酒場の女


 街で買い物をしてから宿へ引き上げた。宿には酒場も併設されていて、オウエンとアネットはそこで食事を摂ることにした。
 酒場はたくさんのお客でにぎわっていて、常に誰かの話し声や食器の音で溢れていた。人混みの間を縫うようにウエイターたちが忙しく歩き回っている。
 アネットはまた、現実に打ちのめされた。メニュー表を見ても、文字が全く読めない。そのことに、彼女はここへ来て初めて気がついた。アネットが長年慣れ親しんだ日本語など、もちろんどこにも書かれていない。英語やその他の言語には決して明るくはないが、仮に知識があったとしても全く役に立ちそうにはなかった。

「あの、オウエン。適当に注文してもらってもいいかしら」
「それは構わないが、どうした? 食べたい物があれば遠慮しないでいい。ここまで随分魔物を倒してきたし、まだ資金に余裕はあるぞ」

 オウエンは「安心してくれ」とアネットへ目線を寄越した。アネットは、居たたまれない気持ちがむくむくと膨れていく。

「ありがとう、オウエン。でも、そうじゃないの。わたし、今更気が付いたんだけど……ここの文字が読めなくて……」

 オウエンは一瞬皆目し、すぐに顔つきを元に戻した。アネットはこれからの生活を思うと、ますます気が重くなった。

「そうか……わかった。文字はまた教えよう。読めないと何かと不便だろう」

 オウエンはアネットに書かれている料理の説明しながら、幾つかの料理と酒を注文した。
 オウエンは深酒をしないものの、ザルだった。その気になれば、どんな酒でもいくらでも飲む。アネットが甘いサワーをようやく一杯飲む間に、彼はワインをグラスに四杯飲んでもケロリとしていた。
 こちらの世界の飲み物は、アネットの世界と同じ様な物だった。ビール、ワイン、サワー、リキュールなど、アネットも見知ったものばかりだ。ただ、日本酒だけはヤマシロ酒と呼ばれており、名称が違った。ちなみに、ヤマシロはエズメの故郷だ。
 久し振りのまともな食事に二人は舌鼓を打った。ただし、注文して運ばれて来た物はアネットにとって少しグロテスクだった。アーツの宮殿で出されたものや、トリスタンのアジトで食べていた物は案外普通の食事だったので、彼女は少し油断していた。
 まず、コールリッジ名物だというスクワイヤという名の魚のムニエルだ。この魚の皮は黄緑色をしていて、身の色は鮮やかな水色だった。しかも、猫科の動物のような目が四つも付いている。調理法はアネットもよく知るムニエルと同様のようだったが、とにかく見た目が怖い。
 アネットはスクワイヤの外見に、思わず食べるのを躊躇した。けれど、『空腹に勝る調味料はない』とはよく言ったものだ。意を決して一口食べると頬が落ちるほどおいしく、結局ぺろりと食べてしまった。
 他にはパプリカを小さくしたような実と真っ青なレタスのような葉のサラダや、カボチャのような味のする赤いスープ、米の味がするピンク色のフランスパンのようなバケットなど、見た目に違和感のある料理が並んだ。一見クセのありそうなものばかりだとアネットは思ったが、どの料理も想像以上においしかった。

 一通り食べた後、アネットはトイレに立った。オウエンはナッツのような実をつまみに、食後の一杯を楽しんでいる。ほろ酔いで、鼻歌まで歌いそうなほど上機嫌だ。そこへ派手な身なりの女がひとり、オウエン達のテーブルへ近づいてきた。
 女は身体の線にぴったり沿う真っ赤な衣装を纏い、場に不釣り合いなほど煌びやかで大振りなイヤリングを揺らして歩いて来る。女はオウエンの真横に立つと、囁くように彼に声をかけた。

「ねえ、お兄さん。楽しんでる? 」
「……」

 現れた女は香水のキツい匂いを漂わせ、先ほどまでアネットが座っていた椅子に腰掛けた。オウエンは不愉快そうに眉をひそめ、持っていたグラスをテーブルに置く。ナッツをつまんで口に放り込むと、身体ごと背けて視線を女から外した。
 女はオウエンの様子など意にも介さず、無造作に長い前髪をかき揚げた。真っ赤に塗られた唇を少し緩ませて、扇情的に彩られて潤んだ目元でオウエンを上目遣いに見上げる。そのまま彼に身体を寄せると、胸元が大きく開いた衣装のせいで豊満な身体が嫌でもオウエンの目に入った。
 しかし、オウエンはさほど気にもしない。背けたまま顔だけを女に向けると、淡々と言った。

「あいにくだが、妻子のある身だ。他を当たってくれ」
「もう、つれないんだから。でも、お堅いのもわたし、嫌いじゃないわ」

 女はしなだれかかるようにしてオウエンの背にもたれかかる。手で軽く押しのけて抵抗するオウエンだったが、女はそのまま細いを腕を彼の背から腹に伸ばそうとしている。アドルフだったなら、喜んで誘いに乗っただろうなとオウエンは頭の隅で考えた。

「おい、いい加減に……」
「オウエン……え?あ、あの……」

 オウエンと女がはっとして声の主を見上げた。アネットが戻ってきている。
 しかし、アネットの椅子を知らない女が占領している上に、色仕掛けの最中だ。アネットは随分居心地の悪そうな顔をしていた。

「ア、アネット……こ、これは」

 狼狽えるオウエンに、女は興ざめしたらしい。自らさっと離れると、アネットを睨みつけた。

「フン、本当にいたのかい。とんだ無駄足だよ」

 心底つまらなそうな表情で捨てぜりふを残し、女は人混みに消えていった。
 詳細はよくわからなかったものの、アネットはあっけに取られながら女を見送る。そして、いまだ落ち着かないオウエンに視線を戻した。

「大丈夫……? 」
「あ、ああ……すまなかったな」

 オウエンは一気に酔いが覚めたらしい。疲れた顔をして、残りの酒を飲み干した。



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