私に出来ること
少し焦げた香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。白くてどろりとした暖かいシチューの匂いが、狭く窓の少ないトリスタンのアジトに充満していた。アジトにいる者でそろって食事を摂っている。
アネットは、自分が出来ることは何かと考えた。皆のように逞しく戦えない。それならばと、後方支援に回ることに決めた。最近は専ら家事をして過ごしている。
今までのこの組織の女性といえばアン一人で、他は男ばかりの大所帯だ。アンは家事はしない方だし、男だらけとなればなおさらだ。数日誰も帰らない事もあるとはいえ、あちこち汚れて臭って大変なものだった。アネットは数日をかけてアジト中をきれいに掃除して回っていた。
さらに、特に食事に関しては全員が無頓着だった。アネットが調理を受け持つようになってからは、みんな肌の色艶がみるみる良くなっている。
「アネット殿の料理は実に美味でござる。拙者、母を思い出してしまいましたぞ。ああ、母上はお元気であろうか」
エズメが遠い目をして窓の奥を見つめる。彼は故郷に母親を置いて来ているらしい。部屋の奥では、アンとエトナが、シチューの具を巡って小競り合いをしている。
「エミリ……シン……」
シチューを掬ったスプーンを見つめたまま、オウエンはピクリとも動かなくなった。その目には悲哀の色が深く漂う。彼の視線の先は、シチューの向こうにあるようだ。
アネットは、オウエンの様子見がいつもと違う事に気が付き、声をかけるべきか迷っていた。すると、誰かがトントンと彼女の背中を指で軽く叩いた。
「あいつ、家族を亡くしているんだ。仕事で国を離れている間に、魔王に国ごと滅ぼされちまったらしい」
アドルフがアネットにそっと耳打ちする。アネットは、はっとしてアドルフを見た。ここへ来た時、エイブラムは皆アーツの被害を受けていると言っていた事を思い出す。
「……なんて事を……ひどいわ」
「ああ、許すわけにはいかない」
アドルフはオウエンを気遣うようにそっと彼を見やる。
「あの……アドルフも、そうなの?何かあったから、ここに?」
「いや、俺には家族も故郷もないからさ」
アドルフの返事は、内容の割にあっさりとしていた。なんでもないことのようには思えないアネットは、驚きと衝撃に一瞬思考が止まった。
「……え? 」
「俺、親の顔も知らないんだ」
「そうだったのね。こんなこと聞いてごめんなさい」
「いや、構わないさ。ここじゃあみんな似たようなもんさ」
アドルフは気にするなと笑う。白い歯が見えるその様は、何とも爽やかだった。
「苦労しているのね」
「そりゃあ、大変だったぜ。あちこち流れた末に行き着いた都会の隅っこで、なんとか生き長らえた。盗みの業はその賜物ってわけ」
アドルフは、パチンとウインクする。
「何で魔王を倒そうと思ったの? 」
「ああ、まあ……いろいろ、な」
アドルフは曖昧に言葉を切って、話すのを止めた。アネットから目を逸らし、口を噤んでしまった。彼女がこれ以上は聞けないと思ったその時、アジトの入り口がバタンと大きな音を立てて開いた。トリスタンの兵士がひとり、崩れるように入って来る。息も絶え絶えといった風で、あちこち怪我をして流血していた。
「た、大変だ!魔王の軍が、ここへ向かっている……! 」
「何だと! 」
アンの皿から肉を頬張ったエトナが、がばりと立ち上がった。アンはエトナを睨みつけて、魔力を込め始めている。
「ここに?アジトがバレちまったのか!? 」
アドルフも立ち上がり、自室で食事していたエイブラムが物音を聞きつけてやってきた。アジトに緊張が走る。アンはエトナに小さな雷を落とした後、開いたままの入り口の外をキッと睨んだ。
「すいません……」
兵士は床に倒れ込み、弱々しく答えた。
兵士は他にも数人で魔王の動向を探っていた。一仕事終えてアジトへ帰る際、魔王の軍に襲われたらしい。彼らは勇敢に立ち向かったが、相手は大軍だった。その上相手は仲間を呼び、どんどん増えていく。ひとり、またひとりと味方が倒れ、全く歯が立たない。やむなく退却するが、逃げ切れなかったようだ。
「仕方あるまい。ひとまず逃げるぞ!裏の川を渡るのじゃ! 」
エイブラムが指揮を執り始めると同時に、皆は逃げる準備に取り掛かった。鍋や食器を隅にやり、武器や防具を身に付ける。アネットは、護身用にと支給されたばかりのロッドをキュッと握りしめた。
鎧を着けたオウエンが壁の一部を蹴り飛ばすと、中からボートが出てきた。簡素な木製のそれを、男達が部屋から運び出す。オロオロするアネットの肩に、エズメがポンと手を置いた。
「下流にマルコワという街がござる。ひとまずそこへ行きますぞ。我らの協力者を訪ね申す。川の流れは少々激しいが、行ぬことはござらん。ご心配召されるな」
エズメはそう言うと大小の刀を腰に差した。緊張した面もちで歩き始め、アネットにも付いて来るようにと促す。
轟々と川が流れる音が、アネットには嫌に耳に付いた。
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