後の聴取で知ったことだが、木島はわたしの新しい家の近所にある小さな病院で事務として勤めていた。逃げたつもりが、却って近づいてしまっていたのだ。
今更後悔しても仕方がないが、運の悪さに恨めしさすら覚える。
わたしも関係者として、事情を話しに何度か警察へ行った。他にも沖田さんを看病したり、沖田さんの戸籍問題のために奔走したりして、あっという間に二週間が過ぎてしまった。
けれど、沖田さんは未だ目覚める気配がない。
わたしは沖田さんの病室の窓を開け、風を入れる。来る途中で買ったコスモスを活けて、わたしはベッド脇の椅子に腰掛けた。
沖田さんから外した首輪をぎゅっと握りしめる。彼が急に人間に戻ったので、大慌てて外した。そのために金具が壊れ、ベルト部分も破れてペラペラしている。
わたしは沖田さんを見つめながら、深いため息をついた。
「せっかく貰った命なのに。こんなのないよ……」
沖田さんは青白い顔をして横たわっている。失血し過ぎて一時は命が危なかった。何とか一命を取り留めたものの、意識は未だ戻らないままだった。
生きているのか心配になるくらいに、沖田さんは静かに眠っている。まるで、黒猫が見せた結核で弱った沖田さんのようだ。
いつ目覚めるのか、それとも、もうこのまま目覚めないのか。それは医師でもわかりかねるとのことで、あとは本人の生命力を信じるしかないとまで言われた。
もう涙も出なかった。何も考えたくなかった。殺風景な白い壁が、余計に不安をかき立てる。
すうっと風が吹き、コスモスの花びらを揺らした。その秋風はわたしの身体の中までも吹き抜けて行くかのように、ただただもの悲しさに暮れていた。
にゃーん――
そんな時だった。どこからともなく、猫の鳴き声が聞こえた。わたしはハッとする。
「猫……? もしかして! 」
気位の高い黒猫を思い浮かべたと同時に、何処からともなく例の黒猫が現れた。猫は沖田さんの胸の上に座って、しっぽをくるりと持ち上げる。そして、再度にゃーんと鳴き、わたしを見つめた。
わたしは握っていた首輪に視線を落とす。これがあれば、また話が出来るはずだ。曲がった金具が折れないように慎重に戻し、やや不恰好ながらも猫に付けた。
「やあ、お嬢さん。また会ったな。元気がないようだが、大丈夫かい? 」
「大丈夫なわけないでしょ。殺されそうになったし、沖田さんもこんなだし。大変だったんだから」
「ああ、だから来たのだよ」
猫は相変わらずだ。飄々として、何でもなかったかのような口調に、わたしはまた深いため息をついた。
「言っておくけど、沖田さんは殺さなかったわよ。その上で撃退したんだからね。刺されていたのに! 」
わたしはじろりと黒猫を睨み付ける。恨み言を言ったところで何も変わらないが、どこかにぶつけたかった。
「もっと、もっと早く人に戻してくれていたら、こんなことにはならなかったわ……! 」
最後の方は、だんだん涙声になってしまった。鼻をすすりながら、黒猫に訴える。
「吾輩は間違った事は言っていないさ。しかし、こんな事件に巻き込まれるとはな。吾輩も責任を感じるからこそ、こうして出向いたのだ」
「呑気なこと言わないでよね」
わたしはぷい、とそっぽを向いてやった。完全に猫のせいというわけではないけれど、責任の一端はあると思う。
「そう怒らんでくれよ、お嬢さん」
「だって……このままじゃ、沖田さん……」
今度こそ、本当に沖田さんは死ぬかもしれない。そう言いかけて、わたしは俯いた。口に出すとまた泣きたくなる。それに、これ以上言ってしまうと、本当にそうなってしまいそうだ。どうしても言いたくなかった。
そんなわたしの様子を見て、黒猫は自信満々といった風に胸を張った。もしも、彼が人間だったなら、ドンと胸を叩いていただろう。
「吾輩だって、ちゃーんと考えているのだ。任せておきたまえ。安心していいぞ。ところで、お嬢さん。牛乳を頼めるかな」
「そんなものないわよ。ここ、病院だもの」
「腹が減っては戦はできぬ、と言うではないか」
猫はベッドから降り、わたしの脚にすり寄る。
「もう、分かったわよ。しょうがないわね。買ってくるから、そこで待ってて」
「すまないね。お嬢さん」
「よく言うわよ」
全く。いつもいつも、この猫は牛乳をせびるんだから。などとうそぶきながら涙を拭い、わたしは売店まで急いだ。
それにしても、あの黒猫。普段は何を食べて生きているんだろうか。現れた時はいつもお腹を空かせているような気がする。
とはいえ、まさかいつも死人の魂を食べているわけでもないだろう。食べていたら毎度牛乳牛乳とは言わないはずだと、わたしは勝手に結論付けた。
そこまで考えたとき、後ろから声がした。「出来れば低脂肪乳にしておくれよ」と、黒猫が更に注文を付けてきた。図々しいのも変わらない。
けれど、いつかの時と同じだ。手掛かりはあの猫しかない。牛乳一本で沖田さんを助けて貰えるのなら、安いものだと思った。
それに、わたしにはまだ聞きたいことがある。
◇
「ああ、うまかった。腸《はらわた》に染み渡るようだよ」
牛乳をたらふく飲んだ黒猫は、満足そうに前脚でお腹をさすった。表情も緩みきっている。そのまま昼寝でもしてしまいそうな様子だ。
ちょうど昼時だったので、わたしもお弁当を買って一緒に食べた。おかずの鮭を咀嚼しながら、上機嫌な猫にわたしは声をかける。どうして沖田さんをわたしに送り込んだのか。これを今、猫がいるうちに聞いておかなければ聞くチャンスを逃しそうだと思った。
「……ねえ、どうしてわたしだったの? 」
「ああ、それは――」
猫はどこか遠くを見つめるように、金色の目を細めた。
わたしが名前をもらったご先祖様は、江戸に住んでいた。一人娘で後に婿養子をもらう事になるのだが、黒猫はご先祖様の娘時代に知り合っていたらしい。
その頃、黒猫は既に歳をとっていたが、まだ普通の猫だった。そして、ひどく餓えていた。
民家の裏で、生ゴミの山から食べるものを漁っていた時だった。家の者に見つかってしまった猫は、首根っこを掴まれてぽいっと投げ捨てられた。
決して強く投げられたわけではなかった。普段の黒猫ならいくら歳をとっていたとは言え、身体を反転させて軽々着地できたはずだった。けれどその時はあまりに飢えていて、そんな力も出なかった。
猫は土の上に叩きつけられ、怪我をした。己を投げた人物を睨み付けたが、もういなくなっていた。
「もう死ぬのかと思った」
「そう……」
だが、救いの手が現れた。みのりと同じ名前の先祖だ。年の頃は14、5ほどだった。
「お前、どうしたの? かわいそうに」
猫が力無げに鳴くと、みのりは猫を拾い上げた。そっと懐に入れる。
「帰ったら手当てしてやろうね」
みのりは懐の上から猫を撫でた。黒猫は大層気持ちが良かった。
みのりはその村の庄屋の一人娘だった。食うに困るほど貧しいこともなく、彼女の家族も黒猫を受け入れた。
「我輩はすっかり回復した。そして、我輩はそのまま飼われた」
と言っても、そこは気ままなこの猫のことだ。ふらりと居なくなっては帰って来てを繰り返していた。
たまに帰ってきては餌を食べ、家人たちを和ませる。みのりも家人も、猫の帰宅をいつも待ちわびていた。
黒猫はその頃、人語を解するようになっていた。また、沖田さんが猫と共にみのりの曾々祖母に会ったのもこの時期だ。
「じゃあ、あなたが熊吉だったのね」
「さよう。すっかり名乗りそびれたからな」
「ああ……そうね。ごめんなさい」
構わないと猫がしっぽを揺らした。あの時は沖田さんが居なくなって、わたしも半ばパニックだった。
「どうやって化け猫になったの? 」
「年老いた後に、死人の魂を喰らったのさ。今のところ、沖田くんのが一番旨かったぞ」
外をうろついていた時に、たまたま行き倒れた人の魂を食べる機会があったと猫は言った。
猫はいつも気まぐれだったが、恩はずっと忘れなかった。
「我輩は、恩返しのためなら何でもしたいと思っていた。けれど、ただの猫にできることなんぞ、たかがしれている。だが化け猫なら、その限りではあるまい」
わたしは猫を少し見直した。この飄々とした食えない黒猫が、忠犬さながらの忠義を持っていたなんて。
あるとき、みのりの曾々祖母が風邪で寝込んだ。今で言うインフルエンザのような、症状のきついものだった。
化け猫になったのはこの頃だと、猫は言う。
猫は床にいるみのりの側に寝そべり、彼女の独り言にじっと耳を傾けていた。
「総司さまは、どうしていらっしゃるかしら……」
猫はピクリと耳を立て、身体を起こした。じいとみのりの顔を眺める。
「子供の頃、お話した事があったの。……初恋、だった。総司さまは、すぐに京へ上ってしまわれたけれど」
今さらどうして思い出したのかしらね、と笑うみのりに猫はにゃあと鳴いた。そして立ち上がると、部屋を出ていった。
「実はこの時、沖田くんが江戸で養生していた頃と時期が重なっていた」
「と、言うことは……」
黒猫は、沖田さんの病床に現れるようになった。斬られそうになりながらも、毎日のように通った。
けれど、そうしているうちに沖田さんが亡くなった。
「あの頃、養生する彼の存在は極秘だったはずだ」
「勘のいい人だったそうよ」
「そうか。人とは不思議なものだな」
猫は困った。
みのりに一目合わせてやろうと沖田さんの元へ向かったけれど、沖田さんは亡くなってしまった。何より、会わせるにしてもみのりには既に夫がいた。そんなみのりを初恋の相手に会わせるのは、猫も流石に気が引けた。
それに、沖田さんを復活させるには、化け猫になりたてだった当時の猫には妖力が足りなかった。
猫は待つことにした。そして、猫妖術を完成させるために、ひたすら妖力を溜めた。
やがてみのりの夫が亡くなったと聞いた猫は、またふらりとみのりの元へ戻ってきた。
猫の目論見通り、みのりはひとりだった。しかし――
「我輩が探し当てたのは、お嬢さんだった」
猫はわたしを見た。切ない瞳が僅かに揺れる。
「もう、とっくに亡くなっていた」
猫は寂しそうに、耳をぺたんこにしてため息をついた。
「行くのが、遅かった」
猫は化け猫になってしまったがために、自分の寿命が人よりも遥かに長くなってしまった。それで、時間の流れを読み間違えたのだ。
「そうだったの……」
「面影はあるが、あまり似ていないからな。すぐに違うとわかった」
猫は寝そべっていた身体を起こした。そしてわたしの方へ向き直る。
「けれど、我輩は送る相手を間違えたとは思ってはいないぞ、お嬢さん」
「……ありがとう」
胸を張った猫に、わたしは微笑んだ。
「人違いなら、何もせずに去ろうかと思っていた。しかし、お嬢さんがあまりにも寂しそうでな。つい、手を出してしまった」
一目会わせるだけなら、沖田さんをわざわざ猫にすることもなかったと猫は言う。沖田さんを送り込む相手がわたしに変わった事で、猫なりにいろいろ調整したのだと、猫は大袈裟に肩を竦めて見せた。