世界が回る時




「火をかけたまま寝るな。」


火を止めるカチッという音と共に声が聞こえて、私は夢うつつから目を覚ました。
大学から帰ってくるなり、まずすることといえばコーヒーを淹れるためにお湯を沸かすことだ。
いつもはその間に洗濯ものを取り込んだりするのだが、今日は生憎と雨のため洗濯物は部屋に干していたためソファに座るなりウトウトしていたようで、声の主であるアヤは呆れた表情を浮かべていた。


「あー…ごめん。」


いつの間にかソファに寝転んでいたようで、上体を起こしながら目を擦る。


「来てたんだ。いつ来たの?」

「今だ。」


アヤが来てくれたおかげで家が火事になることは防げたようだ。
ありがたいことだが、これでも彼は不法侵入者だ。
一人暮らしの私は用心のために家の鍵は帰って来た時に必ず閉めるようにしているし、窓だって締め切っている。
なのに何故入って来れたかというと答えは簡単。
彼がこの世界の住人ではないからだ。

そう説明したのはもちろん彼。
ヒュウガという部下が路地裏で買った『一か月間上司が怒らなくなる薬』というものを飲まされたかららしい。
そりゃ上司が異世界に行けば怒られないだろうよ、いなくなるんだから。

しかし最初の頃はいくら私が大学での成績が下から数えた方が断然早いからって騙されると思うなよ!とか思っていたのだが、意味の分からない模様なのか文字なのかを手から出して近所の公園の木を一本メキメキと倒されれば疑う余地はない。

しかもこの男、急に現れたかと思えば瞬きの間に消えてしまうことだってあるのだ。
ヒュウガという部下が買った薬が不良品だったのか、どうも彼はこちらへ来る時間も滞在時間も不安定だ。
必ず一日に一回は来るのだが、何十時間もいることもあれば、たったの数分で帰ることもあり、一日の内に2回3回来ることもある。
特別といって滞在時間は決まっていないらしいが、来たくなくても勝手に瞬間的に移動してしまうものだから手の打ちようがないとか。
私も最初こそ驚いていたものの、彼が現れて2週間が経つ今日この頃、私は彼の登場に驚くことはしなくなっていた。
はてさて、彼は今日、どれくらいここに居られるのか。


「アヤは何してたの?」

「サボりに出かけたヒュウガを中庭で見つけたところだったんだがな。」


なるほどなるほど。
そのヒュウガさんは命拾いしたというわけか。
一体どんな人なんだ、ヒュウガさんって。
怪しい薬買って、アヤに飲ませるような人…アヤが前にサングラスをかけた胡散臭い笑みの男だ、とか言ってたけど想像がつかない。
頭を捻らせていると、アヤは私にコーヒーの入ったマグカップを手渡してくれた。


「ありがとー。」


もちろんアヤの手にもマグカップがあり、すでに彼の物と化している。
この奇妙な関係を何と言っていいのか。
友人でも恋人でも家族でもないのに一緒のソファに座ってコーヒーを飲んだりして。
よくわからない。
よくわからないけれど、私は彼がやってくるのを待ち遠しく思っている。


「名前、お前は洗濯物を人目に触れないところで干そうとは思わないのか?」


日本では見たことのない軍服を身に纏った彼はどう贔屓目に見ても日本人ではない。
聞けば参謀という偉い地位にいるらしく、しかも神がかった美形で頭も良いなんてさぞかしモテることだろう。
しかし如何せんこの姑っぷり。
私の胃に穴が空いたらどうしてくれるんだ。


「何、私の下着気になる?」

「そういう意味ではなく、恥じらいを持てと、」

「はいはい。」


口では勝てないことは十分知っているつもりだ。
下着がぶら下がっている洗濯物を自室に移動させ、またソファに座った。

隣に並んで座っても別に会話が弾むわけでもない。
アヤは口数が多いわけではないし、私は喋りたいときには喋るがひたすら喋っているわけではない。
こうした何にもしていないけれど互いが側に居るという空間が好きなのだ。
アヤが側に居ると時間は進んでいるのだと実感する。
だってどれほど時が止まればいいのにと思っても、アヤは帰ってしまうから。


「晩御飯食べてく?」

「その時まで居たらな。」


彼は私の作るご飯を食べる時、いつも『相変わらずだな』と言いやがる。
それは『相変わらずまずくもなければ美味くもないな』という意味だ。
初めて私のご飯を食べた時微妙な表情を浮かべたのを私は今でも忘れない。
いつかぎゃふんと言わせるために専ら特訓しているのだ。


「少しは上達してきたと思わない?」


何がと言わなくても、アヤは私の思考を読み、それから鼻で笑った。


「ちょっと、今の笑い何っ?!?!」


掴み掛るがねじ伏せられるのはいつものことだが、やらずにはいられない。
アヤの上に全体重を掛けて圧し掛かるが、表情としている彼の表情が余計に腹立たしく感じる。


「暴れるな、馬鹿が。」

「いつか絶対おいしいと言わせてやるんだから!」

「それは私に気長に待てと?」


どういう意味よそれ!と叫んでいる途中で私は一人ソファに沈んだ。
全体重を掛けていたアヤがいなくなったのだ。


「…帰っちゃった。」


こうしてアヤが帰ってしまうと『つまらないな』と思ってしまうくらいに私は彼と過ごす時間を気に入っている。
いつも急すぎる登場と帰りに全く戸惑わない訳ではない。
しかし、これじゃぁ通い婚みたいだな、と一人考えて笑った。
明日アヤが来た時に言って茶化してやろうと思う。




***




アヤがまた私の元へ来たのはあれから3日後のことだった。
こんなこと初めてで妙な不安感に襲われる。
明日は大学でもう眠らなければいけないのに眠れない。
もしかしたらもうアヤはやって来ないんじゃないかと、ベッドに入りながら思った矢先、アヤが私の目の前に現れたものだから私は無意識のうちにホッと息を吐き出していた。


「…3日ぶり。」

「なんだ、まだ起きてたのか。」

「うん…眠れなくて…。」


元凶は全部アヤだ。
その本人はコーヒーが飲みたいなと呟き、勝手にキッチンへ向かおうとするので「私カフェオレがいい。」と声を投げ掛けて置いた。

ベッドに座ったままアヤがやって来たことに安堵する。
気が抜けて立つ気力がイマイチ起きないでいると、アヤはは私の望み通りカフェオレを淹れてきてくれた。
それを受け取り、喉に流し込めば更にホッとする。


「毎日会えてたのになんで急に3日も会えなかったの?」


なんだか浮気を突き止めるような発言だ。
問いかける私を余所にアヤはイスに座り腕を組み、コーヒーを啜った。


「元より効果もあやふやな不良品の薬だからな、そろそろ効力が切れるのだろう。」


アヤがやって来なかった初日はただただ驚いて、2日目からは動揺して寂しくなってきて、もう会えないんじゃないかと悲しくなったのは私だけみたいで、アヤはいつもと何ら変わらない表情を浮かべている。


「良かったね。急にこっちに飛ばされたりして嫌がってたもんね。はー良かった良かった。」


ヘッドボードにマグカップを置きながら半ば投げやりに発すると、アヤは訝しげに眉間に皺を寄せ、「何を怒っているんだ」と私の頭に手を乗せた。


「別に怒ってないけど。」

「というより拗ねているの方が正しいか?」

「怒ってもないし拗ねてもない!馬鹿!アヤの馬鹿!」


子どもが駄々を捏ねているみたいで恥ずかしくもあるが、私だけが寂しいと思っているみたいで嫌になってくる。
布団に潜り込むと、何だか泣きたくなった。


「もう寝るのだろう?私は適当にリビングにいるからお前はもう寝ろ。」


アヤが立ち上がったのが衣擦れの音でわかった。
ため息交じりの言葉に反応して、布団から飛び起きるとそのままアヤの服の裾をギュッと握った。


「ヤダ。もっと話してたい。もっと一緒にいたいよ。」


もしかしたらこれで会うのが最後になるかも知れないのに、喧嘩したままでは嫌だ。
アヤは少しだけ驚いていたが、ベッドの端に腰を下ろすと私の頬に手を添えた。


「お前は素直になるのが少し遅いな。」


そんな言葉と共に降って来たキスを受け止める。
素直になるのが遅いとか言われたけれど、今こうしてキスをしているのは自分の気持ちに素直になっているからに他ならない。
目を瞑ってアヤの首に腕を回すと、何を調子に乗っているのか、彼の手が服の裾からスルリと入ってきた。
求められることに悪い気はしないが、ちょっと性急過ぎるんじゃないだろうか。
大体彼は私に好きとかそういった類の言葉を言った訳ではない。
彼の性格だから『今更わざわざ言わなくてもわかるだろう?』とか思っているんだろうけど、些か手が早すぎる。


「ちょ、っん、ン…」


不満を口にしようとするが、キスで口を塞がれてしまえばどうしようもない。
直に触れたアヤの手が胸の膨らみを掴んだ瞬間、その温もりは急に消えた。


「…っ、は……」


長いキスで乱れていた息と服をそのままに私は呆然とした。
目の前には言わずもがなアヤはいない。
帰ったのだ。


「こ、このタイミングで帰るか普通っっ?!?!?!」


別にアヤが悪いわけではないけれど、そう叫ばずにはいられなかった。




***




「うぎゃー!寝坊した―!!」


目覚まし時計のアラームに全く気付かなかった私は、朝食も食べずにあたふたと着替えを済ませる。
いつもの時間に寝ることができなかったのは全てアヤのせいだと思う。
あの状態で放ったらかしにされた私はしばらく羞恥に悶えたものだ。


「やばいやばいやばい!鬼教授の講義完璧遅刻だっ!!」


今から走っても到底間に合うとは思えないが、少しでも早く行くのが得策だろうとバックを引っ掴んでドアノブに手を掛けた。


「…へ?」


そう、私は確かに玄関に立ち、ドアノブに手を掛けていたのだ。
なのに目の前には合ったはずのドアはなく、広い部屋が広がっているばかり。


「え、え、なにここ、どこここ?!?!」


私はまだ夢を見ているのだろうか。
だったら早く目を覚まさなければならない。
妙に物寂しいこの部屋とはおさらばしなければ。

起きろー起きろ私ー。と念じていると、「やっと来たな、名前。」という声が背後から聞こえた。
何度も聞いたことのある声に振り向けば、案の定そこにはアヤがいつものごとく偉そうにソファに座っていた。


「は?!あれ、アヤ?!?!」

「ようこそ、というべきか。」


アヤに近づきながら頭の中を整理してみる。
するとある仮説が私の中で生まれた。


「…ちょ、ちょっと、もしかして…、」

「自分が見ていないところで人が作った物を簡単に口に入れるなど不用心だな。」


こ、こいつ、昨晩のカフェオレに一服盛りやがったな!!
大体ヒュウガさんって人からも一服盛られたアヤに言われたくないわっ!!


「大体お前は私が手放すとでも思っていたのか?」

「手放すも何も効果が切れたら終わりじゃない!」

「終わらせない。一緒に居たいと言ったのはお前の方だ。覚悟しておくんだな。」


急な出来事に頭がついて行かない。
どうしてこうなったのか、何故私はここにいるのか、答えはわかっていても未だ頭の中はパニック状態だ。
そんな私の腕を引いたアヤは私をソファの上に押し倒すと耳元に顔を埋めた。


「それより名前。どうだ、昨晩の続きでもするか?」


こ、このムッツリめっっ!!!



世界が回る時

(それは私の側に貴方がいる時。)

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