臓が揺れて、何やらぞくりと背筋が粟立ったのを強く自覚しながら、彼女の指先を優しく握って言う。
「ただのファンには出来ない、もっと特別なことをしてあげる。……僕も、それにきっと君も楽しめる、今よりずっと素敵なことだよ」




title:天文学
→afterward
top