春が来るのはあなたのせいです
「わ、何この匂い」
 部屋に入って一番にそう口にした彼に、「マニキュア」と一言返す。つんと鼻につく独特の香りに、ビリーは整った顔をくしゃりと歪めて「あぁ」と小さく相槌を打った。
「ライブラリで見たことある。こんな匂いなんだ」
「ごめん、臭いよね」
 ううん、と彼は首を振って、一瞬の後、うんと頷いた。「正直苦手かも」と言う彼に苦笑して、私もこの匂いはあまり好きではないと言うと、「じゃあなんで……」と彼は小首を傾げる。こてん。そんな表現が似合いそうな可愛い仕草に思わず口元を緩めてしまう。顔立ちがチャーミングなせいか、それとも彼の持つ愛嬌のせいか、彼は不思議にこういう仕草がよく似合った。可愛いなぁ、と本人に言えば拗ねられそうなことを考えながら、
「爪が可愛い色だとテンションが上がるから?」
と此方も首を傾げながら返した。

 カルデアは職場だ。爪を派手な色に染めることなど許されないし、衛生的にも、そして怪我のリスクを下げるためにも、長く伸ばすことはできない。小さくて少し不恰好な丸爪は、ネイルをするにはいささか映えないようにも思われたが、それでも薄いピンク色の単色ネイルをするには十分なキャンバスだった。
「ふと目に入った時にね、爪が可愛いとちょっと楽しくなるの。いつもはあんまりやらないんだけど、そういえば買ってあったの思い出してさ」
 「ふぅん」とビリーは私の隣に腰を下ろして、「確かに可愛い色だね」と微笑んだ。
「でしょ。ちょっと難しいんだけど慣れればそんなことも、あ」
 あ、と彼も声をあげて、大胆にはみ出したマニキュアに視線を落とす。それがなんとなく気恥ずかしくて、左手で塗るのは特に難しいのだと言い訳すると、彼はややあって「僕が塗ろうか?」と言葉を発した。
「え、いいの?」
「いいよ。難しいんだろ?それに見てたら僕もやってみたくなったんだ」
 君が構わないならでいいんだけど、と少し下からこちらを伺うビリーに、きゅん、と胸が苦しくなる。上目遣いは、ちょっとずるい。可愛い。そんな彼の可愛らしさに押し負けて、「じゃあお願いしようかな」とマニキュアを差し出すと、彼はわずかに楽しそうな声色で「僕に任せて」などと言いながらそれを受け取り、まるで貴人の手にでも触れるような丁重さで私の手を取った。するりと指先を撫でた彼の手と、そこに注がれたあまりにも真摯な視線にとくりと心臓が跳ねた気がするのは、ビリーには内緒である。


 できたよ、と彼はこう言ってそっと私の手を離した。マニキュアの容器に蓋をして、ビリーは満足げな表情で私の指先を見つめている。
「初めてだけど結構綺麗に塗れたんじゃないかな。ちょっと見てみて」
 そう言った彼にこくりと頷いて、右手を自分の顔の前まで持ってくる。ちょこんとついた小さな爪は、どれも綺麗な桜色に染められている。目立ってはみ出すこともなく、均一に塗られた染液に、わっと思わず小さな歓声をあげて、「めちゃくちゃ綺麗」と隣に座る彼を見つめた。
「超可愛い。ありがと、ビリーくん」
「どういたしまして、マスター」
 君が可愛くなる手伝いができて嬉しいよ。
 ふ、と表情を柔らかくして告げられた言葉が、先刻からきゅう、と苦しくなっていた胸にとすりと刺さる。「うん、可愛い」とビリーは一人納得したように頷いて、
「確かに楽しくなるね。君が可愛いと僕も楽しい気がする。……もちろん君はいつでも可愛いけど……――マスター?」
 顔が赤いよ、と指摘されてぱっと頬を押さえた。確かに両頬が熱を持って火照っている。「照れてる?」と問うた彼に小さく震えながら頷いて、そんなふうに言われて恥ずかしくならない訳がないじゃないか、とビリーを睨むと、彼は何もかも分かったように――それでいて悪戯っぽく笑って。
「すごく可愛いぜ、マスター」




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