68.5話
あの事故から数ヶ月が経った。
警察に渡された写真をじっと見下ろす。母親だという女性。鏡に映る自分と同じ髪色をしていたけれど何も思い出せない。自分の名前すら、警察に言われるまで知らなかった。聞いてもピンと来なかった。
―――なにかをきっかけに記憶の蓋が開くこともある。あまり思い詰めないように。ゆっくり、少しずつで構わないから。
お医者さんの言葉を思いだし、写真の女性を見つめる。空の青をもっと深くしたような暗い色の瞳が、少しだけ細められてこっちを見ている。綺麗な人だ。この人が私のお母さん。
もう二度と会うことはできない。どこにも居ない。この写真の中にだけ存在する。これが私の家族。
ある日、テレビでゼファーの追悼番組がやっていた。施設の大人は見るのを止めようとしたけど、私が見たいと言って聞かなかった。大人は眉を下げて部屋を出て行って、私は他の子供と一緒にテレビに釘付けになった。番組が始まって少ししてから、テレビの画面に大きく映し出される光景は見覚えがない筈なのに心臓がどきどきして苦しいくらいだった。この事故現場で私は保護されたらしい。
画面の下に白く文字が映し出される。多分これだ。私は隠すように持っていた紙に鉛筆で書き殴る。読み方も分からない角ばった文字を真似して書いていく。
私が施設を逃げ出したのは、そのあとすぐ。病院から施設へ移され一年が経った頃のことだった。大人の目を盗んで事前にジュースとパンをリュックに詰めておいた。これで一日ぐらい持つだろう。その日のお昼、他の子が騒いでいる隙に施設の塀を越えて逃げ出した。遠ざかるように走り続け街へ出る。掲示板の文字を睨みながら、ポケットから出した紙と見比べて同じ形の文字を探した。
「……」
どれぐらい時間が経ったか分からない。ひそひそと話す声が聞こえて、そっと声が聞こえた方を伺うとおばさんが二人こっちを見て話していた。「ひとり」「おとな」「まいご」少しだけ聞き取れた言葉に歯を食いしばって、掲示板から走って離れる。警察を呼ばれたら面倒なのだ。同じ文字は見つけられなかったけれど、とにかくここを離れなければ。
紙を強く握りしめて生まれて初めてこんなに走った。口の中ににがい味がして、だけど一瞬でも立ち止まったら大人に捕まってしまう気がして止まれなかった。どれぐらい走ったか分からない。夏でもないのに汗が流れて口に入る。しょっぱい。
足の横が痛くなってきた。潤む視界を誤魔化すように空を見上げる。視界に映る雲の量は出発時よりも多くなっている。雨が降るのかな。嫌だな。傘、ないのに。どんどん落ちていく気分のまま、俯きがちだった視界を少し持ち上げる。
目の前の光景には見覚えがあった。
パズルのピースがハマるように、記憶が少しだけ蘇る。コンクリートの道、子供の自分には高すぎる塀。その上からはみ出て見える植物。この道は通ったことがある。何度も、何度も。バッと駆け出し突き進む。疲労なんか吹っ飛んだようだった。この道を進んだ先に、私の家がある。全て思い出したわけではないけれど、それだけは分かる。公園からここに続く道を何度も歩いた。あの時も手を引いてもらって、家に。
―――あれ、
「誰に、手を引いてもらったんだっけ」