08
静寂の中に機械の音が静かに響く部屋。
もうすっかり見慣れたこの部屋はとても頑丈だ。
何メートルにも及ぶ分厚い壁に、何十にもロックされている扉。
真っ白い壁には大雑把にメモ紙が貼り付けられていて、至るところに様々な機械が置いてある。
私はそこに一人。
空を見上げたい気分なのに上を向いても真っ白い天井。
そわそわと落ち着かない気持ちばかりが先走っていて、何だかいてもたってもいられない。
なのに私にはどうすることもできない。
時計の針は23時を先程差したばかりだというのに、早くブラックホークの皆に会いたくて仕方がない。
潜入がバレてはいないか、弟はいたのか、皆は無事なのか。
聞きたいことがたくさんある。
聞きたくても聞けなくて、私は足手纏いで。
私はもう何度目かのため息を吐いた。
気分を変えるために人と話したいのにエレーナは出かけているし、本来なら数名の研究者もいるのに、時間も時間だから私はここに一人だ。
選び抜かれた研究者も、家族や恋人を人質に取られて無理矢理ここに連れて来られているようだった。
だがそうではない研究者もいて、アリスの研究に興味があるらしく研究に携わっている者がいるのも事実。
もちろん、この研究がどれほど恐ろしいものかわかるなり、逃げだす研究者もいた。
無理矢理連れられて来る研究者達も、途中で怖くなった研究者達も、逃げ出せば死が待っていた。
追っ手に捕まればここに引き戻されてアリスの実験体に使われる。
それをわかっていても逃げ出した人達もいたし、それが怖くて逃げ出さない人達もいる。
逃げ出してここに連れ戻されなかった人もいる。
彼らは助かったのだろうかと思っていたけれど、世にアリスのことが露見されていないということは…そういうことなのだろう。
逃げている時に殺されたか、逃げ切れないとわかって自害したか、私は知らない。
何より私は、昨日まで一緒に話したり共に研究していた人をアリスの実験に使うのは嫌だった。
そんな日は必ず魘されるんだ。
あの縋るような瞳が頭から離れないことなんてざらで。
エレーナにいくら『やめて』と私が言ってもエレーナは首を横に振るばかり。
そして決まって『裏切り者は許さないのよ。』と優しい声色で言うのだ。
『名前はいい子ね』『名前は私の天使だわ』そう言う時と全く同じ声色、全く同じ微笑み。
怖くて震え上がるというより、心臓から凍りつきそうになる。
そして唯一、逃げ出しても実験体に使われることなく、殺されることもないのは私だけだという事実。
エレーナは私のことを大切だと言ってくれているけれど、今回私が裏切っていることがバレたらさすがに命の保障はないだろう。
24時になり、日付が変わった。
こんなにも時間というものは過ぎ去るのが遅かっただろうか。
何かに集中していたら時間が過ぎるのも早いのだろうけれど、そわそわしすぎて研究さえ手につかない。
ただボーっとここにいるだけ。
紅茶を淹れて冷えている体を温める。
アリスを作ったこの研究室で紅茶を淹れるなんて、何だか不思議だ。
ティーパックの紅茶だったけれど、それでも十分ホッと息が付けた。
紅茶を二杯ほど飲んで何十回目にもなる時計を見ていると、エレーナが入ってきた。
「ただいま、名前」
疚しいことがあるからだろうか。
エレーナの表情が怒っているようにも見えるし何かを企んでいるように見える。
ブラックホークの潜入がバレたのだろうか。とか心はざわめくのに思考回路が凍りつく。
「おかえり、なさい。遅かったね。」
「えぇ。本当は23時には帰って来ようとしていたんだけれどね、」
ドクンと心臓が大きく鳴った。
紅茶のカップを持つ手が震えるのがわかる。
それを必死に抑えようとするのだけれど、どうやら意味はないようだ。
「忘れ物をしてしまったから一度取りに戻ったの。そうしたら今度は事故があっていたみたいで渋滞に巻き込まれちゃってね。」
「事故…?」
「えぇ。もう困ったのよ。脇道がない道路だったからどうしようもなくて。」
エレーナは持っていた小さなバックを机の上に置いて、疲れたとばかりに小さくため息を吐いた。
そっか、事故か。
バレていないようでよかった。
「名前はどうしたの?研究していないのに研究室にいるなんて…。お部屋にいないからまた脱走したのかと思ったのよ??」
「あ…うん、何か研究したい気分だったんだけど…頭痛がしてきちゃって。落ち着くために紅茶飲んでた。」
どうにか誤魔化すために嘘を取り繕うと、エレーナは近づいてくるなり私の顔を覗き込んで額に手を当てた。
「頭痛??熱はあるの??」
「多分ないよ。偏頭痛って感じ。」
「ダメじゃない、寝なきゃ。さ、部屋に戻って早く眠りなさいな。」
エレーナは私の背中に手を当ててゆっくりと合わせるように歩き出す。
私は流しにカップを置いて、促されるままにエレーナと共に部屋へと戻った。
私がベッドに横になるとエレーナは布団を肩までかけてくれる。
そして優しく頭を撫でた。
「風邪かしらねぇ?」
優しい声色。
頭が痛い私を気遣ってか、いつもより声のボリュームが小さい。
「明日も痛かったらお医者様呼びましょうね。」
「大丈夫だよ、これくらい。」
「ダメよ。ひどくなったら大変だもの。まだ頭痛がするようだったら絶対お医者様に来てもらうからね。」
「うん、わかった。」
「眠れるまで側にいてあげましょうか?」
「いいよ。大丈夫。紅茶飲んだら少し落ち着いたから、もう寝れるよ。」
「そう?」
「エレーナってば心配しすぎだよ。」
「でも…」
「大丈夫。」
心配げに眉を寄せるエレーナはしばらく悩んだ後に「わかったわ」と微笑んだ。
「眠れなかったらいつでも起こしてね。おやすみなさい。」
「ありがと、おやすみエレーナ。」
電気が消されて部屋の扉が閉められ、エレーナがどんどんと遠ざかっていく足音を聞きながら瞳を閉じた。
「随分と過保護だねぇ♪」
誰もいないこの部屋で声がするなんてありえないことで、私は上半身を起こしながら驚いて声をあげそうになった。
すんでのところで声の主が後ろから私の口を片手で塞いだのでそれは抑えられたが、寿命は縮まったものと思われる。
「ビックリさせてゴメンね?」
ヒュウガの声が聞こえて口元から手が離されるなり、私は深いため息を吐いた。
「…は、ぁ〜…ヒュウガ……。ホントビックリしました…。」
何だか似たようなことが前にもあったような気がする。
確かあれは追っ手に私が追われている時で…。
今の方が心臓に悪いけれど。
「……って!!なんでここにっっ!!」
「しー。静かにしないとエレーナ来ちゃうよ?」
後ろにいるヒュウガの人差し指が私の唇に触れた。
横から覗き込まれるような形になっているためか、顔も体も近い。
「大丈夫です。エレーナと2人だけで話したいこととかあるので、この部屋は防音なんです。」
「へぇ、よかった♪」
薄暗い部屋の中、ヒュウガはベッドの淵に腰掛けるとエレーナが去った扉の方を見やった。
「あれがエレーナ?」
「はい。」
「あだ名たんが言った通り、随分心配されて可愛がられてたねぇ♪」
「エレーナは私にはいつもこうなんです。」
「風邪なんだって?」
「いえ、仮病です。皆が無事かそわそわしてたのを見られたので咄嗟に。それよりどうやってここに…。」
「そこの窓から潜り込んできた☆」
…ブラックホーク、恐るべし。
ここ5階ですよ?
「潜入の帰り道だったからね、ちょっと寄ってみたんだ♪」
「コナツさんは??」
「外で待ってるよ♪」
「そうですか…。ではお二方とも無事だということですね?」
「ん♪」
暗闇に融けそうなヒュウガの黒い髪が揺れた。
「他の方々は?!?!」
「無事だよ。アヤたんとはまだ連絡とってないからアヤたんの情報はわかんないけど、とりあえず皆バレてもいないし傷一つ負ってない。ただ弟くんは見つからなかったけどね。」
「そうですか…。でもよかった。無事ならいいんです。よかった…。本当に、本当によかった…。」
「そんなに心配だったの?」
「当たり前です!」
「こんな時間までそわそわして眠れないくらいに?」
「はい。」
小さく苦笑して頷くと、ヒュウガは私の肩を押すと壁に背中を付けさせ、そのまま唇を重ねてきた。
あまりにも突発的な出来事に頭がついていかない。
ただヒュウガの温もりが唇越しに伝わってきて、どうしようもないくらいに切なく、そして愛おしくなった。
彼が一体どういうつもりでキスをしているのかなんてわからないけれど、そんなことどうでもいいくらいには気持ちよくて、蕩けそうなキス。
決して深いわけではないけれど、唇を唇で食まれて、たまに吸われたりもした。
「抵抗、しないんだね。ねぇ、どうして?」
唇が離れ、熱い瞳のまま見つめ合っていると、遠くからコツコツと先程去った足音と同じ足音が聞こえてきた。
勢いよく扉の方を見る。
恐らくこの靴の音はエレーナの足音だ。
段々と近くなってくる足音はこちらに向かってきている。
足音が大きくなってくるたびに焦りも大きくなってきて、私がヒュウガに視線を戻すと、ヒュウガは私をベッドに横にさせて布団を被せるともう一度唇に小さなキスを落として「おやすみ」と窓から出て行った。
ご丁寧に窓まで閉めて。
なんだか逢引のようでドキドキもするし、エレーナにバレていないかと嫌な意味でもドキドキする。
ギュウッと瞳を閉じると、案の定部屋の扉が開いた。
「名前、起きてる?一応頭痛のお薬持ってきたの。」
「あ…うん、ありがとうエレーナ。」
「あら、やっぱり風邪かしらね。顔が赤いわ。」
い、いやっ!多分これは違う!!
と言いたかったけれど言えるわけもなく。
私は渋々薬を飲んだ。
「まぁ、名前ったら戸締りはちゃんとしないとダメじゃない。5階っていっても変態さんは根性で入ってきたりするものなのよ??」
…変態さんって…。
先程ヒュウガが入ってきたからか、何だかヒュウガが変態だと言われているような気さえして少しだけ笑えた。
エレーナが窓の鍵を閉めてくれるのを眺め見ながら、私は未だに熱い唇をそっと手で押さえた。
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