ひたむきな執念 

 魚の骨ペンが羊皮紙の上を軽やかに滑っている。
 そうかと思えば、鋭い爪先でトントンと跳ねたり、時折我を忘れたように雨雲を平面に生み出している。一枚では遊び足りないとばかりに駆けていき、真っ白だった羊皮紙は暗い水底色のインクの足跡で埋められてしまった。

 次元への干渉。
 時間座標への介入。

 幾度とのない思考錯誤を繰り返しながら綴られる文字と表の羅列は、魔法学のなかでも禁術の類に分類される魔法である。
 関連事項が記された文献は禁書指定だ。然るべき場所に保管されているか、貴書でありながらも危険性を考慮されて破棄処分となっているか、もしくは行方知らずとなっている。なにせ対象は世界そのものだ。生きとし生ける者の理も、さらには死せる者の理さえ捻じ曲げて、自分に都合の良い世界を作り上げることさえ可能となる。危険視されるには十分な理由だった。
 故に、研究に携わる者は定期的に政府から監査が入る。研究の成果報告も義務付けられており、事細やかな手順はもちろんのこと、所持する文献から使用した物品までも提出書類に記載を求められる。手間暇をかけてなお、研究に没頭していられるのは狂気か、あるいは執着か。
 すくなくとも、深海に住まう怪物の如き形相で文字を書き連ね、複雑な魔法式で演算を繰り返す男――アズール・アーシェングロットはどちらにも当てはまっていた。

「……ねえ、何年経ったと思ってんの?」

 諦めないのかと声音に滲ませて、フロイド・リーチは言葉を投げかけた。
 ゆっくりとこちらを見上げるアズールの動作は、声が届いている証拠だ。一心不乱な幼馴染みから反応があることに心底安堵する。
 それにしても、ひどい顔だった。
 仮面のように張り付けた表情のなかで、爛々と瞳だけが薄暗く力を持って主張していた。満たされない、どうしようもない飢えを抱えた瞳のした、そこにはもうずっと前から隈が居座っている。アズールはこれまで休むことなく懸命だったから、仕方のないことのようにフロイドは思う。

 十年は超えた。すでに両手では数えきれない。
 小エビちゃんが消えて、アズールが取りこぼしてきた時間の長さである。

 学生時代に突拍子もなく現れた異世界の人間と、フロイドの幼馴染みであるこの人魚は恋に落ちた。お世辞にも素敵だとは言えない出会いだったが、紆余曲折を経て結ばれた二人は傍目からにも幸せそうに見えた。なのに運命というのは、ひどく残酷だ。

 フロイドは直接見ていないが、曰く「前触れもなく鏡の向こう側に溶けていった」らしい。

 当時のアズールは見ていられないものだった。普段の平静さを脱ぎ捨てて半狂乱に暴れていた。手が血に濡れるのもかまわず鏡を殴りつけていた。爪が剥がれるのにも気付かず、ガラス面の外れた土台に爪を立てていた。愛する人の残り香を辿るように、空虚な鏡に縋りついていた。美声とは程遠い絶望に濡れた金切り声で――「返せ!」「どこに連れて行った?!」「僕の番だぞ!」――無茶苦茶に叫んでいた。
 取り繕う余裕もないだろう。愛した人を失って気丈に振る舞うことなど、できるはずもない。そんな痛々しい姿に、フロイドでさえ同情を禁じえなかった。

 だって、人魚の恋はあまりにも一途だ。

 狂気とも呼べる情の深さをもって相手を愛する、そんな生き物なのだ。
 真綿にくるむように慈しみ、鎖でつなぐように心を注ぐ。もちろんアズールとて例外ではない。自らの命にも等しい相手、否、自身の存在すべてに値する相手を奪われて、彼が正気でいられるはずがなかったのだ。

 それからというもの、アズールはひたすらに日々を駆けてきた。在学中は学業に努め、卒業後は事業を起こした。魔法を極めれば、愛した人を連れ去った世界に繋がる方法が見つかるかもしれない。事業が軌道に乗れば、多額の資金を魔法の研究に費やすことができ、手がかりが見つかるかもしれない。

 神に祈ることをしなかった男は、けれど自らの手で願いを叶えるために何ひとつ惜しむことはなかったから。

 身体に障る、少しでいいから休め。どんなに友人に忠告されようと、アズールは行動を止めなかった。忙殺によって心の虚無を埋めるように、欠けたぬくもりを埋めるように。そんなふうにして時間を費やすことでしか、きっとアズールは正気を保っていられなかった。傍で見てきたからこそ、フロイドはよく知っている。

 どこかも知れない世界から。
 愛する人を取り戻すために。

 行動原理はたったひとつ。
 この手に愛した人を、再びこの手に抱きしめ、もう二度と離すことのないように。

『続いて、次のコーナーに移ります』
『はい、続きましてのコーナーは私が担当いたしま〜す!』

 重い空気とは場違いに、底抜けに明るい声がテレビから響いた。時事を読み上げる生真面目さからは一転、娯楽を楽しむための紹介コーナーに移り替わる。
 華々しく取り上げられた施設の名を「ぺルラ・ラウンジ」という。
 アズールが社長を務める企業の管轄店舗で、リニューアルオープンしたばかりの飲食店だ。
 内装のコンセプトはナイトレイブンカレッジ在学中に運営していたモストロ・ラウンジに近い。水底の寮とは違い、陸地に建てられた店舗であるから、窓ガラス越しに見える風景のなかに魚はいない。その代わり古き良きが続く薔薇の王国らしく、かつての女王陛下が愛したとされる花が咲き誇る姿が見られるようになっている。

 海底と浅瀬の良いとこ取りした内装と、陸に咲く瑞々しい薔薇の景色。

 そんなふうにして海と陸が交わったのがぺルラ・ラウンジだった。
 契約者に与え奪う商談席が紳士の社交場モストロ・ラウンジなのだとすれば、きっとアズールはぺルラ・ラウンジを憩いの場にしたかったのだ。と、フロイドは思う。

 人間に恋をした人魚が、――違う。
 人間と恋に落ちた人魚が、――これも違う。

 他人に与えてばかりの強かな女を愛した、誰よりも不器用で強欲だった男の、――愛する存在ができた生き物が、相手に与えてあげたかったものの概念だ。

 育ってきた環境も、受けてきた教育も、本能からくる考え方も、圧倒的に価値観が違う存在同士。ちぐはぐな二人だった。

 海と陸。
 人魚と人間。
 世界と異世界。

 本来ならば出会うこともない双方が交わって、けれど寄り添い、ともに生きていくことができる。
違いを争わせることなく溶け込ませた空間は、海とも陸ともとれる場所は、そんな願いの表れのようではなかっただろうか。

(ま、知らねぇけど)

 テレビ画面に映るぺルラ・ラウンジと、その順番を待つ人々の行列。時折場面が切り替わってはインタビューを受ける人間姿がある。
 過小評価は腹が立つが、過度な評価も苛立つというもの。
 アナウンサーの女性の盛り上がり以外は、特に過不足もなく紹介されていく様子にひとまず肩の荷が下りた。アズールのことであるからその辺り手違い等はないだろうが、確認のためにあらかじめチャンネルを合わせていて正解だった。安心がこの程度の労力で買えるなら安いものである。

『ええと、……』

 さて、ここでまた場面は変わる。
 人工的に光る画面の向こう側。一般女性であることには変わりないが、その顔を見てフロイドは目を見開いた。
マイクを差し出された女性は、薄い笑みを浮かべていた。
 インタビューの質問に答えに詰まったのを誤魔化すようにして、耳元を飾るコインパールに、手が、触れて

「……ユウ、……?」

 小エビちゃん、とフロイドが呟く前に。
 アズールが呆然と名前を口にした。





 画面と空間を隔てた先、海の向こう、そこには昔と変わらない姿で笑う“彼女”の姿があった。
 




モストロの子ども
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宵、泳ぐ鳥