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 甘い香りがする。しとやかな花の香りだ。
 しゃなりと寄り添うような芳香に、匂いだけで喉元につんとくる酒精が混じる。

「かあいいね」

 甘さと辛さが混ざる酒の席にて。水を飲むような気軽さで盃を空にした姫鶴一文字が言う「可愛い」は、きっと少女が小さき者であるからに違いなかった。
 少女の顔は面布で隠されており、容貌はてんで分からないはずだ。元々器量の良いほうでもないのだし、所謂酒の席での戯れ言だ。もしくは、うんと年上から見る年少者が皆等しくぴよぴよの雛と同じに感じるようなもの。素直に 受け取れはしなかった。
 とは言え、少女もうら若き乙女である。悪い気はしない。お世辞とて美丈夫に褒められるのは嬉しい、

(……よりも先に恥ずかしさが勝るんだけどなあ)

 姫鶴の言葉に深い意味はなくとも、慣れない社交辞令にはついつい頬が熱を持つ。照れが舌先をゆるく痺れさせて、少女はどうにも返事に困ってしまった。

「こういうときはお礼でいいのよ、雛菊」

 視線を彷徨わせて頬を染める姿を見かねたのか。助け船を出してくれたのは、同席している美貌の女であった。
 陶器の肌に、瞳は深緑の宝玉。艶のある真白の髪はふんわりとして、蕾が開く瞬間のよう。白地に銀糸で菊の紋様があしらわれた着物は実に雅やかで、品漂う仕草のたびに揺れる様子はまるで春風を浴びる庭園の花。

「はい、白菊姐さん」

 そんな美しいひとの名前を白菊という。
 浮世離れした雰囲気の彼女を姐さんと呼ぶのは凡庸な少女には過ぎたるものであるような気がして、いまだ嬉しさやら申し訳なさやらが入り混じってしまう。どこか後ろめたささえあるのは、右も左も分からない少女に手を差し伸べ、しかも甲斐甲斐しく世話まで焼いてくれているからだ。何も思うところがないというほうが可笑しな話である。
 恩人の名を一字拝借して、この場で少女は雛菊と名乗っている。
「雛菊も慣れないよね」
「そこが可愛いとこでありましょう」
「ふーん、大事にしてんだ」
 座りの悪い雛菊など、いとも簡単に姫鶴と白菊の酒の肴にされてしまう。一言に十で返ってくるのは目に見えている。雛菊は曖昧に笑って二人の会話に耳を傾けることにした。
「ね、それは当然のこととして」
 白菊の手が。
 姫鶴の腕に触れて。
「そのあと則宗様がどうなさったの?」
 餌を待つ幼い鳥のように話の続きを乞うた。





 世界が揺れた。
 嵐の訪れにも似た風が轟々と吹き荒れて。花びらが、散った。
 思わず飛ばされてしまいそうになった眼鏡を掴んだ。立っていられない暴風にしゃがみこみ、開けていられないほどの暴風に瞼を下ろす。
 瞬きは、ただ一度。花嵐が過ぎ去ったあと、
「どこ」
 少女は見知らぬ場所にいた。





 名も知らない通りは賑やかなものだった。
 明るい喧噪は縁日のそれに似ている。雰囲気は軽やかでいて、空気は熱い。終わることを知らないとばかりに盛り上がった熱気は、なかなか下がることがないのだ。
 料理屋は入り口を開けたままに客の訪れを待っている。駄菓子屋の陳列棚には珍しい包装の商品が並び、玩具屋では店主がお面を被って店番をしている。隙間を埋めるように並んだ店々を横目に歩く少女は、幾つかのことに気付いた。

 通りがひとつしかないこと。
 すれ違うのが仮装したものばかりであること。
 狐が喋っていること。

(狐が喋ってる⁈)

 二度見した。まんまるなお目々は鮮やかな朱で隈取りされ、これまたまんまるな体形をしている。あまりにもまじまじ見つめるのは失礼にあたるかと思ったので、もちろんこっそりとだ。
(いや待って、おかしいでしょうよ)
 普通狐は喋らない。少なくとも少女の、というか世間一般常識では。
 日常的に仮装なんてしないし、通りがひとつであることもあり得ない。混乱を解こうとして順序立てて考える少女は、ふと、通りの終着点が近付いていることに気付いた。
「お城……?」
 王様ではなく殿様が暮らしていそうな風貌の城だ。時代劇で見るよりもずっと立派な出で立ちは圧巻である。そう。圧巻、の一言であるのだが。

「本当にどこに来たっていうの」

 ただでさえ見知らぬ場所に、見慣れないものたちだ。少女は呆然とするしかなかった。
 驚きで呆ける少女に、鈴の鳴るような声が投げかけられた。

「あら、どこから迷い込んできたのかしら?」

 振り向いた先には物言う花が咲いていた。後ろ背に日差しを浴びる姿が神聖なもののように思えたのと、見知らぬ人と見知らぬ場所で会話をするのとで、少女はたじたじになった。
「えっと、……迷子です、かね?」
「そうでしょうね」
 サニワでもないものね、と美貌の女は言った。

「だって貴方、人間でしょう?」

 当然のように告げられたのは、眼前で笑む女がまるで——人間ではないかのような言い方ではないだろうか。



 不可思議ばかりの状況に、許容量が飽和状態となった思考は停止した。
 混乱の最中で何を結論付けたのか、あれよこれよと言う間に、花精かくやな美女は少女の手を引いてどこかに向かい始めた。

 大勢が行きかう、古風な木橋を渡る。
 出迎えた大手門、鳥居に似た造りの門を潜る。
 受付番が忙しそうにしている入り口をあっさり通過する。
 ついに足を踏み入れた先は、縁もゆかりもなさそうな御殿のなかであった。

 何の咎めもなく長い廊下を歩いていると、開け放した障子窓から色彩溢れる花の庭園が見えた。催事でもするためか、広い櫓まで建てられているようだ。
 途中すれ違う誰かたちは、皆一様にして穏やかな雰囲気を纏っている。しかれども、煌々とした灯りに照らされて映る影は、なぜだろうか、けして目に見える姿形と一致することがない。

 たとえば今横を過ぎたひと。目に映るのは白皙の美貌なのに、映った影は刀の形をしている。ああ、そういえばさっきの女性は手鏡だった。元気な足音を立てている少年は鋏の形をした影だ。あれ、でも姿と影が同じひともいる。
少女が考えている間にも、今度はにこにこと油揚げを頬張る狐が通り過ぎていった。

(夢みたいな場所)
 浮世離れした世界だった。常識的に考えてあり得るはずがない事柄の連続であったが、なぜか心は急いた様子がなかった。

 理由を探そうとして。
 一度こういう気持ちになったことがあるな、と思い至る。
 はじめて父(であるはずの男というだけであるが)に会ったときと同じだ。普通なら絶対に警戒しないわけがないのに、するりと抜け落ちてしまったかのような。根拠のない確信が胸を満たしていて、世にも不思議な現実を自然に受け入れているのだ。

 現実離れした光景は続く。
 女に案内されて、奥へ奥へと進んでいく。

「店主様、いらっしゃいますか?」

 やがて。
 人の気のない、喧騒から距離を置いた一室に辿り着いた。





「人間のお嬢さんなんて何年ぶりかしらねぇ」

 まじまじと少女を見つめるのは、これまた美しい容貌をした者であった。

「人間なら来るでしょうに」
「でもねぇ、白菊。サニワはちょいとばかし勝手が違うでしょうに」
「あら、やっぱり店主様もそう思っておいでなのね」

 少女を連れて来た女は白菊といい、少女を見つめるのは店主らしかった。
 状況が掴めないまま、手を引かれるままに来てしまった。先ほどは何も思わなかった。けれどここまで連れられて来た今は違う。
 店主の声を耳にした途端、身体の内側がざわついたのだ。いつの間にか抜け落ちた警戒心知らぬ間に帰ってきていた。
 臓腑の震えを察したかのように店主は言った。

 自慢気に。

「ないものはなく」

 得意気に。

「望めば望むものが手に入り」

 誇らしげに。

「願ったことは何でも叶う」

 そして当然のように「対価さえ払ってくれれば、だけどねぇ」と店主は宣言した。





 曰く、願いを叶える店。

「でも最近は利用者もめっきり減ったのよね。まぁ等価交換を履き違えた奴らばっかりだったし、それはそれで良かったんだけど。でもせっかく店舗まであるんだからって商売に乗り出したの」
 それが始まり、と店主は言った。

「ここは湯屋
「若い子は知ってる? 風呂屋? それとも銭湯で通じるかしらね
「色んな湯があるのをね、楽しめるようになってるの。種類が多いから案内役もいるわ
「そんでもって風呂上りには一杯じゃない? お酒に料理も揃えてるわ
「休んで食べて、身体が充実したら次は心じゃない? 雅やかなのから艶っぽいお品もあるの
「そうやって身も心も満たすのが、——この湯屋よ」
 それがすべて、と店主は言った。
「満たされるということは、望むものがあったということだわ」

 望むものが叶ってこその、その果てに満たされる心がある。願いを叶える店は湯屋に形を変え、こうして根源を忘れることなく残ってきたのだ。
 だとすれば少女は。
 身を清めるためでも、腹を膨らますためでもなく湯屋を訪れてしまった少女は。

「何をお望みなのかしら」

 店主の問いに。

「——父のことを知りたい」

 と、望んだ。
 声にしたのは、はじめてだった。
 父のことを、母に尋ねることはできなかった。あんなにも優しく語る表情が、もしかしたら曇ってしまうかもしれないことを考えると、どうしたってできなかったのだ。当然他の誰かにも聞くことはできず、心のなかで小さく抱え込んでいた願いは、叶うことはないだろうと諦めもしていたのに。
 幸か不幸か、願望を手放す直前、たとえ認知はされていなくとも父なる存在に会ってしまった。
 会ったのは一度だけ。会話らしい会話もせずに終わった初対面。
 ただ一時間にも満たない、為人ひととなりひとつ知れることのない世間話。
 予想だにしていない訪問で見た父は、母のことを嫌ったふうにはなかった。むしろ好意すら感じられた。死を惜しむ態度に嘘はなく、それこそが母の言う友愛であるのなら、確かに情深い性質であるのだろう。

(それに)

 母の口から語られるばかりの父は、あくまでも恋をする女から見る男の姿でしかない。

 知りたかった。
 母の愛した相手が、どういう男であったのかを。

 すでに母は亡く、自分とて認知を求めているわけでもない。自己満足でしかないのは理解していて、それでも。図らずとも孕んだ子さえ生まさせるほどの情を抱かせた男を、命の終わりまで愛した相手を、——母の子どもとして知りたい、と。

 どういう男であったから母が愛したのだと、知りたい。
 そんなふうに、少女は願ったのだ。





 店主が雛菊に求めた対価は労働≠ナあった。
 湯屋には読んで字の如く風呂屋であり、店主が説明したように食事処でもある。加えて御殿とも見間違う湯屋のなかには他幾つかの娯楽と呼べるものもある。座敷や舞台といった華やかなものから肉欲を埋める艶事諸々まで。担う役割が多ければ多いほど働き手が必要となるのは自明の理だ。
 労働力のひとつとして提示された条件は「住み込み」「一日三食おやつ付き」の、ついでの餅に週休二日ときた。
意図せずして迷い込んだ不可思議な場所へと無一文で放り出された雛菊にとって破格な契約である。
 かくして湯屋で働くことなった雛菊は今、

「じゃあね、また来る」
「待ってますわ」

 姫鶴を見送る白菊に、そっと付き添っていた。
 座敷で色めいたことはなく、お酒を注いだり肴を摘まんだりといたって健全なもの。お喋りを楽しむ場を提供するのが白菊の務めである。現代風に言うなら上品なキャバクラだろうか、行ったことなんてないけど。求められれば芸事を披露することもあるが、本日は談笑に花を咲かせるだけであった。
 極上の湯を楽しんだ後に座敷を訪れる客は多い。あるいは座敷でなくても、併設された大衆食堂を利用する客や、小舞台に訪れる客もいる。
 方法は違えど求めることは皆同じだ。身を清め、空腹を膨らませ、心を満たす。言葉にすればささやかでいて、けれど贅沢なそれは、確かに店主の言った萬屋の在り方の根源であった。
「雛菊もまたね」
「はい」
「もう、まだ固いなあ」
 雛菊が知って間もない湯屋の成り立ちは、しかし彼女彼らのような存在であれば常識だ。この湯屋が提供する極上のもてなし≠求めてやって来た客人たちは、基本的に対価として金銭を支払う。
 ここの流儀を知る姫鶴は勘定し、かちこちな雛菊の態度に仕方ないといったふうに小さく笑って、——そうしてお帰りになった。





 与えられた座敷に、白菊の後ろに続いて踏み入れる。
 ぴしゃり。途端、障子が音を立てて閉じた。二人きりとなった室内で、雛菊はようやくひと息吐ける心地になった。
「少しは聞けたかしら?」
 緊張で凍った思考がゆっくりと溶けていく、その途中で飛んできた質問に是と答える。
「はい、聞けました」
「あらあ?」
「えっと、……うん、聞けたよ」
「よろしい」
 教育係として付けられた白菊は畏まった態度を好まなかった。
 年上相手だ。声を掛けられた時のような少しばかり砕けた態度もいかがなものか、なんて考えを木っ端微塵にして、丁寧な態度になろうとすると圧をかけてくる。
 困ったことがあればすぐに手を貸してくれて、しかれども必要な場合には厳しく指導にあたる。まさに理想の教師とでもいう存在で、ちょっとおこがましいことを言っても良いのなら、勝手に姉のような親愛さを感じている。

「本人ではないけど本質はよっぽどがない限り変わらないものよ」

 そして白菊にはもうひとつ、
 雛菊が望みを叶えるための協力者という肩書きもあった。

「いくら同位体の方でもねえ、本人はまだちょっと早いと思うの。だからまずは他の一文字の皆様からお聞きしましょうね」
「えっと、派閥みたいなものだっけ?」
「そうそう。嚙み砕いたらそんな感じで合ってるわ」

 ここ最近まで欠片とて縁のなかった正解の話である。都度答え合わせをしながら、雛菊は今日も今日とて未知を学んでいる。
汝、その命を以って愛を証明せよ
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