言の葉の飽和
たまにすっごく嫌いになれるの続き



「君、最近可愛くなったって噂だよ」
 そう言ってバーラウンジのカウンターで話しかけてきたのが誰なのかということは、わざわざ振り向いて顔を見ずとも分かった。「ビリー、」と隣の席に腰を下ろした彼の名を呼んで、そんな噂が立っているなどということは今初めて知ったと返す。
 可愛くないと言われてきた私が、可愛くなったという噂。そんな妙な話題を取り沙汰するほどこの組織は暇ではないはずだ。第一、私が可愛くなったなどあるはずもないのに、奇妙なものである。
「そりゃ、噂ってのは本人の耳には入らないものだからね」
 バーテンダーにロックのバーボンを頼んで、ビリーはポケットからアメスピを取り出した。

「吸っても?」
「だめだって言っても吸うんでしょう」
「だめだって言われたら吸わないよ!……だめなの?」
「……だめじゃないです。どうぞ」

 ありがとう、と彼は一本咥えてジッポーで火を灯す。ちらちらと揺らめくオレンジの光に照るビリーの横顔は、普段談話室や食堂で見る時よりもずっと大人びて、不思議に色っぽく見えた。ビリーが色っぽい、というのも何だか奇妙な話であるように感ぜられる。彼は無論健康な肉体と精神を持っていると思うけれど、だからといって特別セクシャルな魅力に富むという訳ではない。普段の彼は、至って無邪気で飄々とした態度の、健康的な少年だ。
 自分がどうしてそんなことを考えたのだろうと気になって彼をまじまじと見つめ続けていたせいだろうか。滑らせたコースターの上に置かれたバーボンを一口飲み込んで、ビリーは「気になる?」と一言問いかけた。

「気になるって……?」
「煙草の煙とか。そうじゃなきゃ君の噂についてとか」

 煙は気にならない、とかぶりを振って、ひとまずは噂について気になると返す。特段気にかかるという訳ではなかったけれど、まさかビリーが少し色っぽい気がして見つめていたなどとは言えない。うまい嘘も思い浮かばないのだからこう答えておいた方がいいだろうと思ったのだ。
 ビリーは私の言葉にふぅんとほとんど息だけで相槌を打って、「君が前よりずっと可愛くなった、ってだけの噂だよ。誰が言い出したかまでは分からないけどね」と端的に語った。語る、という言い方が烏滸がましいくらいの短い言葉だった。

「それだけですか?本当に?」
「本当に。今の方が素直で可愛いってさ。君が疑ってかかりそうなことは何もないよ、少なくとも僕の耳には入って来なかった」

 私が疑いそうなこと。例えばその可愛いというのが単なる皮肉の一種でないかとか、そういう可愛げのない卑屈で穿った疑念の話をしているのだろう。ビリーはカルデアの中でも限られた、私が業務以外でも言葉を交わす相手のうちの一人だから、そういう裏の意味合いだとかいわゆる陰口みたいなものは恐らく余程のことがない限り今後も耳にすることはないだろうと思うけれど――もちろん、カルデアにいるのはいい人ばかりだということは分かっている――。
ふぅん、と今度は私が相槌を打つ番だった。
「それだけならいいんですけど」
 特にそれが悪い話でない限りは放置でいいだろう。人の噂も七十五日と言うし、自分のいないところで私が話題に上っているというむず痒さはあるけれど、とやかく言って変に事を大きくするのも何だという話だし、聞かなかったふりをして流してしまえばいいのだ。
 ビリーは「気にしないんだ」とでも言いたげな顔になった後、
「僕も同じ風に思ってた。最近の君は、何だか前より可愛いって」
 と流れるように口にした。くちびるの端から紫煙を漏らしながら此方を振り向き、また例の蕩けるような瞳を私に向けた彼に、ことんと胸が鳴る。私には不似合いな可愛さを持つ鼓動に内心かぶりを振って、グラスに残ったカンパリオレンジをぐっと呷り、ブルーラグーンを頼んだ。
「はぁ、それは、その……ありがとうございます」
 息を落ち着けてそう返すと、彼はほんの少しだけ驚いたような顔をして「可愛くないって言わないんだね」と呟くように落とす。
 空のグラスと引き換えにやってきた真っ青なカクテルにそっと口をつけながら、「あんまり否定するのも失礼だと記事で読んだので」と今度はやはり可愛げのない返答をした。

 褒めてもらっているのにも関わらず、あまり可愛くないだの上手くないだのと否定するのは、謙遜のつもりでも失礼に当たるといういかにもそれらしい、そして正しいように思えるネット記事。普段であれば真に受けたりはしないのだけれど、確かに褒めたものを全否定されるというのは不愉快なものがある。ひとまずは「ありがとう」と返しておいた方がずっといい、というような話を見かけて、果たして謙遜が無くてもいいものだろうかと警戒しつつ、とりあえずそういう風に返してみることにしたのだ。幸いなことに、私は今でも時折仕事ぶりを褒めてもらえることがあったので。
 ビリーはそれを聞いて、
「なるほどね。まぁ確かに、可愛くない可愛くないって言われるよりはずっといいけど」
 とロックグラスを傾けた。

「だから前より素直になったなんて噂が立ったのかな。今までむすっとしてた君が、ありがとうって言うようになったから。……それに笑うことも増えたような気がするし」
「たったそれだけでって言うのはありますけどね。笑うのは、ちょっと意識してるんです。まだあんまり上手には笑えませんけど」

 せめてもう少し笑うくらいなら頑張ればできると思って。こう言った私に、ビリーは私よりもずっと上手に笑ってみせた。全然嫌味なところのない、親しみやすく人懐こい笑顔。彼の笑顔には、何か人の心を解きほぐすような、あるいは懐柔するような魅力があるように思われる。ビリーほどうまく笑えるようになるかは定かでないが、この魅力の三割――いや、一割で構わないから、私も獲得したいところだった。聞けば笑顔のコツを教えてくれるだろうかと考えながら口角を必死に引き上げる私に、ビリーはくすくす肩を震わせて「充分可愛いよ」とまた褒めてくれた。

「……ビリーはよく私を褒めてくれますよね、可愛いって。ちょっと褒めすぎなくらいですけど」
「だって君は可愛いもの。それに一回言うくらいじゃ頑固で捻くれ者の君は納得してくれないだろうと思ってね」
「合ってるけどちょっと腹立ちます」
「君、素直になって毒が増したね」

 すみません、と咄嗟に謝ると「ううん、そういう君も素敵だと思うよ」とまた歯の浮くような台詞が返ってくる。やっぱりこの人は少し私を買い被っているように思える。果たして毒が増えるというのは素敵なことなのだろうか。
 疑問に思う私の隣で、ビリーは「でも」とため息をついた。アルコールのせいか少しとろんとしたブルーグレーの瞳に耐えかねて、先程口をつけたきりになっていたカクテルを胃の中へ流し込む。一口、また一口と飲み下す私に構うことなくビリーは平然と――それでいて少し落ち込んだような調子で続けた。
「君が可愛いってみんなに知られるのはちょっと残念だな」
 ぴくりと肩が跳ねて「何故です?」という疑問が口をついて出た。
 まるで――あるはずがないけれど――独占欲を抱いているかのような言葉に、素直な疑問符を浮かべた私をビリーはちらと見やって、煙草を灰皿に押し付けた。

「僕が最初に見つけたのにな、って、ちょっと悔しいんだ。……ねえ君、好きな奴ができたとか、そういうのじゃないよね?」

 一応だよ、と念を押して彼は今度こそ私を真っ直ぐに見つめた。その双眸はあまりにも真摯でひたむきな光を宿している。少し不可思議な――……ある意味では彼らしからぬ問いかけに驚きと混乱とが胸中に吹き込み、好きな奴と言われて一瞬思い浮かべた見知った人物像をかき消した。よく知った顔だ。柔らかなクリームブロンドを揺らして余裕ありげに微笑んでいる青年だった。
「まさか」と声を発する。一瞬の想像と自分の中に眠る浮かれた――そしてこの場では不毛になる――感情への、「まさか」だった。
「まさか?」
 彼が続きを急かすように繰り返す。私はいつかのように、うなじにじっとりと汗を浮かべて、燃えるように顔を火照らせながら「まさか」の続きを言った。
「そんなのじゃないです、きっと」




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