満月の夜

 満月の日がやって来た。窓の向こうには丸い月がぽっかりと浮かぶ。
 台所では、なんと才谷さんがグリルを使ってサンマを焼いている。使ってみたいと懇願されて、教えてみればあっという間に会得した。サンマの焼ける香ばしい良い匂いが、家中に漂う。
 この頃、だんだん日が短くなってきた。日が落ちると肌寒さすら感じる。いつの間にか紅葉も色付きはじめ、季節は順調に足を進めている。
 わたしのお腹も少し大きくなってきた。だんだんお腹が重くなり、思わぬところで不自由が増えてきた。
 才谷さんは相変わらずで、時々わたしのお腹を見ては嬉しそうにしている。

 わたしは壁に手を這わせ、電灯のスイッチを押した。部屋が明るくなると、才谷さんとタンスの前へ立つ。
「よし。サンマも焼けた頃やき、引き出しを開けてみるぜよ」
 才谷さんが意気揚々と引き出しを開けると、醤油の香りがふわりと香った。さらに耳をすませば、かすかに話し声も聞こえる。大阪では聞き慣れない京言葉に、やはりここで繋がっていたのだと妙に納得してしまった。
 近江屋であろう引き出しの向こうから、女性の声が聞こえる。二人して思わず聞き耳をたてた。
「ああ、お佐江はん。才谷はんを知りまへんやろか? 」
「知りまへんなあ。どないしはりましたんえ? 」
 才谷さんは向こうで行方不明扱いにになっているのだろうか。わたしたちは思わず顔を顔を見合わせる。
「一刻ほど前に石川はん言わはるお方が才谷はんを訪ねて来られたんやけど……店中探しても才谷はんがどこにも居はれへんさかい、出直す言うてお帰りにならはりました。せやから才谷はんにお言付けしとこう思うたんやけど、まだお姿が見えまへんのや」
「そうどしたか。生憎やけど、うちも見てしまへん」
「おおきに。ほな、もう少し探しますさかいに、見かけたら教えとくれやす」
「へえ。お気張りやす」
 女性の声は才谷さんを探して、遠ざかって行った。
 二人の口振りから考えて、才谷さんが近江屋から居なくなってから約2時間といったところだろうか。けれど、こちらでは既に2ヶ月程経とうとしていた。時間の流れ方が全然違う。
「参ったのう。ワシはここにおるきに、会えんちや。石川はまっこと間の悪い男じゃのう」
「やっぱりこの箪笥、向こうと通じてるんやわ。良かったですね、才谷さん。次の新月で向こうに帰れそうですよ」
「そうじゃのう。けんど、ちっくと寂しい気もするがよ」
 そう言って、才谷さんは眉尻を少し下げた。寂しそうに笑い、わたしを見つめた。彼はいかにも情に厚そうな瞳をキラキラさせている。
「わたしも寂しくなります。けど、才谷さんは向こうで大仕事が待ってるて言うてはりましたし。あと、さっきの方も」
「それはわかっちゅう。けんど、正直言うと、帰りとうないというか……ここにおったら誰にも狙われんきに安心じゃし、何より居心地がえい。それに、こじゃんと平和で豊かな日本を見よると、安心してしもうたちや」
 才谷さんは困ったような顔をして、指で頬の辺りをポリポリ掻いている。
「何、ワシなんぞちっぽけなもんぜよ。浪人が一人くらいおらんでも、何も変わらんき」
 才谷さんははははと笑いながら、けれど少し寂しそうに続けた。
「ワシは、本当ならば土佐で道場主でもしながら生きる筈じゃった。そのうち嫁を貰い、子を生み、静かに一生を送るもんじゃと思うちょった。けんど、そうならんかった」
 姉さんには随分心配かけてしもたがのう、と才谷さんは困ったような顔で息を吐いた。
「けんど、後悔はしちょらん」
 才谷さん曰く、何時でもどこへでも駆けつけるために、出来るだけ余計なものは持たず、身軽に生きてきたそうだ。なんと家すら持っていないらしい。
 けれど、家については奥さんは流石に良い顔をしていないと言う。彼女は穏やかな暮らしを望んでいるそうだ。妻の立場ならほぼ間違いなくそうだろうが、個人的には才谷さんに妻がいたことが驚きだった。
「身軽に、と思うちょったんじゃがのう。穏やかな暮らしに慣れてしもうたら、戻るのは至難やき。困ったもんじゃ」
「奥さん、待ってはるんやないんですか……? 」
「おまん……と、……ここで……のう……」
 才谷さんはぼそっと小さく何か呟いたようだったが、曖昧すぎてわたしには良く聞こえない。
「え? 何か言いました? 」
「いや、何でもないぜよ。ここにおったら、いつでもお加尾さまに会えると思うただけじゃ。忘れとうせ」
「もう。だから、違いますからね。それに奥さんいはるんでしょ」
 はははと笑いながら、才谷さんはゴロンと床に寝転んだ。
 そんな才谷さんを見ながらつい考える。
 わたしは幕末のことには決して詳しくない。けれど、彼は近江屋にいて、土佐の出身と言った。そして、「姉さん」がいる。それらのことを何故だかわたしは既に知っていたような気がしてならない。
 けれど、いくら考えても頭の中のもやは晴れないままだ。あと少しで思い出せそうなのに、いつも何かに遮られる。そんな感覚は、才谷さんの事を考え初めると退会現れていた。
 才谷梅太郎――この人は、日本史の教科書に載っているような人物なのだろうか。けれどやっぱり思い出せずに、わたしは一人首を捻った。


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