だれかの思考が煩くて眠れない
ぐっすり眠るアラジンとモルジアナを確認して、ハルは物音を立てずに寝台から抜け出た。硬貨と引き換えに従業員から買い取った質素な服に着替えると、机に置かれた装具に手を伸ばす。顔を隠すように布を巻きつけると、鎧や赤い外套には触れず、剣の半分の長さもない短剣と小さな袋を掴んだ。
二人を起こさないように細心の注意を払いながら、ハルはそっと部屋を出る。他の客と会うこともなくホテルの出入り口にまで辿りついたハルだったが、ホテルの警備がその行く手を阻んだ。日が暮れてからの女性の一人歩きは危険だと話す男性に、ハルは硬貨を手渡すとホテルを出る。
顔を晒さないように首元の布を抑え、月明かりに照らされる道を進んでいく。道中スラムの人間や浮浪者に幾度か絡まれつつも、難なく返り討ちにしたハルが向かっていたのはバルバッドの郊外だった。人気のないところまで移動したハルは、月明かりのせいで輪郭がぼんやりとした星を見上げている。草色の瞳を空に向けていたハルは、バサッという空気を叩く音が聞こえたことでゆっくりと振り返った。
視線の先にいたのは鷹だ。鋭く曲がった嘴と瞳がまっすぐハルに向けていた。翼は折りたたまれ、ハルの動向を伺うように大人しくしている。ハルは驚く様子もなく近付くと持っていた袋から動物の肉を取り出した。ホテルの従業員に頼みこみ購入した調理前の動物の肉だ。血の匂いに反応したように頭を揺らした鷹の口元にそっと肉を運ぶ。表情を変えず食事をしている鷹を、ハルはじっと見つめていた。
全ての肉を与え終わると、鷹は畳んでいた翼を大きく広げ飛び上がった。そのまま旋回し西の夜空に溶けていくのをハルは黙って見送る。定期的に自分の前に現れる、西の空から現れる鷹。どこか機械的な瞳の鳥に、ハルは特に追求することもなくこうして餌をやっていた。監視か、催促か。ハルはしばらく西の空を見上げていたが、潮風が布を揺らしたことでその場から離れた。
―――外へ出たついでに、昼間聞いた「怪傑アリババ」の情報でも集めるか。
そう考えていたハルの背後から、数人の男が忍び寄る。気配に敏いハルが気付かない筈もなく腰の短剣へと手を伸ばしたハルだったが、数秒考えると手を離した。ゆっくりと振り返るハルに、男達が下卑た笑みを浮かべる。
酔いを覚ますためにホテル内を彷徨っていた「シン」、ことシンドリア国王のシンドバッドは、通路の先で僅かに聞こえた男の大きな声に足を止めた。部下も居ない今問題事は避けたいところだが、と廊下の角からちらりと顔を覗かせたシンドバッドの視界に、二人の男女が飛び込む。煌びやかな装飾に身を包んだ男と、質素ながら清潔感のある服を着た華奢な女性の後ろ姿。
(なんだ、痴話喧嘩か?)
盗み見るのはよくないな、と来た道を戻ろうとしたシンドバッドは、柱の影に隠れるようにして女性がもう一人居たことに気付いた。自分を抱きしめるように深く俯く女性は、ホテルの従業員の服装だ。僅かに見える襟元は大きくはだけているように見える。
状況を掴めずに動きを止めたシンドバッドの耳に、男のがなるような声が届く。
「さっさと失せなお嬢ちゃん」
「断る。女性を強引に部屋に連れ込むような卑劣な行いを見過ごせる筈がない」
「それがコイツの仕事だろうが」
「ここを娼館か何かと勘違いしているのか? 酒の飲みすぎだな。さっさと部屋に戻って頭を冷やすといい。勿論、貴様一人でだ」
毅然とした冷たい女性の言葉に、男の顔が恥辱で真っ赤に染め上がる。シンドバッドは自然と足を踏み出していた。肉で太くなった腕が大きく振りかぶられ、目の前の女性に向かっていくのを、シンドバッドの腕が止める。
「そこまでだ」
「! なんだお前」
「落ち着いてくれ。―――これ以上、騒ぎを大きくしたくはないだろう?」
シンドバッドの言葉に男はハッとして周囲を見渡す。男の怒鳴り声を聞いて他の客や従業員が集まり、怪訝そうに四人を見ていた。男は悔しさで歯を食いしばってから自室へと逃げ込むように消えていく。それを見届けたシンドバッドが爽やかな笑みを作って斜め下へと顔を向ける。
「やあ、危なかったねおじょうさ」
「大丈夫ですか」
「―――はい。す、すみませんでした。わたし」
すぐ傍に居た筈の女性はいつのまにか柱の影で震える従業員の元に移動していた。シンドバッドがかくっと崩れそうになるのを堪えていると、震える同僚に気付いたのだろう、別の従業員が慌てたように駆け寄ってきた。一瞬で事情を把握し、持っていたシーツを同僚の震える体に巻きつけ抱きしめると、シンと女性に向かって深く頭を下げた。何度もお礼を言う二人に、シンは気にしなくていいという意味で手を振る。
「いいえ、どうかお気になさらず。あなたが無事でよかった」
「!」
従業員が去り、集まっていた客も散らばり始めたころに、シンドバッドは傍らの女性に声をかけた。
「君は、もしかして……ハルかな」
シンドバッドの言葉に女性、ハルは少しだけ体を強ばらせた。やはりか、とシンドバッドが視線を巡らせる。服の上から分かるしなやかな体と曲線は明らかに女性特有のものだ。
―――あの鋼鉄の鎧の中身とは結びつかないな……。ん、女性?
「名乗りもせずに、申し訳ありません。先ほどは助けていただき、感謝します」
「いいんだ。それにしても、まさか女性だったとはね」
「……」
「素敵な瞳だ」
「……ありがとうございます」
にっこり笑っていったシンドバッドに、ハルはなんの変化も見せない瞳のまま答えた。(あれ?)と内心で動揺しているシンドバッドに、ハルは「それでは、私は部屋へ戻ります」と背中を向けた
―――すごく、そっけない。一応窮地を救ったんだが、と頭を悩ませていたシンドバッドの脳裏に一抹の風が吹く。思い出されるのはハルとの出会い。身ぐるみを剥がされ、葉っぱ一枚で彼女達の前に立ちはだかった瞬間を。無慈悲な一風によって最後の砦が剥がされたこと。
「―――!!!」
途端にだらだらと汗が流れる。言葉を失って口元を抑えるシンドバッドの元へ、部屋から消えていた主を探しに来た部下のひとりがやってくる。「俺は女性になんてことを」とブツブツ呟く王に向かって、「また酒に酔って女性に手ェ出したんですかあんたは!!」と怒声が飛ばされることになるが、その声に人が集まることはなかった。