「死なないで」
高らかな祝福を受けて、その呪いは産声を上げた。
*
「無為転変」
特級呪霊である真人の魂への干渉を、一級の称号を冠する呪術師が防げなかったのだ。一般人の非術師が耐えられるはずがない。
にも関わらず虎杖悠里の魂は干渉を受け付けなかった。便宜上の表現ではあるが前世の記憶を抱え、呪いを視認するだけの呪力を持ち、両面宿儺の器足る少年の血縁者である。故に、――自らが何たるかを理解し、少なからず呪力を有し、さらに耐久性に優れた身体を持つ虎杖悠里に、全力で臨まなかった真人の――魂への干渉術式は通じない。
弾かれた目を見開く真人が、自らの術式が不発に終わった理由を知ることはない。
驚きの表情はすぐさま愉悦へと変貌する。
魂への干渉は弾かれた。肉体の変化はない。随分と疲弊していたのであろう身体は注がれた呪力量に耐えきれず、重ねて圧倒的な暴力に耐えきることができなかったのである。
くたり。力の抜けた四肢。
だらん。ぶら下がる肉体。
ぐしゃ。事切れた少女の身体を、呆気ないものだなあと呟きながら、真人は楽し気に地面に放り捨てた。
だって、面白いものが見られると思ったのだ。産まれ堕ちてはじめて魂を殺したいと熱望した虎杖悠仁の、その唯一無二の家族だ。
(人間は身内を大事にするものなんだろ)
歌で聞いたように、映像で見たように、本で読んだように、――掌の上で転がした吉野順平がそうであったように。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!」
瞬間の、絶叫。
絶望。殺意。憤怒。狂気。悲哀。懺悔。
(嗚呼! どれを摘まんでも、――)
なんて甘美なんだろうか。
響き渡る悲鳴をおやつにして、真人はうっそりと笑んだ。
嘘だ。
死んだなんて、嘘だ。
ぴくりとも動かない悠里に駆け寄った。瞼を閉じて伏している姿は、夜更かしして寝落ちしたときみたいだった。恐る恐る触れる。肌の温度は残っているのに、生気だけがない。
祖父が亡くなったときと同じだ。紛うことなく死者の気配だと実感して、物言わぬ骸に縋りつくように、きつく抱きしめた。
命の砂時計がすべて落ちてしまっては、何をどう施そうが息を吹き返すことはない。
知っている。そんなことは祖父が死んだときから、地獄への道のりを往く現在も、痛くらいに知っている。
だけど。
「嘘だ」
だって。
「待って」
それでも。
「置いていかないで」
叶わない。実らない。
理解していながらも願うのは、喪ったばかりの命。
たったひとり残された、悠仁の家族だった。頼りがいのある姉で、どうしようもなく優しいひとで、何があろうといつだって悠仁の味方だった。
なのに。
こんな奪われ方をして、こんな殺され方をして、このまま悠仁の手から永遠にこぼれ落ちたままになるなんて、嫌だ。
「死なないで」
ほたり。口から転がり出た言葉は。
ひとりにしないでと泣いて縋りつく、幼子の我儘のようだった。
無垢に。
純粋に。
無雑に。
純真に。
誠実に。
あまりに一心で、どこまでも単純な願いだった。混じりけのない望みは海よりも深く、天よりも高く、他を許さないほど頑なで、冬の夜と同じで冷たく澄んでいる。
いっそ傲慢なまでに、
際限なく溢れ続けていく感情を、
無限に膨れ上がっていく感情を、
ひとつちっぽけな箱に詰め込むとして、
果たして本当に――純粋な願望だと呼べるのだろうか。
願いは祈りだ。祈りは思いだ。
救い救われたい、という思い。
だとすれば積み重なった願いは、きっと蜜で固めた思いの塊だ。
「死なないで」
強制力のない嘆きは、けれど切実な響きで。
幸か不幸か。聞き届けられたのは、ひたすらに願いが愚直であったが故なのかもしれない。神の慈悲か、それとも人の執着か、どちらであるかは栓なきことだ。すでに魂は繋がれたのだから。
たとえそれが、どんな形であったのだとしても。
ごぽり。影が蠢いた。
水面が煮え滾る。人の形をした沼の底から、黒波が溢れては波紋が広がる。
びしゃん。影が這い出た。
絵の具を派手に散らかして、しぶしぶ肉付けたような造形だ。おおよそ人間から生まれたものとは思えない、それ。
『ァ、ヴォ、ウ、ウェ……』
呻声。
『う、い』
喃語。
『ゆうい』
単語。
『悠仁』
名前。
——さて、諸君。
——忘れてはいまいか。呪いとは人間の感情から産まれ堕ちるものである、ということを。——
*
「
死なないでと、願われた」
高らかな祝福を受けて、その呪いは産声を上げた。
呪いは産まれ堕ちたばかりだった。
呪いは知らないことだらけだった。
呪いは理由も理解できないまま、どうしてだか焦燥感に駆られていた。自らの核のような部分が、叫んでいる。声高に何度も何度も、ずっと叫んでいる。
守らなければ。
愛さなければ。
形のあちこちに反芻する訴えに異論はなく、むしろ存在意義であるようにすら感じた。
産まれる前から刻まれているのかもしれなかった。そうだとしたら、きっと名もなき呪いは、そのために生まれてきたのだろう。
曖昧なままに。
朧気なままに。
呪いは本能で指針を決めて、理性で動くことにした。覚束ない使い方をゆっくりと辿って、奏でるには歪な音で、とっておきの祝福を紡ぐ。
『 』
もしも呪いが人であったなら、起こされた事象は「奇跡」に他ならなかった。
神の御業か。折り重なった祈りが成せる技か。濃密な思いが遂げる術か。
自我も不明瞭な呪いによる、領域展開。
空白に垂らされた染色が鮮やかに枝葉を伸ばして、暴力的なまでに世界を塗り替えていく。圧倒的な力の奔流が、物理法則を度外視して駆け廻っていく。
矮小な呪いには不相応の、広範囲における異空間の具現化であった。
*
やわい日差し。
満開の桜の花。
芽吹きの季節だ。穏やかな春の日をそのままに切り取ってきたような、そんな光景だった。
両面宿儺の生得領域を知る悠仁にとって、息つく間もなく再現された生得領域は瑞々しいものだった。死の蠢動が宿儺の領域であるのなら、目覚めたばかりの呪いの領域は命の躍動だ。
そしてなにより、見覚えがあった。
家族とともにあった日だ。今よりもまだ子どもで、上手く舌も回らないほど幼かった頃だ。
帰路につき、悠仁は悠里の手を引いて歩いていた。
あの頃の悠里は、いつもぼんやりしていた気がする。鈍臭いというよりは、無関心という感じ。周囲のことを無視するわけではないが、自分からは積極的に関わっていかない。
周囲の大人たちは「お利口さんね」「落ち着いた子」「聞き分けの良い子」「うちの子も見習ってほしいわ」と褒めていた。
でも悠仁は同じように思えなかった。小さいときはどう表現すればいいかも分からなかったが、今なら「迷子のよう」であったのだと思う。
だって悠里は、時間があればどこか遠くを見つめていた。繋ぎ止めておかないと、知らない場所へふらふらと消えてしまいそうで。
「ゆうり」
と、何度も名前を呼んだ。
「ゆうり」
と、握りしめて手を引いた。
「ゆうり」
と、捕まえるように抱き着いた。
いつの頃からは迷子にも似た気配は鳴りを潜めて、悠仁の隣で表情豊かになっていた。世話焼きになったのも、ちょうど同時期だった気がする。
同じだ。この呪いからは、消えてしまいそうだったときのゆうりと同じ匂いがする。
だから何度も「ゆうり」と名前を呼んだ。
――ゆらゆらと影が。
だから握りしめて「ゆうり」と身体を引いた。
――むくむくと育ち。
だから捕まえるように「ゆうり」と抱き着いた。
――すくすくと形に。
成っていって。
『うん、悠仁』
蠢く影の塊だった呪いは、――かつての幼い少女の姿をとった。
嗚呼。
そうか。
(悠里は呪いになったのか)
飛び込んできた事実が納得となって着地した。
ただでさえ悠仁より小さかった身体が、さらに小さくなって、けれど腕のなかに戻ってきたのだ。業深い現実にたまらなくなって、存在を確かめるように、別のない身体にしがみついた。
幼い子どもの姿をした呪いに縋りつく教え子を、五条は窘めることなどできなかった。
「……厄介なことになったもんだね」
悠仁の心情と、その身の上を慮れば、ひどく残酷な再会だと思った。
両面宿儺の器であるということ。
加えて領域展開ができる呪霊に憑かれたということ。
宿儺を宿す悠仁本人に害意はなくとも、まさに鬼に金棒といった状態である。これ幸いと上層部は殺す理由ができたとばかりに騒ぎ立てるに違いない。
(しかも、この大規模な領域展開ときた)
美しい春を再現したような空間。
領域に取り込まれたのは生徒教師併せて両手指の数以上だ。予期せぬ戦闘で大なり小なり負傷した彼らは、空間に招かれた瞬間、怪我が癒えていた。
他者に反転術式を施せるという、稀有な能力を持つ家入のこともある。それを超える才能だと考えるのが妥当である、が。
(反転術式じゃない)
五条の六眼は否定する。
むしろ反転術式であれば悩むことなどなかったのだ。高専で保護し、管理下に置き、飼い慣らすことができただろう。
しかし、これは。
(事象の拒絶だ)
先程の治癒はけして怪我が癒えたのではない。
負わされた怪我をなかったことにされたのだ。ついでに戦闘で蓄積したダメージさえもなかったことにされるというおまけ付き。
高専を襲撃した呪霊二体も同様だ。
おそらくではあるが、生まれたての呪いに、特級二体を殺すことのできる強さはない。単純に呪力量や経験の差だ。だから殺すのではなく、空間に来ていなかったことにされたのだろう。
――有を無に還す能力。
――対象は、領域におけるすべて。
能力を隠し通せるならかまわないが、呪術界に身を置くのであれば到底無理な話だ。能力を持つ者ほど鼻が利く。いつか真価を暴かれるときが必ず訪れる。
冗談ではなく。
比喩でもなく。
(殺し合いが起こるぞ)
神にも等しい能力に、さしもの五条も眉を顰めるしかなかった。
『あの、……』
思考に海に潜る五条を浮上させたのは、幼い少女の呼び掛けだった。
呪霊らしからぬ、人間に似た姿だった。細い両腕で、座り込んで小さな身体に縋りつく悠仁の頭を、守るように抱え込んでいる。
『……私は悠仁の邪魔になるでしょうか』
問いではなく、確認のための口調だった。
人を狂わす能力だけではなく、高い思考能力も持つのか。産まれ堕ちたばかりの呪いが、まるで人間のように。冷静な部分で考えながらも、口は嘘も偽りもなく「邪魔というよりかはもはや死神だね。すぐにでも悠仁が殺されるかもしれない」事実を告げる。
そうですか、と幼い少女は頷いた。
ゆっくりと俯いて、目線の向いた悠仁の頭を撫でて、再びゆっくりと顔を上げる。
『悠仁のこと、お願いしますね』
揺るぎない声音に、五条は言外の覚悟を聞いた。
「オーケー、任せなさい」
だからこその返答。
纏わりつこうとする、柔らかな枷。伸びてきた縛りの腕を、五条は避けなかった。
『悠仁』
名前を呼ばれて見上げた先、やわい光を灯した瞳と視線が交わったことに心底安堵する。なのに、どうしてこうも嫌な感じがするんだろう。
「……なに?」
続きを聞くのが怖かった。
優しい声が恐ろしかった。
返事が遅れた。普段なら気にかけてくれるだろうに、なぜか今日は戸惑いの混じった悠仁を知らんぷりする。ひどく穏やかに微笑んだ悠里が言い募っていく。
『あのね、好きだよ』
嗚呼。
『大好き』
その言葉は。
『愛してる』
いつか悠里を喪うかと思った。
『――死ぬほど、ね』
あのときと同じものじゃあないか。
思い至って心臓が跳ねた瞬間。傍にあった質量の感覚が消えた。
目の間に広がるのは満開の桜ではなく、戦闘の爪痕が残りもしない森のなかだった。
静寂。
「あ、れ」
空っぽの両腕。
「ゆうり?」
転がった身体。
「――――、……っ!」
亡骸を掻き抱いて、悠仁は声も出せずに涙した。
ぼやけた視界の端。花びらが散ったような気がして、けれどそれは何の救いにもならなかった。