冗談じゃない
「ただいま」
玄関に上がったわたしは、小さな同居人に声をかける。彼はとことこと短い廊下を歩き、わたしを出迎えてくれる。最近できた新しい習慣だ。
大学を卒業し、就職を期に一人暮らしを始めて約半年。慣れてはきたものの、少し寂しい。「ただいま」と言う相手の存在が、こんなにも嬉しいものだと実感しているところだ。同じ物を食べ、同じ布団で眠る。猫とわたしは寝食を共にする仲になっていた。
「ただいま、ムサシ」
ムサシの顎下をくずぐってやると、彼は目を細めて気持ちよさそうにしている。その顔を見ると、1日の疲れなんぞ一瞬で吹き飛ぶようだ。
いつまでも「猫ちゃん」ではいけないと思い、猫に名前を付けた。最初は、体が黒いので「クロ」にしようとしていた。だが、試しに呼んでみると「それは自分のことか」とでもいいたげな顔をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。次いで「コジロウ」と呼んでみたが、これもあまり良い反応ではなかった。下を向いて首を横に振る様には、哀愁すら感じた。
最後に「ムサシ」と呼んでみたところ、これは許容範囲だったらしい。しばらくの間じっと私を見て、考えるような素振りをした後、にゃーと鳴いた。これを了承と捉え、以来ムサシと呼ぶことにしている。
ムサシは時々、言葉を理解しているのではないかと思う節がある。とは言え、彼はにゃーとしか鳴かないので確かめる術はないのだが。
「ねえムサシ。今日はお土産があるんだよ」
わたしは鞄から小さな包みを取り出す。ムサシのために、首輪を買って来たのだ。薄い紫色のベルトに、小さなリボンがついている。それだけでは何となく寂しいので、更に小さなアメジストを自分で取り付けた。
「どう?可愛いでしょう。ムサシの毛の色に合うと思ったの」
首輪を見るなり、ムサシは引きつった顔をした。しかし、わたしとしてはこの子がうちの子である目印を付けておきたい。わたしは今にも逃げ出しそうなムサシを素早く捕まえた。ムサシは鋭い悲鳴のような鳴き声を上げ、逃げ出そうと暴れ始める。必死で抵抗しているが、ここはわたしも譲れない。激しい攻防戦の末、わたしはムサシに首輪を付けた。
◆
とっても可愛いと思うのに、首輪をつけたムサシは酷く気落ちしたようにしょげている。首もしっぽもこれ以上下がらないという程ぺたんこにして、なんだか元気がない。ムサシの周りだけが急に真冬の夜にでもなったかのような雰囲気だ。
まさかそんなに落ちこむとは思いもよらなかった。さすがに心配になってくる。
「ねえ、ムサシ。首輪……そんなに、嫌? 」
「そりゃあ、嫌に決まっているでしょう。それに、私はムサシでもコジロウでもありません。何度も言えば分かってくれるんです」
「……え? 」
「……あれ? 」
わたしは耳を疑った。目も疑った。ここはわたしの家で、わたしの他に喋りそうなものは何もない。残る可能性としてはムサシだが、猫が喋るなんて考えられない。
目の前のムサシをじっと見ていると、彼と目が合った。ムサシは目を見開いてキョトンとしているが、わたしもきっと同じ表情をしているだろう。
ますます混乱するわたしをよそにムサシは早々に気を取り直し、さらに喋った。
「俺だよ。他に誰もいない」
さも当たり前かのように、ムサシはスラスラと話す。吹き替え版の映画を、生で見ているかのような光景だ。
「どうして……」
「俺だって不本意さ。猫だなんて」
ムサシは大げさな程、大きくため息をついた。
「どういうこと?ムサシ、どう見ても猫に見えるけど」
「だから、おれはムサシじゃない。そして、猫でもない」
ムサシは名前ばかりか、猫である事までも否定した。
わたしはもう思考が追いつかない。もともと不思議な子だったけれど、その上喋るなんてとても信じられなかった。
「……猫でないのなら、何なの?まさか妖怪とか、化け猫とか、言わないでよね」
「妖怪か。案外近いかもしれんな」
「えええっ。嘘でしょ! 」
わたしは思わず後ずさった。けれど、狭い部屋の中にほぼ逃げ場はなく、すぐに壁にぶつかって尻餅をついた。
「はは、そんなに怖がらないでくれ。俺は感謝しているんだぜ」
「そ、そんなこと言われたって、びっくりするわよ」
猫が喋っただけで十分異常だ。今、ようやく心臓がどきどきとうるさく脈打っていることに気づいたくらい動揺している。
尻餅をついた体制から座り直して、とりあえず落ち着こうと息を整える。
「そうか、それもそうだな。冗談が過ぎた。ほら、落ち着いて。取って食いやせん。俺も人間だった。元は」
ああ、やっと声が出たと言って猫はわたしに近づき、目の前でちょこんと座った。
猫はのほほんとしているが、この状況だ。いくら冗談だと言われても、冗談にならない。
「俺は新村由岐進と申す。改めて、よろしく頼む」
猫は涼しい顔で、ペコリと頭をさげた。
- 2 -
*前次#
しおりを挟む