バレエのレッスンは憂鬱。
他のお稽古事も、はじめたばかりは少し楽しいような気もするが、毎週日常になってしまうと耐え切れないほど億劫になる。
そもそも心から望んで習いだしたものなんてない、と言い訳させてほしい。
皆が私を可愛がりたいように、犬に芸でも仕込むように、私の曜日を埋めていく。
月・火・水・木・金・土・日
でも、1個上の兄だって似たような生活をしているし。それどころか彼はお金を稼いでいるし。それに私へ投資されたお金や労力を思うと、私だけが投げ出して許される気がしない。
焦りのようなものをママからじわじわと感じる。
女の子に、生まれたから。
「な〜に鏡とにらめっこしてんの?」
お風呂上りに髪を乾かした後、毎日ルールのストレッチもせず鏡の前でボーっとしていると、上のほうの兄たちに捕まった。
「髪、切りたいかも」
「え?結べなくなんじゃん」
「うん……」
「俺さ、最近三つ編みだけじゃなくて編み込みも出来そうなんだよね、練習させて」
「俺も!xxちゃんこっち来て、座って」
「なんで!俺が先」
「右と左でやったら?」
「確かに」
かつて一度だけ「ショートカットにしてみたい」とママに言ってみたことがある。するとママはとても悲しそうな顔をした後、困ったように怒り出したから、ああ言っちゃいけなかったことなんだなって。
髪を切りたいはタブー。お団子が出来なくなるから。
ひっつめのお団子が作りやすいように、もちろん前髪も切らない。
キティちゃんのゴム飾りはダサいけど、嬉しそうにするからママの前では外せない。
日焼けをすると先生に(ママが)注意されるから、外遊びはしない。
危ない遊びをして発表会に出られなくなると皆困るから見るだけ。
豊かな感受性を育てるため、アンデルセンを読む。
コンクールで踊るバリエーションの全幕を見るため休日は先生のご自宅へ。
バレエを理由に制約が増えていく。
「何してんの?」
樹だ。
とことこやってきて、兄たちが妹に構っているのを覗き見ている。
「じゅり、髪……」
「髪?」
「なんでもない」
「お前らそろそろ寝ろよ」
「お前だって〜」
「生意気!」
「うるせえ」
軽く蹴ったりどつき合ったり。さっきまで妹の髪を編み込んでいた2人は、騒々しいコミュニケーションを取りながらベッドに向かっていった。
「なんか髪すごいことなってんじゃん」
「うん」
「くしは?」
「ここ。……もう行った?」
「兄ちゃんたち?寝に行ったよ。まあ、まだしばらくうるさいだろうけど」
絡まった後ろ髪をほどいて梳かす。習慣でとりあえず開脚をすると、鏡のように目の前の樹も同じポーズをとった。
「いてて、……ねえ、髪切りたいの?」
「いや、そんなことは」
「xxちゃんショートにしたことなくね?」
「ほんの赤ちゃんの時だけかも」
「ああ、ね。切りたい?」
「ううん」
「ほんと?」
「うん」
「ほんとのほんとに?」
「……しつこい」
髪は元通りになったのでストレッチに集中する。
レッスンで流れるワルツを頭で流しながら、1,2,3,1,2,3……
「切る?」
驚いてワルツが途切れる。
胸のあたりが急に冷えて、なるほどこれが罪悪感かと思った。
「切ったらお団子できなくなるから」
「ちょっとだけ」
「やめてよ」
本当にハサミを探す樹に、焦燥感がつのる。
「なんで」
「やめてってば」
「嫌って言ってるだけ?」
「……どういうこと?」
「本当に嫌だったら切らないから。ねえ」
ママが悲しむから。
その考えは重く胸に広がって、泣き出したくなってしまう。
「嫌だった?ごめんって」
しかし樹に髪をサラサラと撫でられていると、だんだん痛くて重たい気持ちがゆるんで、何だか全てがどうでもよくなっていく。
成長途中の男の子の手。日に焼けて、細くて、でも私のものよりやっぱり大きくて、温かい樹の手。
抵抗する気もなくなって、抵抗する理由もないように思えて、私は首を横に振った。
後ろ髪の真ん中ぐらい、ちょっと切っても目立たなさそうな部分の毛束を掬われた。
さく、とハサミの音が聞こえる。
「はい、終わり」
「ほんとに切った」
「やる」
「えー……」
「それバレねーようにしろよ」
「わかってる」
凪いだ気持ちでひと房の髪を見つめる。
じわじわと、嬉しいようなわくわくするような気持ちが湧いてきた。
自由、尊厳、つかの間の休息
大人になればこの感情に名前を付けられるのかもしれない。
私はこの髪の束をレターセットの封筒に入れて、日記に挟んだ。
少女らしい習慣をと渡された日記帳。
日記は捨てたが、髪の入った封筒は十数年たった今でも手元に保管してある。
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