路地裏の猫
猫が喋った。それだけでも信じられないのに、元々は人間だったとまで言った。
事も無げに、ムサシはゆっくりと床を掃くように尻尾を降っている。
「元って……それはどういう意味? 」
「俺は、確かに死んだはずだった。でも、何でだろうな。気がついたらこの部屋に居た。しかも、猫になっていた」
「あの日……あの大雨の日ね?」
わたしは猫が現れた夜を思い出す。どこから入ってきたのかと首を捻ったものだ。
「ああ、そうだ。お前さんの言葉は分かるのに、俺の言葉は全て猫の鳴き声になってしまう。もどかしいったらなかった。何故だかわからないが、これでようやく話ができる」
わたしと同じ物を食べたがったり、食べ方が下手だったり。けれど、そのくせ牛や豚は絶対食べない。お風呂は一人で入りたがる。今でも一緒に入った事はないけれど、わたしが服を脱ごうとしたら大慌てで逃げて行く。
猫にしては変わっていると思っていた。とは言え、人間だったと言われてもやっぱり信じられないが。
「あ、あの、聞いてもいいかしら。死んだっていうのは、どうして?まだ若かったのよね? 」
「斬られたのさ。いや、刺されたのかもしれん。俺は二十四だった」
話を聞くと、どうやら彼は150年くらい前の幕末の京で死んだらしい。長州の武士だった彼は、当時の京都にいるだけで罪になった。夜中にそっと路地裏を歩いていた時に、小刀を持った女性に刺されたと言った。不意をつかれてしまったらしい。
黒船が現れてから、攘夷・倒幕などの運動が始まり、彼も新しい時代を作ろうと理想に燃えていた一人だったそうだ。悔しさと、空しさに打ちひしがれながら瞼を閉じた筈なんだが、と新村さんは言う。
「その後、猫に?……そんなこと、あるの? 」
「そう言ったって今の俺は猫だし、ここにいる」
新村さんは切ない目をして呟いた。泣いているような、笑っているような、なんとも複雑な表情だった。
「それよりも。俺も名乗ったんだ。お前さんも教えてくれないか」
それもそうだ。あまりの驚きで、すっかり忘れていた。
「え?あ、そうね。わたしは野中ちひろです。質問責めにしてごめんなさい」
「いや、構わない。俺だって驚いているんだ」
「本当にびっくりだわ。ねえ、何で猫になったの? 」
新村さんは先ほどまでは複雑そうな顔をしていたが、今はにこにこしている。穏やかで優しい口調に、わたしは少なからず好感を持った。
「死ぬ直前に黒猫を見た。呑気に欠伸なんかして。転がってる俺をじっと見ていた」
「逃げたりはしなかったのね」
「ああ。近寄って来たから、撫でてやった。俺の手は血みどろだったのに、ゴロゴロ言って気持ち良さそうにして……まさか、その猫に『お前は呑気で良いなあ』なんて思ったからこうなったのか……? 」
それが新村さんの最後の記憶らしい。彼は、「いや、でも、まさか」などとぶつぶつ言いながら、眉間に皺を寄せて床を見つめている。どうやら考え込んでしまっているようだ。
まだ若いのに、さぞ悔しかったことだろう。年が近い事もあり、わたしも悲しくなってきた。そんなわたしの様子に気付いたのか、新村さんがパッとわたしの方を向いてこう言った。
「参ったな。ちひろまでそんな顔をしないでくれ。これでも生きているし、少し慣れてきた。身体が軽くて動きやすいし、死んだと思えば多少はマシさ」
飛び上がる時が意外と爽快なんだ、と彼はにっと笑って見せた。
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