知らない人には近付かない

寒い。身体の底から這い上がってくるような寒さに身を震わせ、ぼんやりと意識が浮上する。暗かった視界が次第に明瞭になるにつれ、刺すような寒さを自覚し、思わず自信の身体を抱きしめるように身を縮めると、自分の置かれている状況の可笑しさにはたと気づいた。

そこは全く見覚えのない場所だった。天井には申し訳程度に白熱電球が一つぶら下がっているだけで、一応電気は通っているのか頼りない光を放っていた。今が何時なのか不明だが、すりガラス越しに面格子が薄っすらと浮かんで見える窓からは外の明かりが一切入ってこない所を見るに、夜で間違いないようだ。しかも周囲に民家はおろか街灯も建っていないような寂しげな場所。そんなとりとめもない想像が浮かぶ。外から喧騒も聞こえないため、不安な気持ちが助長された。

周囲の様子が伺えない役立たずの窓から視線を反らした瑠迦は、再び建物内を注意深く探った。中は人家というよりも倉庫に近く、大きな棚が立ち並び、物が雑然と置いてあった。自分が横たわっていたのはアルミ製のベンチのようで、いよいよ自分が置かれている状況が不明瞭になり混乱がいや増す。しかも、自分の格好が更に問題だった。

服装自体は見慣れた学校指定の制服である黒いセーラー服だ。寒さも本格化してきたのでそろそろコートが必要だ、などと考えいる場合ではない。問題は制服が竜巻にでもあったかのようにボロボロで、ほとんど用を成していないことだ。寒いわけである。
軽く現実逃避を仕掛けたが、状況から目を逸らしている場合ではななかった。

「何なのこれ……何が起こって……」

そこまで言いかけ、突然脳裏にあの出来事がフラッシュバックした。
いつもより大幅に遅くなった帰宅時間。自分の後をついてくる気配。追いかけられて自然公園に逃げ込み、追い詰められ、逃亡を試みて――そこから記憶がない。何か大きな衝撃があった気がするが、それが何だったのか、今になっては知る由もないことだ。

ともあれ今は現状を理解することが先決だった。念のため、自分をここに運びこんだ何者かがあのストーカー野郎で、辱めを受けていないかさっと確認してみたが、服がボロボロであるだけで特に身体には違和感はなかった。
とりあえず暴行された事実が無いようで、ほっと溜息を吐く。やや緊張の糸が緩んだ所為か空気の冷たさを改めて感じ取り、ぶるりと身を震わせた。

「さ、寒い……っ、とにかく、ここから出ないと……」

ベンチに投げ出した足を床に下ろし上体を起こして立ち上がろうとした時、靴が片方無いことに気づく。暗い足元を見渡しても見当たらないため、仕方なく諦めて今度こそ立ち上がった。
暫く寝ていたためか足元が覚束かず、バランスを崩して近くにあった何かを蹴飛ばし大きな音を立てた。驚いて足元を確認すると、鈍い銀色に光る一斗缶が転がっていた。上の蓋は取り外されており、中身は液体の代わりに黒く焼け焦げた木の枝らしきものが飛び出していた。どうやら一斗缶の中で薪を燃やして暖をとった名残のようだ。室内で火を焚くのは危険だな、などと呑気な考えが頭をよぎる。軽く思考が現実逃避しかけた時、ガタンッ、と物音が聞こえる。
反射的に向けた視線の先には、白熱電球で照らされた弱弱しい光の端に、黒い影のようなものを視認した。物影ではない。直感的に悟ると、ぶわりと嫌な汗が蟀谷に浮かんだ。

「……ようやく目覚めたか」

硬質なテノールが響いた。
その声の主と思しき相手が近付くに連れ、鋼同士がぶつかり、擦れるような金属音が混ざって聞こえる。丁度、重たい鎧でも纏っているような――

ガシャン、とより一層大きな音を立て、金属音交じりの足音が止んだ。白熱電球の下、その姿がついに晒される。
現れた風体の異様さに、瑠迦は目を見張った。

性別は声質からして、恐らく男。身長は高く、百八十はあるだろう。異様なのはその装いで、頭からつま先まで全身が黒く、ファンタジーな世界観のゲームに出てくる騎士などが来ているような甲冑を纏っている。擦れるような金属音の正体はこれだろう。途中アクセントのように赤い線が走り、その姿をより禍々しく見せている。目深にフードを被ってるのもそうだが、目元はバイザーで覆われ、僅かに見えているのは口元のみ。その口元も固く引き結ばれ、表情は一切読み取れない。
鎧を纏っているような音とは思ったが、まさか本当に鎧装備とは……。
コスプレかとも思ったが、あの音は張りぼてのそれではない。ファンタジー世界から抜け出してきたような風貌に、瑠迦は恐怖や不安よりもまず困惑を覚えた。
瑠迦が呆然と見上げていると、こちらを威圧的に見下ろす相手がおもむろにフードを脱ぎ出す。その下からさらりとした金髪が現れ、続いてバイザーも取り去ると、やや赤色を帯びた鋭い金の瞳が瑠迦を貫く。

白皙の貴公子と呼ぶに相応しい美丈夫がそこにいた。

物語の中から抜け出してきた王子様のような姿に、瑠迦は自分は夢でも見ているのだろうかと考えた。

「体はもういいのか?」
「――へっ!?」

思わぬ問いをかけられて、素っ頓狂な声が出た。顔に熱が集中する。
困惑に思考能力が低下した頭では、相手の問いの意味さえ呑み込むのに時間を要した。
体の心配をされているということは、ここまで自分を運んだのはこの男――恐らく自分とそう変わりない年齢に見える――異国の青年だろう。ヨーロッパ系のコーカソイドに見えるが、どこの出身だろうか。随分と流暢な日本語を操っている。

もし自分を助けた相手が彼なら、あの後何があったのか。
イケメンというのは得で、頭からは彼があのストーカーかもしれない、という可能性は既に瑠迦の中からすっぽ抜けている。しかし直感的に彼ではないと悟っていた。決して相手がイケメンであるからではない。

ともかく確認したいことは山程もあった。
真相を確かめるため、瑠迦は身を起こしつつ青年に尋ねた。

「あ、あなたが助けてくれたんですか……?」
「助けた、か……。まあ、間違いではない」
「!?」

簡単であるはずの問いに対して、青年の答えは曖昧だった。
返答時の表情がシニカルに歪み、ぞわりとした悪寒が背筋を這い上がる。薄れていた筈の不安が瑠迦の中で再び膨れ上がった。

この青年は危険だ。本能が激しく警鐘を鳴らす。
ストーカーではないかもしれないが、時代錯誤な姿といい、別の危険性を孕んでいるというように。
自分の身に起こった状況を確認するよりも、迅速にこの青年から離れるべきだと瑠迦の直感が騒いでいた。

「あ、あの、助けて頂いたことにはお礼を言います。でももう外も暗いし、とりあえず今日は一旦家に帰らないと――」
「そうか。だが私の用はまだ済んでいない。それまでお前には付き合ってもらおう」
「よ、用……!?」

早口に捲し立てる瑠迦の言葉を遮り、高圧的に言い放つと、ぬっと相手の籠手に覆われた両手が伸びた。咄嗟に避けようとしたが間に合わず、強く両肩を掴まれると、ガタンッ! とけたたましい音を立てて、先程まで横たわっていたベンチの上に押し倒される。叩きつけるような強い力に、一瞬息が詰まった。

「うあぁっ!」
「暴れるな、大人しくしていたほうが身のためだぞ」

鈍痛に呻く瑠迦に構うことなく、青年がベンチを跨いで彼女の上に乗り上げた。瑠迦を見下ろす顔は酷薄で、金に輝く瞳は真冬の月のように凍てついている。
瑠迦の顔色がざあっと蒼白になる。ここに運ばれる前にも感じた恐怖がよみがえってきた。
青年の引き結ばれた口元が、嗜虐的に吊り上がった。

「最も、暴れたいというのであれば別に構わん。それはそれで、楽しめそうだ」

まだ悪夢は醒めそうにない。