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大陸とは海を挟んで独立する国、薔薇の王国。
国土面積は大陸国家と比べ小さくありながらも、古くから積み重ねてきた国力によってツイステッドワンダーランドの列強に名を連ねる海洋国家である。
他国とを繋ぐ陸路を持たずとも、船乗りの行き来する海路の安全を保障することで、商業貿易によって列強の名に恥じぬ経済力を手中に収め、由緒ある王家と、憲法に則ってそれを支える国民――立憲君主制度によって国政が成されている。階級制度に基づく
持ち得る者の義務の文化が根付いていること、さらに他国との貿易が盛んであることにより、国全体が豊かである事実に比例して他国から抜きん出た治安の良さが守られている。
戴いた花名を象徴するように、各地では薔薇が咲き誇る姿が見られ、歴史ある建築物とともに、観光名所としても名高い国であった。
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ふと気まぐれに立ち寄った喫茶店で、少女は観光客を装ってこの国のことを聞いた。
少女がいたのは馨しい香りでもしそうな可憐な名前の国だった。古くから興ったと謳われる薔薇の王国は、貿易や観光が盛んであることからだろう、外来客に対して歓迎ムードだった。
(ただの観光客とは言えないけど……)
アイスティーの氷をカラコロと音を立てて混ぜ遊ぶ。
引かない熱を冷まそうとアイスティーを頼んでみたはいいが、いまだ頬は火照ったままでいる。飛び込み参加となった青空音楽会、あんな大勢の前で歌う経験は小学生や中学生のときの音楽祭くらいのものだ。
少々気恥ずかしい思いもしたが嬉しい誤算もあった。チップが弾まれたことである。
大衆を巻き込んでちょっとした出し物になった音楽と歌の青空舞台は、好評を得たらしい、良いものを見せてくれたと観客からコインが投げ込まれた。楽器奏者は快く分けてくれた。おかげで、こうして喫茶店で軽食にありつけている。
まだ日は高い。暮れる前に宿泊施設を見つけておかなければ。少女は貧弱な現代人、野宿なんて話になったら目も当てられない。試す前から無理に決まっている。
「こんなことも知らないなんて、どんな田舎から来たのよ」
喫茶店の女主人は気さくだった。
面倒見が良い姉御肌という感じ。つんつんと棘のある口調とは裏腹に、声音は優しく、質問に対しては関連事項まで丁寧に教えてくれる。
そんな彼女に嘘を吐くのは心が咎めたが、馬鹿正直に「異世界です」なんて答えることができるはずもない。少女はただ曖昧に笑って誤魔化ばかりであった。
ツイステッドワンダーランドの住人のことを「わりとお人よしだと思うよ。とういか善人?」と称したのは母であるが、あながち間違いではないらしい。ちなみに高評価を得た住人への所感とは反対に、学園の生徒に対する評価は「ナイトレイブンカレッジの人たちはね……うん、まあ、ちょっと治安が悪い感じかな」というのも母の談である。
ともかく、善人気質に助けられたと言えよう。世間知らずな観光客である私に、彼女は色々と教えてくれた。
「ま、せっかく薔薇の王国に来たんだしね。せっかくならここに行ってみたら?」
彼女は所々がよれた地図の一か所を指さした。目も覚める赤と若い緑で描かれた、タッチが柔らかな花々のイラストだった。
「植物園、ですか?」
「残念、ちょっとだけ違うわ。ただの植物園ではないの。いつかの時代に君臨したとされる女王が、ことさら愛したとされる庭園よ」
「へえ、そんな伝えのある場所なんですか」
「本当に知らないのね、けっこう有名なのに。一応薔薇の王国の三大名所のひとつなんだけど」
「……今度はちゃんと調べてきますね」
「それがいいわ」
「はい」
「ふふ、怒ってるわけじゃないのよ」
楽し気な笑い声とともに実直に弁解されて、嘘偽りを抱えた分、少女のほうが居た堪れなくなる。
「薔薇の王国は由緒正しく続く、古き良き歴史をあちこちに残した国だわ」
「数々の伝統料理も、幾棟も建ち並ぶ建築物も、伝えられてきた伝承も、挙げていけば果てがないけれど。そのどれもすべてが文化よ」
「だから歴史は文化の積み重ねなの。そして文化は人が作り上げるものでしょう」
「つまるところ文化は人の営みそのものよ」
表面上だけを辿るだけでは見えないものがある。人間に本音と建前があるように、物語にも裏と表があるのだ、と女主人は告げる。
三日月を描いた唇で、女主人は話を続いていく。内緒話でもするように、少女を諭していく。
「わかるわ。どうして、なぜを紐解いていくとね。背景を知ってたらもっと楽しめるもの、――せっかくの機会なら楽しみ尽くしたいじゃない?」
講釈を垂れられるのは嫌いだし、偉そうに薀蓄語られるのはもっと嫌いだ。なのに違和感の欠片もなく、彼女の話はじんわりと少女のなかに溶け込んでいった。
「薔薇の王国での日々が、貴方にとっての素敵なものとなるように願っているわ」
この人は何を知ったんだろうか。いったい何を知っているんだろうか。
幸先を願ってくれる訳知り顔の女主人に、そう思わずにはいられなかった。
歴史ある王国であるからこそ、華やかな観光地は数多く存在する。なにも喫茶店の女主人が言った三大名所ばかりではない。ただ結局のところ最終的に少女が訪れようと決めたのは、真っ先に一押しされた庭園だった。
「では、お嬢さん。かつての女王陛下も愛したとされる自慢の庭を、どうぞ心ゆくまでお楽しみくださいませね」
にこやかに送り出す受付係の声を背に、薔薇園に足を踏み入れた。
薔薇の敷き詰められた香水瓶のなかを歩いているみたいだった。淑やかで品のある、甘い香りが空気を満たしている。
見渡す限りの、赤と緑の入り組んだ垣根道。視界のほとんどを鮮やかな二色で彩られた庭は、広大な敷地面積を誇っているのも相まって、まるで巨大な迷路だった。
道はわかりづらいけれど、遠くの空に見えていた時計台がさらに小さくなっているから、間違いなく入り口からは進めている、はずだ。
辺りはしんと静まりかえっていて、道の端だろうが真ん中だろうが、気にせず立ち止まることができたのはラッキーだ。受付けで手渡されたパンフレットを開く。薔薇園の歴史について触れられた概要を流し読みし、地図(薔薇園の地図が存在するなんて!)のページをめくる。水色の三角がピコピコと淡く点滅していた。現在地を指し示しているのか、向いた方向へと三角マークの先が移動していく。
このまま直進するなら、辿り着く先は薔薇園の中央だ。
地図上でもぽっかりと開けたそこには
東屋が建てられていて、日時は限定されているものの、定期的にお茶会や青空展覧会といったイベントも開催されているそうだ。普段は薔薇園への客人が休めるよう小さな休憩所として開放しているとのことで、まだ見ぬ東屋に到着するのがもっと楽しみになった。
「……それにしても、不思議の国かあ」
いくら不可抗力とはいえ、我ながらとんだ世界に来てしまったものだ。
ほとんど何もわからないまま、降って湧いた幸運に助けられ続けて、ここまで来た。それが異世界の
予定調和であるから、なのかはわからないけれど。
「別にウサギを追っかけたわけでもないのに」
数百年前に薔薇の国で生まれた童話の少女は、白ウサギを追って不思議の国へと迷い込んだのだという。
深い穴の底へとゆっくりと落ちていき、かの少女は不思議の国に導かれた。見たことも聞いたこともない不可思議に溢れる世界で、数多の未知との出会いを繰り返す。
姿の消える猫。
知恵者のイモムシ。
お喋りな花々。
メッセージカードで「私を食べて!」と誘うクッキー。
狂った帽子屋。ポットで眠るハリネズミ。
ペンキ片手に薔薇を塗り替えるトランプ兵。
しつこい王様。
独裁者な女王陛下。
一人ずつ挙げていくのも大変だ。両手の指を合わせても足りない数多の摩訶不思議な出会いを迎えた少女は、奇妙な国から無事に元の世界に帰った後も、鏡を通って再び不思議な国へと迷い込んだ。
そんなふうに偶然でも行ったり来たりができたのなら。
母と、愛するひとは離ればなれにならずにすんだのだろうか。
過ぎ去った日々に“もしも”はない。あるのは結果だけだ。考えるだけ無駄なこと。そんなことは理解しているのに。
栓なきことを考えていると、
――少し遠くの背後で、音がした。
鈍い音だ。
誰かが茂みをかき分けて、均された地を踏みしめて往く音だ。
たぶんそれは幾つかの垣根の向こう側のことで、影も見えなければ、姿も見えないのは当然の話だった。
有数の名所である。もちろん少女以外の観光客だっているだろう。パンフレットさえ準備されているほどの観光地、訪れる人々が、薔薇園を楽しむ時間が重なることもあるだろう。そう、他人の気配がするのは普通のことのはずで。
なのに。
こうも肌が粟立っている。
乾いた空気が湿度で滲んでいく気がする。次第に身体が重たくなっていく気がする。
呼吸をするのも楽じゃなくて、次第に息継ぎの感覚が短くなっていく。得体の知れない感覚にみっともなく指先がかじかんで、動くのに必要な力が抜けていく。
ああ。ほら、背後でまた、
――鈍い音がした。
瞬間、少女は駆けだした。
垣根から飛び出た蔓の、その棘が肌を引っ搔く。人工的に均された地面にできた凹み部分に、爪先が突っかかって、転びそうになるのを寸ででこらえる。
がむしゃらに両足を動かす。音が追ってくる。
幾度目かの角を曲がった。音が追ってくる。
怖い。
怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い。こわい。恐い。怖い。怖い。怖い。恐い。怖い。怖い。怖い。こわい。怖い。怖い怖い怖い怖い恐い怖いこわい怖い。
得体の知れない、ナニカ。それに追われるという原始的な恐怖が、闇雲に駆ける心臓を絞めていく。
捕まってはいけない。戻れなくなる。
捉まってはいけない。戻れなくなる。
確信めいた本能が、そう耳元で警告している。警告する声に急き立てられて、ただひたすらに逃げる。
どこをどう進んできたかも確認できず、勢いに任せて飛び込んだ先は、パンフレットに載ってあった東屋だった。
真白なテーブルクロスが風に揺れていた。卓上には何も置かれていないのに、数人分のチェアはピカピカに艶めくほど磨かれ、誰かが座るの心待ちにしている。
そんな少しだけ寂し気なパーティー席は、大きな古い鏡の前にあった。劣化を防ぐかのように硝子ケヱスに納められた鏡が、水面が揺らめくように輝いて、沈黙のなかで光を反射させている。
『――鏡がね、』
そうだ。
母が話していたではないか。彼女は鏡に導かれ――
手を伸ばす。
触れる、
直前、
で。
「み」
「つ」
「け」
「た」
腰に巻きついたナニカが、腹を締め付けた。押さえつけられる痛みが肺から酸素を追い出して、視界がくらくらと曖昧になっていく。
意識を失う寸前、視界を占めたのはふたつの薄い空色の宝石だった。