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緩やかに衰弱していく病に伏してなお母は気丈だった。
痩せこけてまろみを失った身体は、少し起き上がるだけでも多くの体力を割くほどに弱っていた。立ち上がって一歩二歩と床を踏みしめることですら、聞いているほうが苦しくなるほどにぜぇぜぇと喘鳴が聞こえた。なのに最低限の身だしなみを整えるために気を遣い、会話をするときはいつだって笑みを浮かべているのだ。
「愛している」
思いの丈を詰め込んだ言葉は、母の口癖だった。
残り少ない命を悟っているからだろうか。持てるものすべてを託さんとばかりに、何ひとつとして口に出すことを惜しまなかった。十全の愛情を注がれて育てられたと自負している。
「大切にしていただいたのよ」
向けられた情の矛先は、母の隣にない父にも向けられていた。
顔を見たこともない父であったけれど、母があまりにも優しい表情で話すものだから。何をしてくれた覚えもない父であったけれど、母がひどく柔らかな声音で語るものだから。
特に興味もなかったのに。愛しさと懐かしさと、それから、温かだった日々には似つかわしくない罪悪感を滲ませて繰り返される思い出話は、会ったこともない父の姿を安易に想像させた。
——思いが通じ合ったことは、ただの一度としてない。
あれほど父を愛していると断言する母は、向け合った熱が同等ではなかったのだと言う。
母は思慕を。
父は友愛を。
形の違う感情は元を辿れば相手への好意から芽吹いたものに違いなかった。加えて父はたいそう情深い性質だったらしい。たった一人お仕えすると定めた人間がいるというのに、あまりにも別れを惜しんだ母に一夜の情けを与えたのである。
——契ったのは一度だけ。
濃藍の空に月が隠れ、星の瞬きがいっとう映えた夜。
触れ合うはずのなかった温度を重ねた、父の慈悲。ただ一晩だけのはずであった戯れは、けれど誰にも言えない秘密を孕んだ。
「きっとあのひと譲りね」
一夜限りの秘密が形となってしまったものこそが、少女の存在である。
どこにでもいるような少女であったけれど。平均を切り取った自分にひとつ、相応しくないもの。母から愛し気に「父譲り」と見つめられる瞳は、角度によって透けた浅葱に煌めき、まるで虹色の硝子のような輝きをしていた。
*
母が死んだ。
衰弱死だった。
来たる大晦日、除夜の鐘が鳴り響く頃。眠るように息を引き取った。
誰も、葬式には来なかった。というのも母は親族一切と縁を切っている。連絡手段などあるはずもなく、それにゆっくりと死に向かっていた母は生前整理も済ませていた。今さらになって誰かに話す必要性もない。大々的な集まりにしなかっただけのことであった。
例外があるとすれば、母が世話になっていた支援センターの担当者ぐらいのものだ。
母が予想だにせず少女を身籠った頃から付き合いのある人物だと聞いていた。親身になってくれた担当者に、母に続いてお世話になりながら、少女はどうにかこうにか葬儀を済ませたのであった。
年が明けてしばらく経った頃。
身も心も、やっとのことでひと息つける状態になった。休息を挟みつつ遺品整理に勤しみ、と言っても整理すると表現するほど量があるわけでもない。年末の断捨離の延長線上にある感覚で、少女は部屋を片付けていた。
遺影に映った若かりし頃の母親は朗らかに笑っている。
(楽しそうというか、幸せそうというか)
面影を追って、遺されたアルバムを開いてみた。
冊子の薄さを裏切らず、なんとまあ枚数の少ないこと。指先にもかからない重さの過去は寂しさを誘う。しかもほとんどが風景ときたら、懐かしさに浸る余地すらない。
それでも、ページをめくる。
亡き母の姿を探す。生前の母の姿を探す。
両手の指を合わせて事足りる写真たちに着いていく。その途中、ようやく母の横顔を見つけた。
誰かの姿を追っている、そんな横顔だった。
だって目尻が緩んでいる。まろい頬は薄桃に染まって、薄紅の乗った唇がどこまでもやわらかに弧を描いている。
「あいしている」
思わず、母の口癖をなぞった。
震える喉のつっかえが、たまらず舌足らずな音にさせた。
(嗚呼、本当に……——)
——母はきっと、ずっと昔から父を愛しているのだ。
叶わぬ思いを胸に秘め、愛の残り香である少女をこれでもかというほど慈しみ。溢れんばかりの思慕と、そして口を噤ませた罪悪で心をいっぱいに満たして黄泉へと旅立ったのだ。
(なのに、その男ときたら)
顔も知らない父親など他人と同じだ。
少女の生まれが父の情けであったのだとしても、少女の世界は母によって育まれたのだ。酌量は母親に傾いて当然であった。
愛した女と、
愛された男。
幸せだったのだろうか。想うだけの愛など、虚しくはなかったのだろうか。
いかに慈しまれども、少女はいまだ恋を知らぬ。体温を交わすような男女の機微など縁遠い少女は、思考の淵に佇んで。
ふと、耳に届いた挨拶に現実へと引き戻された。
「ごめんください」
ぼうっとしていたのはどのくらいだろう。玄関の鐘が鳴ったことに気付きもしなかった。いそいそと出口へと向かい、扉の向こう側へと使い古された定型句を投げかける。
「お待たせして申し訳ございません。あの、どちらさまでしょうか」
一拍の沈黙。
静寂を不信に思う前に。
「……母君に、会いに来た。ご在宅だろうか?」
何かを、噛みしめるような物言い。
わずかばかり古風めいた響きは男性のものだった。年若い女の一人暮らし、普段であれば予定のない来訪などけして受け付けることなどない。にも関わらず、どうしてだか大丈夫だと確信があって、自分でも驚くほど警戒心のないままに少女は扉を開けた。
「先触れもなく急かしてしまったな、申し訳ない」
開きゆく花を思わせる柔い髪。虹色に煌めく硝子の瞳。
この世のものとは思えぬほどの麗しい顔。芸術品かくやの体躯。
「お嬢さんの母君はどこに?」
一報もなく訪れたのは、聞き覚えのない声の主に相応しく会ったこともない男だった。亡き母の行方を問う美貌の男の雰囲気に気圧されそうになり、しかれども一歩足りとて引けやしない。
「母は、……——」
何度も何度も聞かされた。繰り返し聞かされた。
乙女の瞳から見るとっておきの恋のように、寝る前に朗読される物語であるかのように、顔すら知らない父のことを語られた。だからこそ分かる。
この眼前の男こそが、母の慕った相手であるのだ、と。
だからこそ。他の誰でもない少女こそが伝えなければならない。
「亡くなりました」
——最期まで、あなたを想ったままで生きたことを。
床に伏してまで、命の末にあってさえ。生きている内に一度として訪れることのなかった、そんな男への愛を胸中で叫び続けて、母はついぞ命尽き果てたのだ。
ひゅう、と。
喉が鳴った音がした。
少女のものではないそれは、身目麗しい男の、全身が歪んだのかと錯覚するほどの動揺だった。
「……それは、いつ頃の話だ?」
「去年の暮れに。年は、越えられませんでした」
「そうか」
そうか、そうだったのか。何かを噛みしめ、けれど飲み込めずにいる表情で男は復唱した。
そんなはずはないとでも言いたいのか。
信じられないとでも言いたいのか。
父の事情は知らない。母の事情でさえ全貌を知らないのだから当然だ。それでも。
もし、もしも死に目に会えなかったことを悔やんでいるのなら。そうであるのなら、どうして。
どうして、
(母さんが死ぬ前に来てくれなかったの)
思わずにはいられなかった。どうしてと問いただしたかった。今さらになってと責めたかった、のに。
記憶のなかの、母が微笑む。
恋をする女の横顔が、脳裏でただただ幸せそうに緩んでいる。
(そんなこと、望んでないんだろうなあ)
ひたすらに重ね続けられた「愛している」が、過去を偲ぶ少女の口を閉ざさせた。
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