終幕・終わりは始まり(後編)




 わたしは最後にとってあった厚焼き玉子を食べ終えた。一緒に買ったお茶を一口飲み、食事を済ませる。
 空になったお弁当の容器を捨てると、わたしはまたベッド脇の椅子に座り直した。

「よし、ではもう一仕事始めるとしよう」

 黒猫はさっと立ち上がり、ベッドに飛び乗った。沖田さんの胸の上をうろうろと歩き回り、彼の身体の真ん中あたりに座り込む。にゃーと鳴いて、しっぽをくるりと一振りした。

 すると、わたしは突如として猛烈な眠気に襲われた。どうにも目蓋が重い。とても開けていられる状態ではなくなった。あっという間に意識が遠のき、わたしはそのまま眠ってしまった。


 わたしは広い草原の中にいた。その草原は夕焼けの一歩手前のような空で、足元でそよぐ草はどこか黄色っぽくくすんでいる。
 目の前に川がある。見るからに浅く、流は緩やかだ。
 綺麗に清んだ水の中から、時折水草が顔を出している。向こう岸には一面に花畑がひろがっていた。

 この川に足を浸けたらさぞ気持ち良いだろう。ついでに川を渡って花畑にも行ってみたくなる。そう考えた時、猫が足元から声をかけてきた。

「お嬢さん。川を渡ってはならないぞ。こちらに戻って来れなくなる」

 それを聞いたわたしは寒気がした。つまり、この川は俗に言う「三途の川」ではないか。確認するために足元を見るが、猫はもういなくなっていた。

 ふと、わたしは視線を右へずらした。すると、今にも川に片足を入れようとしている人がいる。
 総髪を一つにくくり、寝間着のような着流しの後姿には見覚えがあった。沖田さんだ。

 沖田さんに気が付いた時、わたしは駆け出した。これが本当に三途の川なら、彼を向こう岸に渡してはいけない。

「沖田さん! 」

 わたしはすぐに追い付いて、沖田さんの手を後ろから掴んだ。彼は驚いてわたしを振り返る。すると、急に目の前が暗くなった。


 次に気が付くと、わたしは黒い空間にぷかぷかと浮かんでいた。いつか沖田さんの過去を見た時と同じ感覚だ。わたしは辺りを見回す。

 浅黄色の羽織を来た沖田さんと、別の男性がすっと表れた。二人とも刀を持って睨み合っていると思っていたら、沖田さんは相手をバッサリ切り伏せた。圧倒的な強さと速さで、全く負ける気がしなかった。
 斬り合いを見ている間にも、たくさんの沖田さんが現れる。

 子供達と遊ぶ沖田さんや、隊士達と酒を酌み交わす沖田さんなど、次々と浮かんでは消えてゆく。
 中には猫の姿で扇風機で遊ぶ沖田さんまでいて、彼の人生の様々な場面が何パターンもそこに集まっていた。どの沖田さんも溌剌として、見るからに生き生きしている。

 けれど一ヶ所だけ、黒い陰が差したような生気のない沖田さんがいた。病に臥せ、忍び寄る死に抗う沖田さんだ。
 沖田さんは小さな部屋でひっそりと、一人で座って虚ろな目をしていた。わたしは導かれるように、まっすぐそこへ向かう。

 わたしは沖田さんの布団のすぐ脇に腰かけた。沖田さんの表情は全く変わらず、身体も微動だにしない。わたしを認識しているのかどうかわからないほどだ。わたしはそれを気にすることなく、沖田さんに手を伸ばした。

「沖田さん。わたし、ここにいるよ」

 わたしは沖田さんを抱き締めた。彼はぴくりと動く。そして一瞬の間を置いて、沖田さんはそろそろと手を動かした。
 沖田さんの手がゆっくりとわたしの背中に辿り着いた。力は無いが、確実にわたしを抱きしめ返している。

「わたし、待ってるね」

 沖田さんの肩口に埋めた頬に、暖かい滴が落ちてきた。

 沖田さんを、彼の魂を捕まえた。わたしは確信した。何の根拠もないけれど、きっとそうだと思った

 わたしは抱き合ったままの姿勢で彼を見上げた。けれど、彼の顔は見えなかった。そこで意識が途切れたのだ。


 わたしが目覚めた時、辺りはすっかり暗くなっていた。しんと静まり、物音はほとんどしない。
 あれから何時間経ったのだろう。わたしはゆっくりと体を起こし、ごしごしと目を擦った。どうやら椅子に座ったまま、沖田さんのベッドの端に突っ伏して寝ていたらしい。

「そうだ。黒猫は……」

 辺りを見回すが、黒猫は見当たらない。むしろ、ここで黒猫に会ったことすら、夢か幻だったような気にさえなる。
 首をかしげたその時、呻き声が聞こえた。わたしははっとして沖田さんを見る。

「うう、う……」
「沖田さん? 」

 沖田さんの目がうっすら開いている。わたしは何度も何度も確認した。それでも、沖田さんの目が開いている。わたしは嬉しくて、泣きながら笑っていた。それを見た沖田さんは、横になったまま不思議そうな顔でわたしを見ている。

「みのりさん? 私は……そうか、刺されたんでしたね。また死んだかと思いましたが、生きているようです」
「良かった、本当に……」

 沖田さんは、泣きじゃくるわたしにそっと手を伸ばし、涙を拭う。わたしはその手を握り、自分の頬に寄せてまた泣いた。

「夢で、あなたに呼ばれていた気がします。それと……あの黒猫が現れたんです。早く起きろと言われました。その時、あなたがわたしの枕元で泣いているのも見ました。それで慌てて飛び起きたんです」
「猫が、来たの。この病室に。あなたを助けるって」
「そうですか。彼にも感謝しないといけませんね」

 沖田さんは笑った。まだ弱々しいながらも、顔色は良い。生気を感じる。

「私はあなたと出会ったとき、あなたと会話したくてたまりませんでした。その内、人間に戻りたいとも思うようになりました。そう願い続けるうち、私は遂に人に戻ることが出来ました。すると次は、とても怖くなりました」

 すう、と大きく息をついて、沖田さんは続ける。

「私は今まで、死ぬことを怖いと思ったことはありませんでした。むしろ戦って死ねるなら本望でした。けれど、今は怖い。あなたを守れなくなることが、あなたを失うことが、とても、怖い」

 沖田さんはそう言って、わたしの髪を一房手に取って軽く口付けた。なんだか恥ずかしいような、でも嬉しいような。ひしめき合うような幸福感に満たされる。この人が、心底愛しいと思った。

「猫が助けてくれたんだね。でも、どこに行ったのかしら? 」
「さあ、わかりません。私は夢でしか見ていませんし、直ぐにいなくなってしまった」

 沖田さんは顔を僅かに横へ降った。

「そういえば、猫が夢で言っていたことですが――」

 沖田さんは、夢での黒猫とのやり取りを教えてくれた。沖田さんにも夢の中でわたしがした通りの事が起きていたのだ。

 病床の沖田さんを抱き締めた後、わたしは目が覚めた。けれど、沖田さんの方にはまだ続きがあった。

「あの黒猫が現れました。遠い目をしてあなたの名前を呼ぶものだから、つい聞いてしまった」
「え? わたし? 」

 驚いて聞き返すと、沖田さんは茶目っ気たっぷりに笑った。

「みのりさんには、同じ名前のご親戚はいらっしゃいましたね。黒猫は、その方を呼んだそうです」

 義理堅い猫だ。まさか曾々孫の代になっていたとは夢にも思わなかったのだろう。
 わたしは沖田さんにも猫から聞いた過去を話した。

「そうか……あの、熊吉が。まさか本当に猫又になっていたか」

 沖田さんは懐かしそうに笑った。世の中どこに縁が繋がっているかわからないものだと、沖田さんは感嘆する。

「ところでみのりさん。私、もう猫にならないような気がします。完全に人に戻れたんですよ、きっと」
「どうしてわかるの? 」

 沖田さんは確信に満ちた顔で話した。

「何となく、そういう感じがするんです。昔、完全に人だった頃の感覚が戻ったようなんですよ。それに、夢で猫が言ったんです。今後、私が誰かを手に掛ける事があれば、次は容赦なく完全な猫にする、と」

 沖田さんは柔らかく微笑んだ。わたしも嬉しくて、霧が晴れたように心がぱっと明るくなった。

「じゃあ、そこに気を付ければ……!」
「ええ。恐らく、一生人間のままで過ごせるでしょう。本当に、彼に感謝しなければ」
「良かったね。沖田さん。沖田さんなら大丈夫よ。あんなこと、そうそうあっちゃたまらないわ」

 わたしは沖田さんの手をきゅっと握った。彼もそれに応えるように握り返してくれた。

「努力します。私だってこのままがいい。それよりも。ありがとう、みのりさん。ずっと看ていてくれていたのでしょう」

 沖田さんはもう一方の手で、再度わたしの頬を撫でて微笑んだ。

「愛しています。みのりさん。私には、あなたしかいない」

 わたしはまた泣いた。声をあげて、子供のように。これ以上の幸せなんて、きっと他にはないと思った。わたしにだって、沖田さんしかいない。いつの間にか、かけがえのない人になっていた。

 それからの沖田さんはみるみる回復した。医師や看護師も驚く程、あっという間に退院できてしまった。つい最近まで意識がなく、生死をさ迷っていたなんて信じられないくらいだった。

 そして、戸籍問題も片付いた。幾度もの手続きの末、無事に就籍届を出すことができた。
 ただ、流石に「沖田総司」では有名すぎる。それでは何かと支障が出るだろうと思い、彼の本名である「藤原房良《ふじわらのかねよし》」と混ぜて、「藤原総司」として届けることにした。
 ちなみに、これで医療費の全額負担も免れた。

 藤原さん、もとい沖田さんは、手始めに夜間中学に通いながら仕事を探すことにした。そして、幸運にも我が家から2駅先に剣道道場を見つけた。その道場で助手として手伝える事にもなった。
 一度こっそり見に行ったが、沖田さんは教えるのはあまり上手くない。けれど、剣の腕前は折り紙付きだ。お金を貯めて、いずれ自分の道場を建てるのだと張り切っている。新しい目標も出来て、まずまず順調だと思う。

 その後も、黒猫は現れなかった。沖田さんも、ずっと人間のままだ。
 それから更に1年が過ぎた。

 肩に淡い秋の陽を感じ、ぽかぽかとして気持ちがいい。わたしは沖田さんと2人で、わたしの実家の目の前にいた。
 沖田さんはカチコチに緊張している。着慣れないスーツ姿でさらに窮屈そうにしている。私たちは、2人して玄関先でそわそわしていた。

「総司さん、大丈夫?入る前から疲れてない? 」
「大丈夫。それよりも、きちんとご挨拶しなければ」

 そうは言うものの、総司さんの顔は引きつり強張っている。

「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「そいつは仕方ないさ。何たって、みのりのご両親なんだから。近藤先生、土方さん、おミツ姉さん。私の一世一代の大勝負です。どうか草葉の陰から見守っていてください」 

 よし、と気合いを入れる総司さんを見ながら、わたしは草葉の陰から総司さんを見守る3人を想像してしまった。

「草葉の陰って……」
「だって、みんなとっくに死んでいるんだから」
「今度、お墓参りしようか。近藤さんのは知らないけど、土方さんのは墓碑くらいあったと思うの。そうそう、総司さんとお義姉さんのお墓もちゃんと残っているのよ? 」

 そう言うと、総司さんの顔がますます引きつった。緊張を解すつもりが、却って逆効果だっだろうか。

「いや、私のは止そう……。もう当分、死にたくない」

 総司さんは何かを振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。

 総司さんは玄関チャイムを押した。家の中で母が返事をして、バタバタと玄関に向かって来るのが聞こえる。
 両親には総司さんが幕末から来たことをまだ教えていない。彼があの沖田総司だと言ったとしても、信じてもらえるかどうかは分からない。また一波乱起きるかもしれない。けれど、総司さんの人柄を分かって貰えればきっと大丈夫だろう。

 さわやかな風に吹かれるような気持ちで、わたしは総司さんを見上げた。彼も顔をこちらに向けて、微笑み返してくれる。彼の後ろには、晴れて澄み切った秋の空がどこまでも広がっていた。

 後で聞いた話だが、母が玄関を開けた時に、わたし達の後ろに黒い猫が座っていたらしい。猫はしっぽを大きく一振りすると、直ぐにいなくなってしまったそうだ。

                        完


- 19 -

*前次#


しおりを挟む
♂恋愛至上主義♀ ラブファンタジー 名も知れぬ駅 文芸Webサーチ