新たなる舞台


ジュダルとの戦闘で血塗れになっていたハルの怪我を、モルジアナが手当していく。氷槍で貫かれた傷、抉られた肌。到底モルジアナの力では治すことの出来ない状態に言葉を失う。ただ一人、ハルは痛みに呻くこともなく(こんなものを見せて申し訳がないな)と考え込んでいた。

霧の団のアジトで襲撃を受けた時と同じように、そそくさと人から離れていくハルの腕を掴んで引き止めたのはモルジアナだった。大丈夫と繰り返すハルの腕を引っ張り、王宮の中、人のいない室内へとハルを連れ込み、怪我の具合を見たモルジアナは驚愕した。先ほどの戦闘で負った傷だけではない。数日間の脇腹の傷の状態に、愕然と震えるしかなかった。―――あの時の、問題無いと言ったハルの言葉を素直に信じた過去の自分を怒りたかった。浅黒く変色した痣はモルジアナの両の掌でも覆い隠せない程の大きさになっている。鎧のへこみよりも遥かに大きい。先ほどの戦いで悪化したことはモルジアナにも分かった。

自分やハルに対する怒りで震えるモルジアナの耳に、外の喧騒が届く。ハルも気付いたようで、はだけた装束を手早く身につけると剣を手に通路へと出て行く。モルジアナは「動いたらだめです。傷が!」とそれを引き止めたが、それを上回る大声が宮城に響いたことで閉口した。

バルバッドの兵士は顔を青ざめて叫んでいる。
―――煌帝国の大軍隊が現れた、と。

ハルとモルジアナは急ぎアリババとアラジンの元へと向かった。
そこでは同じように報告を受けたシンドバッドが険しい表情をしていた。
突如現れた煌帝国の大軍勢。表情を消すハルの視線の先、シンドバッドがアリババへと声をかける。

君はここに残ってはいけない、と。

バルバッドの王政廃止を皇帝に報告するために皇女は国に戻った筈だが、それにしても到着が早すぎる。煌帝国の目的が定かではない以上、戦えない状態のアリババがここに残るのは危険だった。
煌帝国は真っ先にバルバッドの王族の身柄を抑えに来る。そう口にしたシンドバッドに、アリババは戸惑い、それでも足は動かさなかった。
ここで、逃げるのか、と自問を繰り返す。
王制を廃止すると国民に告げた景色に、自分は誓った筈だ。
もう二度と、ここから逃げないと。
―――なのに、

「アリババくん、今は耐えてくれ」
「……」
「シン、もう時間がありません」

ジャーファルの焦った声に、シンドバッドはもう一度声をかけた。
シンドリアの船が港に控えていること、煌帝国の兵士に見つからないように、とだけ告げ、シンドバッドはマスルールと共に正門へと向かっていった。

「アリババ王子、こちらへ! お早く!」

焦りを顔に滲ませたバルバッドの兵士が、アリババを導く。戦闘によって崩れた城壁を指し示す兵に、アリババはぐっと歯を食いしばる。手の中にあるものを強く握り締め、重い一歩を踏み出した。

「―――行きましょう」

曲がった背に手が触れる。青磁色の瞳が真っ直ぐにアリババを見つめていた。
ハルに腕を引かれ、アリババは駆け出す。城壁を越え、街を進んでいく。力なく横たわるバルバッドの民の亡骸に、アリババは今にも膝から崩れ落ちそうだった。ふらつく体を横からアラジンやモルジアナが支え、ただ走り続ける。

辿りついたシンドリアの船。急かされるようにアリババ、アラジン、モルジアナが乗り込む。そして、いつまでも船に乗らないハルの姿を見て、アリババは咄嗟に名を呼んだ。

「ハル! お前、どうしたんだよ!」
「私は別の手段でこの国を出ますから、お気になさらず」

ずっと様子を見ていたかのように、どこからかハルの愛馬が現れる。その体にはハルの荷物がくくりつけられていた。手綱を握る姿は初めて会ったときと同じ、ただ違うのはハルが鎧を纏わず、その体が血塗れであることだった。

「ハルさん……どうして?」
「その傷で逃げるのは無茶です! 一度お医者様に見てもらわないと!」

船を降りようとするモルジアナを船員が抑える。その視線の先には煌帝国の旗を掲げた船団。これ以上時間は割けない、と船員が出港の合図を出す。

その間に鞍に脚をかけ、馬の背へと乗り上げようとしたハルの背を、何者かが引っ張った。思いがけない力にハルがふらつき、再び足を地面へと下ろす。振り返った先に居たのは深く俯いたアリババだった。

「……アリババ?」

アリババはおもむろにハルを抱き上げ、踵を返して船へと乗り込んだ。わたわたと慌てるハルをじっと見つめ、愛馬は大人しくその後ろを追って船上へ。怪我人相手に暴れるわけにもいかず、ハルはアリババの名前を何度も呼び続ける。アリババはそれを無視して、船が港から離れていくのを待った。

アリババはハルの怪力を知っている。本気で抵抗されたら捕まえてはおけないとわかっていたが、ハルはすぐに大人しくなって動かなくなった。
諦めたのだろうか、と思ったアリババの耳にモルジアナの震え声が届く。

「ハルさんの意識がありません!」

慌てて甲板へと下ろしたハルの顔色はいつもより青く見え、呼びかけに答えない。すぐさま船医によって怪我の具合を診られた後、ハルは船室の寝台へ運ばれていった。眠ったままのハルの体に包帯が巻かれていく。

長い眠りにつくハルの瞳が開かれたとき、その先に広がるのは視界を埋め尽くす絶海。

南海の島国、シンドリア王国。
この地を訪れることは避けたいとハルが常々考えていた、夢の都。



布で懸命に顔を覆い隠し縮こまるその姿を、遥か上空で鷹が見下ろしている。
遠い西方。その光景を魔法で見ていた少女は、神殿の中でため息を吐いた。
あの子は一体、いくつの騒動に巻き込まれるのだろうか、と。


第一部 きみの明星にふれる 完