逃げろ!


 砂が舞う宮殿の奥で、カシャ、カシャと音が響いている。王の間にやってきたビバルはその聞き慣れない音に首を傾げた。彼は来訪の挨拶を述べて部屋の中へと足を運ぶ。彼は王の前まで進み出て、恭しく一礼してから跪いた。

「申し上げます、陛下。我が二番隊の報告によりますと……ぎゃあ! 」

 アーツの手元から、急に強い光が放たれた。ビバルは驚いて尻餅をついてひっくり返り、何事かと目を白黒させている。それを見たアーツはニヤニヤと笑い、さも楽しそうにしていた。
 アーツはアネットから押収したピンク色の携帯を握りしめ、ビバルの写真を撮っている。先ほど撮った写真を確認し、フフンと満足そうに右の口角を上げた。

「へ、陛下? それは、確かアネット様がお持ちだった……」
「そうだ。携帯、とか言ったか。なかなか面白いものだ。それにしても、ビバルよ。お前はなんともマヌケな顔をしているな」

 そう言って、アーツは携帯の画面をビバルの方へ向け、撮った写真を見せてやった。その画面には、薄目を開けて口をぽかんと半開きにしたビバルの顔が写っている。

「ぎゃあ! へ、へ、陛下! た、たた魂を盗られます!平に、平にご容赦を!」
「落ち着け。何を恐れることがあるか。魂を盗られるだと? お前はまだ生きているだろうが」
「し、しかし……私の姿がその中にございます。じゅっ、寿命が縮んだかもしれません」

 ビバルは涙目になって抗議するが、アーツは意にも介さない。非科学的な事をいちいち気にするな、と一蹴した。

「それよりも、ビバルよ。何か用があるのだろう。話せ」
「はっ。そ、そうでした。反乱軍の、トリスタンのアジトを発見しました。部下から連絡が入り、襲撃させております」

 ビバルは跪き直して、アーツに事の次第を報告する。アーツは携帯から目を離し、ビバルに向き直った。

「良かろう、お前に任せる。ただし、アネットは生け捕りだ。いいな」
「仰せのとおりに」

 ビバルは深々と頭を下げた。


 リアル急流滑り、といったところだろうか。川は轟々と激しい音をたてて流れていく。アネットはトリスタンの面々と共に小舟に乗り込み、アジトの裏の川を下っていた。初めてアジトに来た時に、落ちないようにと恐る恐る見たあの川だ。
 アネットが元いた世界の観光地によくあるような、と言えば聞こえはいいかもしれない。だが、簡単な作りの小さな舟には動力などついていない。もちろん救命胴衣もない。正に命がけの川下りだ。
 アドルフが船頭の役目をこなし、細長い棒で器用に小舟の梶を取っている。川の流れは激しく、落差も大きい。その上、大きな流木や岩があちこちに流れている。舟は激しく揺れ、今にも壊れてしまうのではないかと思うほどに軋んだ。
 アネットは恐怖で顔を青くし、生きた心地がしなかった。彼女は生きているのかどうかも分からない状態ではあったが、それでも恐ろしいことに変わりはなき。
 振り返ってアジトを見ると、アジトから火の手が上がっている。遠目からでも赤い炎と黒い煙がはっきりと見えた。アーツの軍が辿り着いたのだろう。アネットにはひどくショックだった。
 恐怖を振り払うようにアネットが前を向くと、今度は眼前に大岩が迫っていた。

「うわあああああ! くそっ! 」

 アドルフは叫びながらも棒を巧みに使って、大岩をなんとか避ける。しかし、すぐにまた更に大きな岩が現われた。舟はたった今、大きく舵を切ったばかりだ。船体は不安定で、舵を上手く取れないまま舟はまっすぐに岩へと進んで行く。アドルフも必死だったが、どうにもできなかった。

「か、舵が利かねえ! 」
「エトナ! 何とかしなさいいい! 」

 アンは必死の形相でエトナの首にしがみついて離さない。エトナは苦しそうにもがきながら、アンを引き剥がそうとジタバタしている。

「無茶を言うなバカ娘! く、首を絞めるな! 」
「だ、だ、だって!」

 抱き合ったまま言い合うアンとエトナの声を聞きながら、アネットはギュッと目をつむっていた。
 あまりの恐ろしさに声も出ない。アネットは震える手で、自分の体を抱きしめた。既に一度死んだかもしれない身とはいえ、怖いものは怖い。生きていたい、死にたくない、そればかりを強く願った。

「ぶつかるぞ!」

 オウエンの鋭い声が通った。言い合うアンとエトナが、はっとして二人同時に前を向く。

「ぎゃー!!!! 」

 アンの甲高く鋭い悲鳴ですらかき消されてしまうほどの轟音が、辺りに響きわたる。
 皆が覚悟を決めたその瞬間、目の前にあった大岩が突如粉砕した。バラバラと音を立てて崩れる大岩にアドルフは目を丸くして驚き、エズメも開いた口が塞がらない。ぱくぱくと口を鯉のように動かして、言葉を探している。

「な、なんと。これは一体……」
「すっげえ! 今の誰? 」

 アドルフはヒューっと口笛を吹く。興奮気味にくるりと振り返り、皆の顔を眺めた。しかし、皆も顔を見合わせて首を捻っている。
 抱き合ったまま固まっていたエトナを無造作にふりほどくと、アンが口を開いた。

「わたしじゃない」

 アンがちらりと隣にいるエトナを見遣る。

「僕でもないぞ」

 そう言って、エトナはオウエンに視線を送る。

「私も違う」
「無論、拙者も」

 全員の視線がアネットに集中する。ずっと自分を抱いたまま震えて下を向いていたアネットだったが、視線に気が付いてそっと顔を上げた。

「アネット! 今のどうやったんだ? すげえよ! 」
「え? わ、わたし?? あら? 岩は……? 」
「嘘でしょ!? 自覚ないの? 」

 アンが大きくため息をつき、アドルフは船首でずっこけていた。アネットがぽかんとして二人の様子を眺めていると、オウエンが焦ったように声を張り上げた。

「アドルフ! 前を見ろ! 」

 アネットがこれまで見たこともないほど大きな魚が、舟の前方で大きな口を開けて待ち構えている。このまま流されれば、舟ごと魚に飲まれてしまうだろう。
 アドルフは懸命に舵を取ろうとするが、川の流れごと魚が飲み込んでいるらしい。近づくほどに流れるスピードが増し、進路を変えることができない。

「おのれ化け物め……! 」

 エズメは刀の鯉口を切り、飛び出す機会をうかがっている。アンも目を吊り上げて、魔力を集中しはじめた。

「丸焼きにしてやるわ! 不味そうだけど」
「恐らくアーツの手の者だろう。魔物を食すのはやめておけ」

 そう言うと、エトナも呪文の詠唱に入っていった。
 今にも各人の能力が発動するというその時、舟は大きく飛び上がった。どうやら川底が一部浅くなっていて、乗り上げたらしい。

「お? お? なんだ?? 」

 アドルフが船首からすばやく跳び退き、船体に移動する。魚によってスピードを増した舟は、勢いよく川を飛び出した。舟は放物線を描くように、まっすぐに魚の頭部に向かっている。

「今度こそ死ぬ! 」

 アンの叫びと共に、舟は勢いよく大魚の魔物の頭にぶつかった。
 魔物はぶくぶくと泡を吹きながら沈んでゆく。そして、乗っていた舟も大破した。みんな川に投げ出され、激流に飲まれていく。
 アネットは顔を水面から浮かせようと必死でもがいた。だが、もがくほど体が沈んでゆく。息をしたいのに、口には水しか入らない。もうだめだと思った時、上から声が降ってきた。

「アネット! これに掴まれ! 」

 オウエンがアネットを捕まえた。舟の破片に掴まって、アネットを引き上げる。アネットはオウエンに支えられながら、仲間がちりじりに流されていくのを薄れる意識で見送った。

「オウエン! アネットを頼むぞ! 」

 アドルフが遠くで叫んでいる。アネットの意識は、ここで途絶えた。
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