09




もう、もう無理だ。

我慢の限界だ。

私の臆病な心臓が悲鳴を上げた。

その瞬間、私は外へと飛び出した。






事の発端は約1時間前に遡る。


「少し休憩してはどうでしょう。」


ブラックホークの執務室で本を読んでいると、カツラギさんが私の簡易な机にオレンジジュースを置いた。

机が簡易なのは私が文字を教えてもらうからと、急に机を用意したからである。

鬼畜なアヤナミさんのことだからダンボールとか用意しそうだと思っていたけれど、この机が用意された時はホッと胸を撫で下ろしたものだ。

私用に机を用意してくれたことはもちろん、ちゃんとした机も取り寄せてくれているらしい。
取り寄せるのに時間がかかるからとこの机は一先ず用意されたのだ。

私の机がカツラギさんの机の横に置かれて、何だか嬉しかった。
カツラギさんの隣というのもあるけれど、私の居場所、私の席ができたことが。
とても、とても。


「ありがとうございます。」


私はその机に置かれたオレンジジュースを手に取り、一気に飲み干した。


「ふは〜。おいしかった〜。ものすごく喉渇いてたんです。」

「名前さんが本を読み始めてから、すでに3時間は経っていますからね。」

「あ、ホントだ。」


私の成長がお分かりだろうか??

この世界の文字を読めなかった私はここ数日ですでに読めるようになった。
とてもゆっくりなので一冊読み終わるのにまだ結構な時間がかかるけれど。


「名前さんは集中すると時間を忘れてしまいがちのようですね。」

「そうみたいです。」


お昼を食べてからずっと読書。
ものすごく集中しているせいか目が少し疲れてきた。

眉間を手で軽く揉んでいると、コナツさんのため息が聞こえた。


「名前さんのように少佐も集中してくれたら…」


切実なため息と言葉は残念ながらヒュウガさんには届かない。
答えは簡単。
何故なら彼は今執務室にいないから。

何処にいったなどもはや愚問だ。
サボりにどこかへ行ったのだ。


「コナツさん、私でよければお手伝いさせてください。その…時間はかかると思うんですけれど…仕分けくらいならできると思うんです。」


コナツさんはホロリと涙を零しそうな勢いで涙ぐんだ。

その姿にギョッとする。
それほどまでに追い詰められていたのか…。


「ありがとうございます。ではこちらの書類を仕分けしてもらえますか??それが終わったら経理課の方へこれを持って行って下さい。」

「はい。」


とりあえず読書は一時中断だ。
私で力になれるのなら誰かの力になりたい。


コナツさんの手から書類を受け取って仕分けをし始める。

その頃にはカツラギさんはもう自分の仕事を始めていた。


数十分かけて書類を仕分けし終わり、間違えていないか3回確認してコナツさんに手渡す。

ものすごく感謝されながら、私は経理課に持っていく分の書類を手に取った。


「では行ってきます。」

「どこかで少佐を見つけたら仕事するように言って下さい。」

「はい。」


しっかりと頷いて執務室を出た。
言うだけじゃなく、腕を引っ張ってでも執務室に連れて帰ろう、そう心に決めて。


ヒュウガさんはいつもあっちへふらふら、こっちへふらふら、何処にいるのか全く分からない。

探すのも一苦労なのだ。
実際、経理課に行く途中には見つけられなかった。

執務室への帰り道、キョロキョロしてながら歩いていると、ドンっと誰かにぶつかった。


「っ!」

「ごめんね、大丈夫??」


ヒュウガさんかと思ったけれど、まず声が違った。

びっくりして閉じていた瞳を開けると見知らぬ人が立っていた。


「い、いえ、私も余所見してて…。」

「俺も前見てなかったから。…君、どこの部署の子??軍服着てないけど…」


怪しかっただろうか。
そりゃそうか、ここは軍だとカツラギさんに聞いたし。
軍服を着ていない女が一人歩いていたら誰だって怪訝な顔をするはず。

今は下を俯いているから男の人の顔はわからないけれど。


「あ、えっと…」


アヤナミさんに拾われただけで…とか何だか言いにくくて口ごもってしまった。

口元に手を当ててもごもごとしていると、顔を覗き込まれた。


「名前は?」

「…」


どうしよう…逃げたらもっと怪しまれるよね。
目を泳がせてどうにか逃げる策を考えていると、後ろから声をかけられた。


「何をしている。」


あまり機嫌のいい声とは思えないほど低い声。

男の人は姿勢を正すと私の後ろにいる人物に向かって敬礼をした。


「いえ、何でもありません。」

「これは私のだ。用がないのなら立ち去れ。」

「はい、失礼しました。」


男の人が踵を返して去っていく姿を眺め見た。
だって後ろを振り向くのがとても怖かったから。


「名前、いつまで突っ立っているつもりだ。」


そう言われては振り向かない訳にはいかない。

私は下を俯きながら後ろを振り向いた。


きっと、今の紫の双眸は鋭く私を睨んでいることだろう。

石になるんじゃないかと思うような目つきだ、きっと。


「何をしていた。」

「…書類を経理課に渡しに行った帰りで、ヒュウガさんを探してました。」

「余計なことはするな。お前の行動していい範囲は私の室と執務室、それに行き来する通路だけだ。」


……。


「ごめ、なさい…」


怖い。


なんで怒ってるんだろう。


私は震える手をギュッと握った。


怖い。


「執務室へ戻れ。」


小さく頷いてアヤナミさんの横を駆けて執務室の扉の前へと戻ってきた。

結局最後までアヤナミさんと目を合わせられなかった。
側にいるだけであんなに身を縮めてしまうほど怖い声色で名前を呼ばれたら、誰だって怖い。
ただでさえあの人は怖いんだ。


私は執務室を開ける扉のドアノブを握った。


大人しく本を読もう。
続きだって気になるし。


そう思ってから、動きを止めた。


私は本を読めるほど文字を覚えた。
まだ子供が書くような字だけれど、それでも書けるようにだってなった。

なら、ここにいる必要がどこにあるだろうか。


私は執務室から一歩後ずさった。

それが合図になったかのように走った。
まるで皆の好意から逃げるように。

少なからず罪悪感が私の心を蝕んでいた。
でも、怖くて。

ただそれだけで逃げ出した。

多分、我慢の限界ということはこういうことをいうのだと思う。


「あれ、あだ名たんどこ行くの?」


途中でヒュウガさんとすれ違った。

ピタリと止まる足は自然と踵を返し振り返る。


「どうしたの??」

「あの…ちょっとお遣いに。」


私はこの世界に来て初めて本気で嘘をついた。

自分のために。
自分のためだけに。


「コナツさんが早く戻ってきてくださいって言ってましたよ。早くお仕事してあげてください。」

「えー面倒だなぁ〜」

「で、では…」


また前を向くと、「あだ名たん。」と呼ばれた。


「何ですか?」

「いってらっしゃい。」


ドクンと心臓が鳴った。


「………い、って…きます…」



そういって私はまた逃げるように走り出した。




目的地はさっき本で読んだ場所。
あそこはどんな者でも受け入れてくれるらしい。

行き方なんてわからないけれど、とりあえずここから逃げ出したかった。

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