わたしのすべて
ベッドに座り込んだ悠里は、ぼんやりとしていた。
生きている姿に泣きそうになっていた悠仁は、ひどく違和感を覚えて、慌てて傍に寄った。痛いところはないかと尋ねても無反応だし、息苦しいのかと尋ねても無反応だ。
両肩を掴んでゆるく揺さぶると、重力に逆らわずに行ったり来たりと動作を繰り返す。抵抗はない、が、身体を悠仁に委ねているという感覚もない。
心臓の表面をずるりと這いずるような感覚に、悠仁は弾けるようにして、何も言わない悠里の顔を覗き込んだ。そうして、絶句する。
抜け殻。
空っぽ。
伽藍洞。
そんな言葉が相応しかった。
目前の光景を反射させるだけの瞳、凍り付いて動くことのない表情。人間を模して精巧に作られた人形と言われても納得するかもしれなかった。
「なんで」
理由を尋ねたいわけではなくとも、問わずにはいられなかった。悠里が意識を失う前、会話だってしたじゃないか。今生の別れのようであったけれど、身体は温かだったし、今もこうして目が覚めた、のに。
「なんで」
「……術式の影響だろう」
脳幹を弄られた痕跡がある、と家入硝子は言った。
いつかの真人の被害者を検死したときと同じセリフだった。脳と呪力の関係はいまだ解明されてないが、きっと無関係ではないのだろう。心が思考の一端でもあり、思考が脳で担われる限り、感情は脳で生み出されているのだから。
不幸中の幸いとでも言うのか、と家入は続ける。
「身体が改造されたような形跡はないよ。見た目が変形するでもなし、臓器が増えるわけでもなし。身体的能力が落ちていることもないだろう。脳幹を弄られた痕跡があると言っても判るか判らないかの微妙な線だ。脳梗塞の治療後のような、いいや違うな。個人的な感覚で言うなら、……直前で止められたような不自然さがある」
抜け殻然としていようが悠里が生きている以上解剖などすることはできない。写真上での診断と、それから家入の診察では、数少ない情報から現状「虎杖悠里の生命維持機能が残存している」と判明していることしか説明できなかった。
しかしそれは悠仁にとって何の慰めにもならない。
生きているのに、悠里の存在は希薄だった。生きているのだと理解したからこそ、浮き彫りになる虚しさがある。
「なんで」
再三の問い掛け。
どうして悠里がこんな目に遭わなければならないんだろう。どうして大事なものはすぐに悠仁の手からこぼれ落ちてしまうんだろう。どうして自分はこんなにも弱いんだろう。どうして守りたいものを守れないんだろう。
どうして、と諦観にも似た後悔が全身を駆け回る。
視界が下がっていく。何も浮かぶことのない悠里の顔が見れなくて、結局俯いた。生気のない体温に触れることが恐ろしく億劫で、掴んでいた細い両肩を離す。
「ごめん」
縋るように、悠里の座るベッドサイドに蹲った。
合わせる顔がない。でも悠里が生きているのなら、心が目覚める方法を、空っぽを埋める方法を、探し出すから。
「俺、頑張るから」
幸せになって、と願ってくれた悠里には逆らうことになるのかもしれない。だけど人形のままではいてほしくないのだ。宿儺を食う、そして死ぬ。悠里を起こす、そしておはようと伝える。
そのためには生きなくてはならないのだと思う。弱音を吐くにはまだ早かった。するべきことはまだ両手に抱えきれないほど残っている。してもしたりない覚悟を決めて、腹の底に力を込めて、溜め込んでいた息を吐いた。
ふと、手に触れる温もり。やわっこい指が、悠仁の手を握っている。
そろりと面を上げる。虚ろな表情をした悠里が、けれど口を開いて、朧気に言葉を紡ぐ。
「がんばれ、ゆうじ」
無感動に。
無関心に。
無表情に。
何もなく。
空のまま。
淡いまま。
これまでに与えられてきたどんな言葉よりも軽く、悠里は「わたしのすべて」と告げた。
世界が滲む。堪えきれなかった感情の切れ端が、両の目から溢れた。ぼやけたはずの視界が眩しい気がして、今度こそ悠仁は薄い身体にしがみついた。