悠久の向日葵


「壱」


山姥切長義が本丸へやってきたのは、うだるような暑さが過ぎた夏の終わり。季節の変わり目に吹く風はひやりと冷たく、肌を滑っていく。長義が顕現し、瞼を持ち上げた先で見たのは、驚いたように自身を凝視するこの本丸の審神者と、その隣で凛然と佇む自身の写しの姿。

審神者が初めて選んだ刀は、山姥切国広だった。




新刃歓迎会として開かれた酒宴で、長義は慣れない酒を静かに飲み進めていく。刀剣男士によってアルコールに対する耐性は異なる。短刀はそもそも飲まない者が多いが、中でも薬研藤四郎は顔色すら変えず、不動行光は甘酒でも酔い潰れる。(あれは精神的な要因が多いのかもしれないが)
長義は最初の宴会で自身の肉体がアルコールに対して強くもなく弱くもないことをまるで他人事のように確かめると、それ以降は他の刀剣に強く勧められても上手く躱すようにしていた。あまりにしつこい時は燭台切や加州が間に入ってくれていたので、長義自身、酒の席で強いストレスを感じたことはなかった。刀が増えていき、祝い事の度に宴を経験していくうちに慣れたのか、押し付けられた酒をそっと次郎太刀や岩融の傍に置いて去るという技も会得した。ちなみにこれは堀川が教えてくれた極意だ。彼と一番近くにいる和泉守が使っているところは見たことがない。

長義が過度な飲酒をしないのにはいくつか理由がある。一つは、酔いが回り余計なことを口にする可能性があるからだ。酒を飲んだ後藤が泣きじゃくっているのを見たことがあるし、酔った大般若が花瓶を口説いていたこともある。

なにより、長義は人前で酔い潰れる、なんて醜態は絶対に晒したくなかった。目の前で酔い潰れる南泉からちらりと視線を流した先で、長義は一際目立つ金色に目を釣り上げる。それは意識した動きではなく、反射的なものだ。

長義の視線の先で、この本丸の初期刀が小さく息をつく。その横には顔を赤くした審神者がいた。審神者が座る机には黒田の刀が集結している。刀工や歴代の主からアルコール耐性の影響を受けるのかは知らないが、不思議と黒田の刀剣たちは皆酒に強い。周囲のペースにつられてしまったのか、今日の審神者はかなり酒を飲んでしまったようだ。日本号に勧められたか、最近の激務からの解放感からか。同じ席に長谷部がいれば問題ないだろうと気にしていなかったが、あの男も存外、審神者に甘いからな、と長義は手元の日本酒をあおった。すかさず注いでこようとする鯰尾に礼だけ伝え、近くにある空いた食器を手に立ち上がる。同じタイミングで一期や石切丸が立ち上がり、それにつられるように短刀も片付けを始めた。そんな中、飲兵衛たちは腰を座布団にどっぷり沈め、酒を飲み続けている。

「程々にな、旦那方」

薬研がそう言って酔いつぶれた不動を抱えて大広間を出て行く。同じように眠りこけた刀を、同じ刀派や同室の者が介抱していたが、長義は足元で酒瓶を抱きしめて熟睡する南泉をじっと見下ろしてから、何も見なかったことにして大広間を出て行った。

「長義?」

声をかけられギョッとしたのは、先ほどまで大広間にいた筈の審神者が、廊下にいたからだった。どうやら長義が南泉を見捨てる判断をしている間に大広間を出ていたらしい。どこへ向かうつもりだったのか、そもそも目的なんて初めから無く、酔いを覚ますためだったのかもしれない。暗い廊下でも分かるぐらいに審神者の顔色は赤く染まり、その体は重心がぐらぐらと揺れ、今にも縁側へ倒れこみそうな程だった。長義はさりげなく庭側へ身を寄せる。

「きみ、ひとりかい? アイツはどうしたんだ」
「国広は水を飲みに行った。私はひとりしかいない!」

何がそんなに楽しいのか、審神者はにこにこと笑顔を長義へ向けている。審神者がこの世に一人しかいないことは言われなくても分かっている。そしておそらく山姥切国広は水を飲みに行ったのではなく、審神者に水を持ってこようと厨へ向かったのだろう。その隙をついて大広間を出てくるなんて、と呆れたように長義は目下の審神者を見下ろす。

―――偽物くん。

長義は山姥切国広をそう呼んでいる。ただし、審神者の前で呼ぶことはなかった。それには様々な要因があって、その多くは長義が言語化することができない、難解な理由があったからだ。初めて偽物くんと口にしたときの審神者が、酷く傷付いたような顔をしていたのも、その一つに、入るのかもしれない。

「長義、お腹いっぱいになった?」
「ああ」
「よかった」

審神者の発言に長義の眉がぴくりと動く。けれど、酔いが回った審神者は気付くこともない。数日前に同じことを秋田に言った燭台切が、横で見ていた鯰尾に「お母さんみたいですね」と言われて複雑そうにしていたのを見ていたからだろうか。まるで人間の母親のように言う審神者に、長義は閉口する。

―――いや、よく考えれば、審神者は刀剣男士にとって、母のようなものなのかもしれない。

刀工の多くは男であり、刀剣男士は自身を作り上げた刀工を父のように思っている。ならば、今世で刀剣男士を呼び覚まし、神気を注ぎその姿を現界させている審神者は、母のようなものなのではないか。
全ての刀を平等に大切にし、慈しみ、優しさを与えてくれる審神者。それは資料で見たことのなる母親像と、変わらないのではないか。

「……いや、ないな」
「?」
「なんでもないよ。部屋まで送ろう。歩けるかな」

元気よく返事をした審神者を連れ、暗い廊下を進んでいく。きっと、大広間では初期刀が消えた主に気付いて困っているのだろうが、長義は審神者を送り届けたあとにもう一度大広間へと戻るつもりはなかった。嫌がらせではない。ただ、そんな気分ではなかっただけだ。だらしなく緩んだ審神者の赤らんだ笑顔を、気に食わない男の顔で上書きしたくなかった。
ただ、それだけ。

「長義は綺麗だね」
「ありがとう」
「おひさまみたい」
「……ありがとう?」

こんな意味のない、中身のない会話も、たまには悪くないと思うようになっている。この本丸へ来てから、自分が審神者や周囲の刀剣から影響を受けて変わっていることに、長義は自覚があった。
それが良いことだと思うことは、出来なかった。



本丸には数多くの花が咲いている。この本丸が建てられた頃から咲いているもの、刀剣や審神者が自ら種を植え芽吹かせたもの。外壁周辺には小さな白い花の多年草が咲き乱れ、審神者と一部の刀剣が管理をしているという花壇には年中美しい花々が咲き誇っている。この本丸から少し離れた場所には自然の花畑があるらしく、短刀が審神者を連れて遊びに行くところだと聞いたことがあった。

活け花を嗜む刀剣も中にはいる。花瓶に飾られた花は季節ごとに変えられ、美しく床の間を飾っている。長義も蜂須賀に誘われ活け花を試みたことがあるが、完成した作品はいつのまにか、鶴丸が作り上げた奇抜な作品と取り替えられていた。(白い花が翼を広げたように花瓶の上に広がり、顔のあたりに二つ赤い花が並んでいた。おそらく鶴がモチーフなのだろう。)突っ込む気力も失せ、自身の作品を探すのは諦めていたが、髭切と膝丸が生活する部屋の床の間に飾ってあるのを見つけたときは言葉も出なかった。髭切はかすみ草や白百合が咲く花瓶を穏やかな笑顔で見つめて、「君に似て慎ましいね」と言った。

発言の意図が分からず顔をしかめる長義に、髭切は多くを語らず、結局それ以上会話をすることはなかった。長義は言葉少なに部屋を出る。刀剣たちの個人部屋を抜け、多くの刀たちとすれ違い、言葉を交わして。歩き続ける。長義は胸の内がすっきりしないとき、本を読んで珈琲を飲むことにしている。そうすれば必要以上に他の者に声をかけられることもないし、自分だけの空間を保てるからだ。ふと、書庫へ向かう長義の足が止まる。書庫の隣、居間から話し声が聞こえた。この本丸の審神者のものだった。

「次はどんなお花を育てようか」

どうやら植物のカタログを見ているらしく、部屋には審神者のほかに前田や平野、秋田の声が聞こえた。この本丸でも特に花が好きな彼らは、審神者と一緒に次に注文する花の種を考えているのだろう。

「歌仙さんは、睡蓮はどうか、と」
「いいね。そういえば、秋田は朝顔を育ててみたいんだっけ」
「はい!」
「それじゃあ、注文しよっか。お世話頑張ってね」
「わあ! ありがとうございます! 主君!」

遡行軍と戦う兵と将の会話とは思えないほど、穏やかな会話だった。まるで人間の姉弟のように聞こえるそれに、長義は自然と息を潜めてしまう。打刀よりも索敵に優れた刀種なのだ、長義がここにいることには気付いているかもしれない。

「主君が育てたい花はないのですか」

前田の声だ。審神者はその問いにうーん、と唸りページを捲っているようだった。それが数秒続き、軽い音が止む。手を止めたようだ。

「ひまわり」

ぽつりとこぼれ落ちた言葉に、長義が息を止める。

「向日葵、お好きなんですか?」
「うん。好き!」

平野の言葉に返した審神者の声は、喜色に溢れている。

向日葵。キク科の一年草。
美しい金色の花びらをつける、夏の花。

以前外国の神話でその名を見たことがある。

水の精が太陽神に恋をしていた。
けれど、神は他の女神を愛し、水の精の想いに応えることはなかった。水の精はその事実に悲しみ、太陽神が馬車に乗り、空の道を東から西へ駆けていく姿を、ずっと見ていたのだという。

水の精の恋が成就することはない。
その気持ちは相手に届くことがない。

水の精は九日という時間、同じ場所に立ち続け、天空を見上げて太陽神の姿を追っていた。そのうち水の精は地面に根を付け、向日葵へと姿を変えていたという。


長義はしばらく止めていた足を動かし、部屋へ戻った。長義の部屋は審神者の私室から遠く離れた洋館の一室にある。同じ建物で暮らす小竜と偶然出会い、二人は世間話をしてそれぞれの部屋へと入っていった。書庫へは行かなかった。



しばらく経ち、長義は部隊長に任命されることとなった。実力が正しく評価されたことを誇りに思うのと同時に、不動の第一部隊隊長である山姥切国広が気に食わなかった。一という数字が優れているわけではない。この本丸では部隊ごとに隊員が決まっており、戦場に適した部隊が転送される。第一部隊は山姥切国広を中心に古参と新参が混じっており、新人が慣れるまでの面倒を見る部隊なのだ。長義自身、顕現されてしばらくは第一部隊に配属されていた。かなりの屈辱だったことは言っておく。
よって、第一部隊が難易度の高い戦場へ赴く機会は少ない。けれど、場合によっては第一部隊が編成を変えて戦場へ送られることもある。例えば、こんのすけから与えられる情報が少なく、敵の戦力が未知数の場合。第一部隊の新参は部隊を外され、代わりにほか部隊から戦闘力の高い古参の刀が宛てがわれる。そして最大の戦力で戦地に向かうのだ。

夜戦なら短刀や脇差が、大規模の敵が相手なら大太刀が。
様々な敵との会敵を予想して刀種を分けても、部隊長の名が変わることはなかった。

第一部隊隊長、山姥切国広。

あの男が外れたことは、この本丸が始まって以来、一度もないという。

なんと分かりやすい、信頼の表れだろう。
加州や大和守は分かりやすく二人の関係を羨ましがっている。

「羨ましいに決まってんじゃん」

何がそんなに妬ましいのか、と純粋な疑問で問いかけた小夜に、加州は言う。その顔は一期に叱られた鯰尾がよく見せる表情によく似ていた。

「あいつは、主が最初に選んだ刀なんだからさ」

小夜はぎゅっと口を噤み、黙り込んでしまった。加州の声が聞こえていたのだろう。隣のテーブルで黙々と食事をしていた水心子や肥前の手が止まっている。

審神者が、自ら選んだ、最初の一振。
この本丸で、ただ唯一の称号を持つ刀。

第一部隊の部隊長という大任を任される程の信頼。他の刀が間に入ることさえ躊躇われる、二人の関係。おそらく、なんの気兼ねもなくその間に割って入れるのは、審神者が初めて鍛刀して本丸へやってきた短刀だけだろう。彼もまた、審神者の最初の鍛刀で呼ばれた一振という唯一を持つのだから。


初めて部隊長としての遠征を終え本丸へ帰還すると、執務室に審神者の姿はなかった。いつもは近侍と共に執務室にいるか、玄関まで出迎えに来る。もしかしたら行き違いになったのかもしれない、と踵を返し再び玄関へと向かうと、予想は的中した。廊下の奥からこちらへ向かってくる審神者と近侍の桑名の姿があった。何故か二人共土に汚れている。

「さっきまで畑にいたの。出迎えにいけなくてごめんね」
「それは構わないよ。それにしても……きみはもう少し自分の身なりに気を使ったほうがいいな。顔に土がついているよ」

審神者は恥じる様子もなく、困ったように笑っている。まったく、と呆れる表情を隠すことなく、長義は手袋を外してから審神者の頬についた土を指で拭った。審神者は慣れているのか、大人しくしている。

「汚れちゃうよ」
「洗えば済む」

数秒で審神者の顔の汚れは消え、代わりに長義の白い指には土が付着していた。

「ありがとう」
「どういたしまして」
「今日は長義の大好きな山菜の天ぷらにするからね」

笑って言った審神者に、長義は固まる。

「そんなこと言ったかな」
「前、美味しそうに食べてたから。今日はたくさん収穫できたんだよ。ね、桑名」
「うん。豊作だったね」

ねー、と呑気に笑う二人に、長義はしばらく考えてから言った。

「へえ、俺の主は、ほかにどんなことを知っているのかな」
「畑当番が嫌い」
「……分かっているのなら外してくれ」
「だめ」

そんな会話を終え、報告を終えてから流しへ向かった長義は、鏡に映った自分が随分穏やかな顔をしていることに言葉を失った。初めて見る表情をしていた。うっすらと指に残る土汚れを意味もなく見下ろす。指を擦れば、当然だが汚れは広がっていった。それを見下ろし立ち尽くしていたが、大倶利伽羅に声をかけられたことで慌てて手を洗い流した。その日の夕食は審神者が言っていたように山菜の天ぷらで、長義は静かに箸を進める。審神者は執務中のようだ。桑名もそれに付き合っているのだろう。大広間には居ない。長義はその時、初めて、それを残念なことだと思った。もしかしたら今までも、審神者が居ないことを残念に思っていたのかもしれない。人の身を得たばかりで感情を知らずにいた長義には言語化することのできなかったのだ。

長義は一つ気付きを得たように、新鮮な野菜で作られた天ぷらを口に含んだ。やはり、美味しい。初めて山菜の天ぷらを食べたときも同じ感想を抱き、歌仙へ「美味かったよ」と一言伝えはしたが、顔に出したつもりはなかった。まさか審神者に見透かされていたとは思わなかったが。審神者の言葉に長義は戸惑っていたし、なにより焦っていた。一体この女は、どこまで感情を見通すことができるのだろう、と。
自分のこと、写しである山姥切国広のこと、審神者のこと。
審神者は自らの刀剣男士の中身を、一体どこまで、見抜けるのだろうか、と。

「随分美味そうに食べるな、本科」
「……」
「天ぷらが好きなのか?」

―――前言撤回。俺はもしかしたら、自分が思っている以上に、分かりやすい男なのかもしれない。




最近の激務が続いたからか、刀剣男士と審神者に一日の休暇が与えられた。審神者と遊びたがった短刀を一期や鳴狐が説得し、近侍と審神者はそれぞれの私室でゆっくり休んでいる。長義はいつものように洋館から書庫へ向かい、洋書を一冊手にして戻るところで鶯丸に呼び止められた。

「主に茶を運んでくれないか」
「構わないが……」
「悪いな。小豆に頼まれたんだが、俺はやらなくてはならないことがある」
「……ちなみに聞いてもいいかな」
「馬にやる握り飯を作るんだ」

そう言って厨へと戻る鶯丸に、長義はしばらく沈思していたが、深く考えるのをやめて執務室へと向かった。いつも賑やかな執務室の周辺は静まり返り、鳥の鳴き声が穏やかに響いている。

「主」

長義の声に、返答はない。審神者の気配はある。長義は「開けるよ」と断りを入れてから静かに障子を開いた。審神者は部屋にある机に突っ伏し、眠っていた。

長義は静かに息を吐き、部屋へ入ってから障子を閉じた。開け放たれていたら、ちらちらと様子を見に来ているという短刀が部屋へ流れ込んでくるかもしれない。

しずかにお盆を置き、審神者から少し離れた場所に腰を落とす。審神者に起きる様子はなく、深い眠りについているようだ。

目の下に薄くのびた隈を見つけて、長義は顔をしかめる。あまり健康的には見えないが、その寝顔はひどく穏やかなものだった。

確か、洋館では太鼓鐘と鶴丸が集まり騒がしくしていた。部屋に篭れば声は小さくなるだろうが、本を読むのに集中するには適さない環境だ。―――起こさなければここに居てもいいだろう。長義は誰に確認するでもなく心の中で呟き、手にあった洋書を開いた。外国の神話の物語だった。

塔に住む女神官と、海峡の対岸に住む青年の物語。
二人は恋をし、青年は彼女に会うために毎晩、海を泳いで渡った。神官は青年が迷わないよう塔の最上階でランプを灯し、標になっていたという。
ある冬の嵐の夜。青年は波に巻き込まれ、ランプの灯りは強い風に吹き消された。青年は塔への方向を見失い溺死した。翌朝、打ち上げられた青年の死体を目にした神官は発狂し、恋人の後を負って塔から身を投げたという。

ぱたり、と本を閉じる。読み始めてからかなり時間が経ったが、審神者が目を覚ます様子はなかった。茶はすっかり冷めてしまっている。読み終えた本を横に退け、眠り続ける審神者を見つめる。

「きみはどう思う」

返事がないことは分かっている。
それでも、長義は続けた。

「俺は、なんて愚かなんだろうと思うよ」

女神の神官として恋を禁じられていたというのに、青年の愛を受け入れたことも、嵐で荒れる波を前に、会いたいという欲求を抑えられずに海に飛び込んだ青年も。

行儀が悪いことを自覚しつつ審神者が眠る机に肘をついた長義は、しばらく審神者を眺めていたが、手持ち無沙汰を誤魔化すように審神者へと手を伸ばした。黒い手袋をしたままだったことに気付き静かに外すと、審神者の髪に触れる。掬い上げるように手の平で髪の感触を楽しみ、自身に引き寄せるとするりと逃げていく。髪は音も立てずに机へと落ちていった。長義は息を潜めて、審神者の頬へと指を押し当てる。土汚れなんてない、美しい女の肌である。

「……」

執務室に近付いてくる気配に気付き、長義は審神者から手を離した。それから数秒後、無遠慮に執務室の障子が開け放たれる。覚えのある気配に長義の心は自然と逆立っていた。

「本科か」

太陽を背に廊下に立つ男に、長義はすくっと立ち上がる。障子が開けられた音のせいか、それとも男の声が理由か、長義の後ろで審神者が起きた気配がしたが振り向かなかった。

「もう行くのか」
「用事は済んだ」
「……そうか」

長義が部屋を出たのと同時に審神者の意識もはっきりしたのだろう。

「国広?」

そう呼ぶ審神者の声がいやにはっきりと、長義の耳に残った。



それから、長義は審神者を避け始めた。あからさまな行動ではなく、審神者が居る執務室近くに近付かなくなっただけだ。洋館に篭っていれば、審神者と顔を合わせることはなくなる。食事も自分で用意し、非番の際は洋館から一歩も外に出なかった。同じように洋館で一日を過ごす者はほかにもいる。ただ、長義が食事を取る場所を変えただけだ。
例外があるとしたら出陣や内番だが、隊長としての報告以外では審神者と話すことはなくなった。なにか用事を頼まれても理由をつけて断っていた。

改めて言うが、この本丸の長義はとても分かりやすい男である。
酒の席で審神者が飲みすぎないよう気にかけていること、山菜の天ぷらが好きなこと、執務室の近くにある書庫にしょっちゅう顔を出しては無為に時間を潰していること。


そんな刀がある日を境に行動を変えれば、どうなるか。

勿論、違和感を覚える刀は多かった。戦以外興味がない刀などは、気付くことはなかったが、本丸の最古参である山姥切国広は、誰よりも早く気付いていた。わざわざ洋館まで来た自分の写しに長義は顔を歪める。国広は静かに一言だけ口にした。

「本科はそれでいいのか」

長義にとっては発言の意味も分からず、ただただ不快にさせるだけの言葉だった。なんのことだ、と言った長義に、国広は「自覚していないのか」とさらに怒りを煽るように続けた。勿論、無自覚である。お互いに。

「自覚……?」
「いや、なんでもない。馬に蹴られたくはないからな。俺はもう行く」
「はあ?」

洋館を出て行くその背を睨んでいた長義だったが、考えるのも嫌になったのか頭を振ってから部屋へと戻った。その手には書庫から借りっぱなしの神話の本がある。長義が愚かだとわらった悲劇の恋人たちの物語が。

「やあ猫殺しくん、ひとつ頼まれてくれないかな」
「なあんでオレが、自分でやれ、にゃ」
「畑当番のときに日向ぼっこしていたことを長谷部に言ってしまおうか」

途端に動きが強ばる南泉に長義は笑みを深める。南泉はそれが心底嫌なことであるかのように長義の言葉の続きを待っていた。

「これを主に届けて欲しいだけだ。こんのすけに押し付けられたのだけれど、生憎急用があってね」
「……急用、ねえ」

南泉は差し出された茶封筒を猫のような目で見下ろしてから、乱暴な手つきで受け取った。

「頼んだよ」

踵を返そうとする長義の姿に、南泉は「ふん」と鼻でわらった。思わず立ち止まった長義の背に、南泉は無遠慮な言葉を投げかける。

「オレには関係ねーからなぁ。勝手にしろ……にゃ」

ドスドスと執務室へ向かう南泉の気配に、長義は静かにその場を去った。
長義が審神者を避け始めてから、早くも一月が経過していた。

出陣を終え、執務室で審神者への報告を済ませる。世間話を振られる前に、用事があるから、と部屋を出る。その日もいつものように行動するつもりだった。

「うん。ありがとう、ご苦労さま」

審神者の言葉を受け、長義が立ち上がる。それじゃあ、と言って障子に手をかけた長義だったが、

「ねえ、長義」

初めて呼び止められた。

「―――どうかしたかな」

平静を装って言った長義に、審神者は落ち着いた声音で言った。

「ちょっと付き合って」



有無を言わさない審神者の言葉に、長義は何も言えなかった。審神者は目的地へ向かって突き進んでいき、長義は大人しくついていくしかない。廊下ですれ違う他の刀剣たちは、二人が一緒に居るのを見て微笑ましく道を開けていく。途中で出会った日向が満面の笑みで「良かった、仲直りできたんだね」と言ってきたとき、長義はその場から消えたくなった。審神者がとくに言及しなかったことも居心地の悪さを加速させている。

玄関で靴に履き替え、外を進んでいく。辿りついたのは畑からそう遠くない、いわゆる刀剣たちが花を植えているスペースで、審神者は何も咲いていない場所の前にすっとしゃがみこんだ。長義はその後ろで立ち止まる。

「はい、長義も手伝って」

振り返って手渡されたものは、縞模様の種だった。
しずく型のそれは見覚えがある。

「向日葵の種か」
「そう、夏に咲くように植えるの」

以前審神者が育てたいと言っていたことを思い出す。同時に金色の頭髪を持つ男が脳裏によぎり、長義はいますぐ手の上の種を握りつぶしたくなった。審神者の手前、そんなことはしないが。

審神者の指示を受けながら長義は淡々と向日葵の種を植えていった。最後に水をやってから、審神者は一仕事終えたように手を払って長義に向き直る。自然と長義の背筋が伸びた。

「今日から、この一角のお世話は私達が担当だから」
「……私達?」
「長義と、私」

言葉を失う長義に、審神者は「よろしく」と続けた。NOという返事は受け付けない、と言わんばかりの堂々とした態度に、長義はしばらくして折れたように「分かったよ」と答える。長義による審神者避けは、一ヶ月で終結を迎えた。

困ったような長義に、審神者は笑っている。

長義が久しぶりに間近で見る、花のような柔い笑顔だった。


「弐」


長義が向日葵の世話役に任命されてから十日程経った。種はすでに発芽しており、土の上に規則的に並んでいる。間引きも済ませ、あとは土が渇いたときにだけ水をやればいいだけだ。ただし、土の状態を見るためにも一日一度は花壇へ顔を出さなければいけないが。様子を確認することも、水遣りも、人手が必要な作業ではない。長義一人いれば問題なくこなせる仕事量であったが、彼が花壇に顔を出すときは決まって審神者も隣にいた。

一人で構わないと長義が言っても、審神者は花壇へやってきた。長義が遠征で本丸を数日空ける際は審神者が一人で花壇の手入れをしている。後になって知ったが、他の刀が手伝いを申し出ても遠慮しているらしい。この時間、この花壇にいるのは長義と審神者の二人だけだった。

「今朝のお味噌汁どうだった?」
「いつもと変わらず美味しかったと思うが。なぜ?」
「今日のは小夜が一人で作ったんだよ」
「へえ……」

にこやかに話す審神者の横顔をちらりと見て、長義は慣れた手つきで土に触れる。最近雨が降ったからか土はある程度の水分を含んでいる。これなら今日の水遣りは必要ないだろうと判断した長義だったが、すぐに立ち上がる様子はなかった。小さな芽を慈しむように見つめる審神者の横で、長義は動こうとしない。

長義の朝は早い。目が覚めたら早々に支度を済ませ花壇へ向かう。土の状態を確認しているうちに、遅れて審神者がやってくる。土が乾いていれば水を遣って、本丸へ戻る前に他の花を見て周って、二人はとりとめのない会話をしていた。顔を合わせてから十五分程で本丸へ戻り、それぞれの仕事に取り掛かる。
その後一言も会話をせずに一日を終えることなんてしょっちゅうだった。

百振り近い数の刀剣が本丸には存在する。審神者と刀全員が、毎日交流の機会を持つことは難しい。主張の激しい者は審神者に真正面から接触を図りに行くが、そうでない者もいる。自身の力を厭う刀、審神者を害することを恐れる刀、単に素直になれない刀。長義は後者にあてはまり、業務外で自分から審神者の元へ向かうことは少なかった。

積極的な者、として例をあげるとしたら加州や大和守だろう。今朝も朝食の席で審神者の隣席をめぐって争いを繰り広げていた。審神者の左右に座れば解決だろうと長義は思ったが、審神者の左隣には既に信濃が座っていた。機動の差であった。

太刀や大太刀は審神者の隣に座りたくとも機動の差で負けてしまうので、食事の席については最早諦めているらしい。三日月と鶯丸はお菓子で包丁と取引したが断られていた。

本丸に来たばかりの時は審神者の席を気にしていた長義も、朝早くから始まる隣席争奪戦を何度も見て悟ったのか、そのうち目にとまった空席に座るようになっていた。勿論、そうなると審神者との会話はない。審神者と話すために食事と片付けを済ませる刀もいる中で、長義はそそくさと自室へ戻る日々だった。そうしている刀も少なくない。出陣以外興味が無かったり、審神者に気を遣っていたりと理由は様々だ。

長義が部隊長や水遣り担当を任される以前は、審神者と話さない日が二、三日続くこともあった。そんなときは大抵、審神者の方から「最近話してないな、と思って」と様子を見に来てくれていた。それは長義に限らず、この本丸の刀全てに対して同じ扱いなのだろう。

この本丸の審神者は周囲をよく見ている。

出陣先で負った怪我は携帯端末から把握することができるが、本丸で負った怪我は通知されない。だというのに、手合わせで傷を負ったにも関わらず隠していた泛塵に、審神者は即座に気付いていた。一緒に手合わせをしていた巴形は気づいていなかったというのに。泛塵が手を引かれて手入れ部屋へ連れて行かれた光景は記憶に新しい。個人と長く話せない分、大広間で集まる際に注視しているのか、それとも審神者の特別な力なのかは分からない。



買い出しから戻った長義が、本丸の空気が湿っていると気付いた翌日から、雨が続くようになった。その間は勿論花の水遣りは必要なくなる。二人が花壇で顔を合わせることも無くなった。稀に雨が止んだとしても、続く雨のおかげで土は潤っているからだ。

ある雨の日、遠征で長義が向かったのは戦国の時代、長篠城。じめじめとした湿気に包まれた本丸とは違い、からっと晴れた夏の季節であった。任務を終え、転送を待つ長義の視線の先、遠くからでもわかる金色の花が咲いている。
太陽の花。夏の風によってそよぎ、穏やかに揺れる長身の花をじっと見ているうちに、長義や他の刀剣たちの体が時空の揺らぎに飲み込まれる。本丸への帰還だ。
その視界が切り替わるまで、長義はずっと、花を見つめていた。
神話の水の精のように。他のものなんて視界にも入っていないように。


梅雨入りを過ぎてから二週間近く経つが、その間、長義と審神者が花壇に集まることはなかった。雨であることは勿論、審神者の仕事量が増えたことも要因の一つだ。大広間で食事を取る時間すら取れず、部屋に篭っているという。食事を運んだ青江によれば、政府から回された仕事量が昨年よりも多く、今年は刀剣男士の出陣回数も増えるだろうとのことだった。御手杵などは純粋に喜んでいたが、顔を曇らせる刀も居る。刀の性格は千差万別。戦いを好むものも、厭う者もいるのが本丸だ。

「主さん、大丈夫かなー」
「あとでお菓子もっていってあげようよ」
「それいいな蛍丸!」

愛染と蛍丸の会話に同調して数振りの刀が集まる。小豆や謙信がスイーツを作ることがトントン拍子に決まっていき、審神者の仕事が一段落するまでの食事の配膳やスイーツを差し入れる係も同時に決定した。長義はというと、既に食事を終えて大広間を出るところであった。あの輪に入ろうとする様子もなく、洋館へ向かう長義の足がふと止まる。視線の先、執務室から縁側に出ている審神者の姿を見つけたからだ。
その隣には近侍である薬研の姿もある。仕事の息抜きだろう。審神者はぼうっと雨に打たれる庭を眺めている。特段顔色が悪いようにも見えない。長義は僅かに肩の力を抜いてから再び足を動かした。今日こそは借りっぱなしの洋書を返却しなければ。そして新しい本を借りるのだ。

「元気ないな、大将」

短刀にしては低い、薬研の声が空気を震わせて長義の耳に届く。一拍遅れて「え?」という審神者の声も聞こえた。長義は再び足を止め、振り返る。長義からは薬研の背が見えていた。

「この様子じゃ、しばらく水遣りは必要ないな」
「……そうだね」

薬研はそう言って執務室へと戻っていった。縁側に一人佇む審神者を、長義はじっと見つめる。ざあざあと地を叩く雨音のせいか、どこか鈍いところがあるせいか、審神者は遠くにいる長義に気付いていないようだった。
その横顔を、長義は見つめる。刀剣男士の並外れた視力で見た審神者の表情はどこか寂しげで、長義は気付けば息を止めていた。

そして火が付いたようにその場をあとにした。嫌な湿気の空気、本丸から洋館への距離で濡れたシャツが肌に張り付くのを煩わしく感じながらタオルを取りに向かう。大きな鏡面に映し出された長義の顔は、見たことがないぐらいに赤く染まっていた。

結局、その日も書庫へ行くことはなかった。

長義は仕方なく、手元に残っている本を見る。一冊は植物図鑑、もう一冊は長く借りたままの神話の物語。長義はしばらく悩んでから二冊目を手に取り、表紙を開いた。あれから何度も読み直した神官と青年の恋の話を。


あれから数日後、再び長篠城に送られた長義は、任務を終えたその足で山を降りていた。本丸へ帰還するまでの猶予は僅か。目的地まで足早に進む長義の後ろには同じ部隊に配属されている五振りの刀がついてきている。長義が時間内に戻ると言っても聞かず、全員まとまっていればいいじゃないかと好奇心を隠さずにいた筆頭は一文字則宗であった。長義は何故こうなったんだ、と考えつつも足早に進んでいく。さっさと回収して何食わぬ顔で戻ろうとしていたのに。同じように特命調査を経て本丸の仲間入りした刀の何気ない提案のせいで大所帯になってしまった。ずんずん進む長義と、楽しげにしている則宗。その後ろには髭切、秋田、桑名、日向が続いている。

帰還まで残り数分となった頃に、長義は足を止めた。目の前の光景に秋田がわあ、と息を呑む。そこには一面に広がる花畑があり、審神者が好きだと言っていた花が咲いていた。

「このあたりはいい土だね」

今にも土の味見をしそうな桑名を置いて、長義は長身の花へ近付く。そして手を伸ばすと、少し奥に咲いた花の枝を握り、ぶつりと手折った。

「ありゃ、いいのかい?」
「数本であれば構わないと、こんのすけの許可を得ているよ」

髭切はふうん、と長義の手にある花を見下ろした。本丸で見たことはないが、そう珍しい品種でもない。誰もが首を傾げていたが、ただ一人、秋田藤四郎が「ああ!」と大声をあげた。

「主君の好きなお花です! お土産で持って帰ってあげるなんて、長義さん、優しいんですね!」

秋田の言葉に長義は黙り込み、代わりに他の四振りがそれぞれの反応を示した。髭切と桑名は純粋に「知らなかった」と口にし、日向は微笑ましそうに笑う。ただひと振り、監査官であった刀はニヤニヤを隠すことなく長義を見ている。

「はは、青いな、坊主」

自分でも分からない羞恥心に襲われながら帰還した長義は、五振りに背を押される形で執務室へと向かった。審神者への手土産だなんて一言も言っていない。確かに、その通りではあるが。



本丸は未だに雨が続いている。
風がないことが幸いだった。雨は真っ直ぐに地面に降り注ぎ、縁側を歩く長義に雫がかかることはない。長義の手の内で、一輪の向日葵がぶらりと垂れ下がっている。

―――このまま持ってきてしまったけれど、花瓶を用意したほうが良かっただろうか。

執務室まであと少しのところまで来て、長義の足が止まった。時間が無いからと手折ってきたが、今すぐにでも切り口を整えたほうがいいのではないか。

―――確か、歌仙が一輪挿し用の花瓶をいくつか持っていた筈。先にそちらへ、

一歩足を下げた長義の視線の先で、近侍である大包平が執務室を出ていくのが見えた。鋭い眼光が長義へ移り、目を引かれるように手元の花へと落ちる。

「遠征部隊が戻ったぞ」

大包平の言葉に、執務室の中が慌ただしくなり、開いた障子から審神者がひょっこりと顔を出した。その瞬間に手元の花を背後へと隠した長義に、大包平は不思議そうな顔を作る。

「長義! 出迎えられなくてごめんね」
「何度も言うけれど・・・・・・きみだって忙しいんだ、わざわざ出迎えなくて構わないよ。皆も理解している」
「けど、自分の目でみんなの無事を確認したいから」

眉を下げて力無く微笑みを浮かべる審神者に、長義は閉口した。

「おかえりなさい」
「―――ああ」

大包平は審神者に「少し休憩だな。茶を持ってくる」と告げ、長義の横を通り過ぎていった。審神者に促され、長義は執務室へと足を踏み入れる。机の上には書類や筆記具が散乱している。

用意された座布団に腰を落ち着かせ、遠征の報告を淡々と済ませてから、長義は「主」と続けた。いつもならそそくさと立ち上がり退室する長義の言葉に、審神者は首を傾げる。長義は、背後に隠すようにして置いたそれを手探りで掴むと、そのまま体の前へ運んだ。
ずいっと眼前に差し出されたものに、審神者は目を大きく丸めて固まる。そして確かめるように口を開いた。

「ひまわり?」
「梅雨が明ければ本丸のもすぐに咲くだろうが……浮かない顔をしていたのが気になってね」
「―――」
「以前、好きだと言っていたのを、」

長義の手の中から、するりと茎が抜けていく。下げていた視線を持ち上げた先で、審神者は弾けるような笑顔と綺羅々と輝く眼で花を見ていた。

「思い……だして―――」

頬を上気させ、夏の空に輝く太陽のように、
満開の笑みをみせて、審神者は言う。

「ありがとう、長義。うれしい」

先ほどまで蓄積していた仕事の疲れが一気に消え去ったように、審神者は向日葵を両手に握っている。金色の花弁にそっと鼻を寄せる姿を呆然と見ていた長義は、空になった手を握り締める。強く。強く。感覚が失せてしまうまで、長く。

その時、ようやく、長義は理解した。
自分が審神者に対して抱いていたこの感情が、なんなのか。
審神者に求めていたものが、なんだったのか。

刀剣としての存在価値でも、信頼でも、無かったのだ。

―――ああ、


平静を装って、長義は執務室をあとにした。訝しげに自分を見る大包平の視線に気付かない振りをして。嬉しそうに花瓶を探しに行った審神者の背を、眩しいものでも見るように目を細めて見送って、その足で洋館へ向かった。自室の机に置かれたままの本は変わらずそこにある。審神者から花壇の世話役を任命されたその足で書庫へ向かい、見つけた植物図鑑。それには世話の仕方だけでなく花言葉も記されていた。

向日葵。
ハート形の葉をつけ、大きいものは全長三m程の高さにまで育つ。
春に種を植え、夏にかけて大きく成長し、黄色い花を咲かせる。

別名、太陽の花。

花言葉は、私の目は、あなただけを見つめる。

水の精が太陽を見ていたように、塔の灯りをたよりに海を泳いだ青年のように、それを待つ神官のように。一人地に根を張ることになっても、その命を散らすことになっても、ただ、愛する人を想い続けた物語の登場人物のように。
この目は、あなただけを―――


開いていた植物図鑑を閉じ、長義は崩れるようにして机に顔を伏せた。
誰もいない自室。
見られる可能性が無いのに、自然とそうしていた。

―――花言葉なんて、彼女は知らないだろうな。

長義は小さく嘲笑う。(なんて、愚かな男なんだ、お前は。)自分の情けなさに震えが止まらない。所詮は鉄の塊。こんなことのために、体を与えられたわけではないというのに。長義の頭に浮かぶのはそればかりだ。

予定より早く任務が終わったら、帰還が早まるだけ。だというのに、長義はわざわざ隊員に断りを入れて、余計な行動をした。花なんて、歴史を守るために必要なわけでもない。花一輪が戦争を終わらせることもない。則宗が提案して全員が揃っていなければ、帰還時間に間に合わなかったかもしれない。
なんのためにそんなことをしたのか。


―――好きな花を見れば、
審神者が笑ってくれるかもしれない。


ただ、それだけ。
そんなことのために。


監査官であった頃の自分が知ったら、自分を軽蔑するだろうか。
「そんな馬鹿な話があるか」と、信じないかもしれない。

机に頬をつけたまま、向日葵を握っていた右手を開く。
咲くだけで審神者を笑顔にすることができる花。

その色を見るたび、決まって臓腑が震えるような感覚を思い出す。

―――あの男と同じ色だ。

「国広?」

いつか聞いた審神者の隙だらけの声がよみがえる。
自分がなにをしても覆せないものが、二人の間には存在する。越えることのできない境界線が、憎くて、煩わしくてたまらない。


自分の刀のことをよく気にかけている審神者なら、この心境の変化にも気付くのだろうか。長義はそんなことを考えて目を強く閉じた。
どうか気付かないでくれと懇願するように、右手を強く握る。花が握られていたらすぐに萎びてしまうぐらいの力だった。

―――これ以上、何を望むことがあるのか。
刀剣男士としての使命も、期待も、信頼も、充分なほど与えられている。


「―――そうだ」

それでいいんだ。

自分に言い聞かせるように、長義は何度も繰り返す。
審神者にとっての唯一でなくとも、特別になれなくとも。

ただこれまでのように、変わらず、この地に留まることが叶うのならば。

そして、一つ許されるのならば。

あの太陽のような笑顔をまた、見られるのなら、それだけで。

一瞬で心に刻まれた笑みを脳裏に浮かべ、長義は固まったように動かない。燭台切に呼ばれるまで強く握りしめていた拳はしばらく痺れが残っていたが、それもすぐに消え失せていった。


「参」


手土産として審神者へ花を贈ってから、長義は出陣の度に花を見かけては摘んで帰るようになっていた。始めの頃は誰にも見られないようにとマントや背に隠していたが、皆が知っているのだと悟ってからは堂々と執務室へ向かうようになった。何度も繰り返すうちに、周りの生暖かい視線にも慣れる。長義はいつの間にか照れくささも投げ捨て、花を届ける役目に徹していた。
審神者もその度に大げさな程喜び、長義から贈られた花を大切に部屋に飾っている。

審神者へ届ける花の手土産。
長義はそれを本丸の向日葵が咲くまでの間だけ、と決めていた。

土から切り離した植物である以上、いつかは枯れる。不思議なことに、日が経過して既に枯れかかった向日葵も、審神者は捨てたがらなかった。
大事にしてくれていることは嬉しかったが、部屋中ドライフラワーまみれにされても困る、と萎びた花を捨てるのはいつも長義だ。

その日、内番の報告にきた長義の目に映るのは、卓上で美しく咲く一輪の向日葵。まだ数日は新しいものは要らないな、と考えていた長義の目に、積み重なった分厚い本が入る。
背表紙にはそれぞれ日本の妖怪集1、2、3、呪術の基本、成り立ち、応用編と書かれている。審神者が読むには珍しい、というか、読んでいる姿が想像出来ないものばかりだ。
読もうと思ったが手が進まず積んでいるのだろう。
長義はため息を吐いてから座布団から立ち上がった。

「読まないのなら書庫に、」
「これはいいの! 必要なものだから!」

本に手を伸ばした長義の言葉を遮るように審神者は言った。
指摘されたのが恥ずかしいのか、僅かに頬を染めた審神者にもう一度ため息を吐く。

「まったく」

長義の言葉に、審神者は誤魔化すように目を背けていた。
机に積み重なっていた本は、一週間後には読まれた形跡がないまま書庫へと戻されていた。




その日、昼食を終え、広間を出た長義は歌仙と並び歩いていた。最近の情勢、万屋で見た美しい茶器。とりとめのない会話が続いていたが、ふと歌仙が足を止めた。数歩先で同じように止まった長義が振り返る。
歌仙はまっすぐ空を見上げていた。
まだじめじめとした空気に相応しい鈍色の空が広がっている。

「もう梅雨が明けるから、咲くのもすぐだろうね」

歌仙はそう言って微笑んだ。
やけに楽しそうなその表情が気になりつつ、長義も同意する。
予報ではあと三日程で梅雨明けだ。
空気が乾けば、花壇の蕾はすぐにでも花を咲かせるだろう。

夏が、すぐそこまで迫っていた。

二人が向日葵を育てていることを知っている刀たちは皆喜んだが、長義は喜べなかった。
花が咲けば、審神者と会う時間が減ってしまう。
花壇で過ごしていたあの数分が、終わってしまう。

水遣りの期間は当然向日葵が咲くまで。
梅雨の時期と同じように、徐々に終わりへと近付いている。

「―――……」

―――いや、終わらせる。

審神者へ抱いている感情も、初期刀への執着に近い感情も、全て。

この雨とともに終わらせる。

以前のような、あるべき形に戻るだけだ。
審神者として、刀として、歴史を守るために戦う。本来そのための役割で、そのために生まれてきた道具であるのだから。

審神者は多くの刀を従える本丸の主として。
長義は時間遡行軍との戦いのために喚ばれた、ただの武器として徹するだけだ。

審神者によって与えられた命が尽きる、その瞬間まで。





予報通りに梅雨が明けた。
本丸は暑い日が続いている。
花は、来週には咲くだろう。

遠征帰りの長義の手に、向日葵の花はない。
報告のために執務室へと向かった長義だったが、部屋では審神者が机に突っ伏して眠っていた。いつもなら積み重なっている書類や本はない。ちょうど、一段落したのだろう。

近侍である陸奥守は壁に寄りかかって眠っている。それに呆れた長義だったが、数ヵ月続いていた激務を知っていたからか、彼らを起こす気にはなれなかった。音を立てずに障子を閉じ、審神者が眠る机へと歩み寄る。

机の上には審神者が読んでいたのであろう小説が一冊、置かれていた。手持ち無沙汰だった長義は何気なくその本に手を伸ばす。
短編集のようだ。一定のスピードでページを捲っていたが、ある箇所で手が止まる。
読み終えたページには何かが挟まっていた。
ページの間に刺さっていたそれに手を伸ばし正面を見たとき、長義は一瞬、息がつまる。

それは手作りの栞だった。
押し花にされたその花の色には見覚えがある。
長義が何度も審神者へ送っていた、向日葵の花びらだった。

栞サイズにするために丁寧に花びらを取り、並べたのだろう。葉や細い茎を合わせて形作られたそれは、慎ましいものだったが、長義の心を揺さぶるには充分だった。

落としそうになった本を慌てて掴み、言葉を失う。

土から切り離された花はいつか枯れてしまう。
それまでの時間を引き伸ばすことは出来ても、永遠はない。
花を愛でる刀たちは、その儚さこそ、美しいのだと言っていた。いつかは枯れてしまうからこそ、いまを懸命に生きる姿が、尊く見えるのだと。

本丸へ来たばかりの頃だ。酒の席で三条の刀が交わしていた会話を思い出した。あの時はなんとも思わなかった。ただ耳を通り抜けていただけの言葉の数々が、鮮明に思い出される。

審神者は永遠を生きることはできない。いつか終わる命でも、一日、一瞬を大切に、必死に生きようと前を向く姿。それが、決して同じ時間の流れを歩めない自分たち刀剣男士の目に、美しく映るのだ、と。


その瞬間、長義は当たり前のことを思い出した。
審神者の命には終わりがあることを。
その日が、自分たちよりもずっと早く訪れることを。

人はいつか、俺たちを置いて逝ってしまう。

いつのまにか、長義は静かに涙をこぼしていた。
美しい顔は凍りつき、白い肌には絶え間なく雫が流れ、顎を伝い落ちていく。声をあげることもなく、壊れたように泣いていた。

―――審神者だって人間だ。
永遠に近い時間を生きていく俺たちの「過去」になる日が絶対に訪れる。

この身が砕け散れば、俺の、ここでの記憶さえ無くなるのだろう。

こんな想いも、衝動も、痛みも。
涙が出るほどの喜びだって。
誰の内にも残らないまま―――

栞を元の場所へ戻し、長義は袖で乱暴に目元を拭った。その場所に跪き、未だ眠りにつく自身の主を見つめる。まだ二十数年しか生きていない。そして、あと百年も生きられない、若く青い生命を。


(俺は花を贈って、それだけで満足していたのに)

―――数多くいる刀のひと振りから貰った、珍しくもない花の残香を、きみは、残そうとしてくれたんだな。

「主」

もう何も望まないと決めた。

けれど、
けれど、願ってもいいだろうか。
口には絶対に出さない。
叶うことがないと分かっている、願いだけれど。

「主」

永遠があるのなら、この手に欲しい。

たとえ戦が終わり、俺たちの存在意義が消えて無くなったとしても。俺はきみの傍にいたい。本体が朽ち、信仰が薄れ、俺たちの全てが消えてしまう、その日まで。
俺はきみと一緒に生きていたい。


いつかのように、長義はそっと審神者へ手を伸ばした。 あの時と違い、手袋は外さない。直接触れることは躊躇われた。触れれば消えてしまうものに触れるように、そっと頬へ指を添える。

「きみは、眩しいな」

―――いつだって、俺を照らしてくれる太陽であり、標だった。それは、どうしたって手が届かない、冬の嵐の夜にも輝く灯火のような存在。

いつか言われた言葉を思い出す。
「長義は綺麗だね」
なんの意味もない中身のない会話が、今はたまらなく恋しい。言葉が返ってこないことが、こんなにも寂しいものだとは知らなかった。胸に内に溢れ出した言葉が、止まることなくこぼれていく。

太陽の花。いつか枯れてしまう生命。
俺を置いていく薄情なきみ。

「俺はきみが好きだよ」

全身の力を失ったように、審神者に触れていた手がぽとりと机の上に落ちる。
何も握れないほど脱力した手が、審神者のすぐ傍で固まっている。

「きっと、」

この感情を抱いたことを後悔する瞬間がやってくるだろう。それは審神者の命が終わった瞬間か、自身が折れた瞬間か、この戦争が終わりを迎えた時か。

審神者が誰かと結ばれた時か、自分には分からない。その時は、刀身が砕けることよりも、鋭い痛みを伴うのだろう。

それでも、捨てることはできない。
一度気付いてしまったら、抱えて生きていくしかない。

「これは、愛だったんだな」

―――ようやく、分かったよ。

心の深い穴にそっと落とすように呟くと、長義は静かに執務室を後にした。
憎らしい初夏の青、晴れた空を見上げる。泣き腫らした瞼には眩しすぎる日差しだった。


「肆」


灼きつけるような陽光が降り注ぐ。
じわりと浮き上がるように汗が流れていく。

来る途中で薬研に押し付けられた麦わら帽子のつばを持ち上げると、目的の花壇が見えた。自身の背丈より伸びた茎と、てっぺんに咲く太陽の花。真下から花を見上げていると、気配がして振り返った。そこには血色のいい審神者が立っていた。その視線は背後の花ではなく、まっすぐに俺へと向けられている。

「おはよう」

花のような笑みと跳ねた声の挨拶に、同じ言葉を返す。この数ヵ月、嵐の海のように荒れた精神状況が嘘のような、そんな落ち着いた時間だった。俺は被っていた麦わら帽子を外し、傍へ寄ってきた審神者の無防備な頭へ被せる。「わっ」と驚いた声を上げつつ、審神者はお礼を言って大人しく受け取った。
麦わら帽子と夏の強い日差しを受けて微笑む審神者の姿に目を細める。
夏が似合う女性だ、と。その時、初めて思った。

じょうろを持たずに並び、二人で高く伸びた向日葵を見上げる。

眠っている審神者へ本心を吐露したあの日から数日が経ったが、自分たちの関係も距離も、変化はない。なによりあの時の言葉を、今抱いているこの感情の名を、起きている審神者へ伝えようとは思わなかった。
意識がない相手だったからこそ、なんの隔たりもなく言えたのだ。
今の俺では、この胸の内にある熱を正しく伝えることはできないだろう。

「きみは、」
「うん?」
「―――きみは、向日葵がよく似合うね」

俺の言葉を聞いて、審神者がこちらへ視線を向ける。引き寄せられるように顔を斜め下に向けると、彼女は少し意外そうに目を丸めていた。きょとんとした表情のまま言った。

「私は、長義のほうが似合うと思った」
「……俺に?」
「うん。向日葵って、太陽の花とも言われるの」

以前見た植物図鑑にも書いてあった言葉だ。

「長義にぴったり」

そういえば、以前酔った彼女におひさまのようだと言われたことがあったような。

「いまいち分からないな、って顔してる」
「よく分かったね」
「分かるよ。長義のことなら」

何気ない審神者の一言に揺らされる心臓にも慣れた。これは体の異常などではないのだ。

「日差しは暖かくて落ち着くし、気分も明るくなるでしょう? 日が沈んだら寂しくなっちゃって、早く明日にならないかなーっていつも思うんだ」
「へえ……」
「でも、太陽の光って強すぎるから、直視すると網膜を傷付けちゃうんだって。光が目に焼きついて、目を閉じてもまぶたの裏にずっと残るの。知ってた?」
「いや、初めて聞いたよ」

強すぎる光か、と審神者の目を見つめ返す。
頭に焼きついて、目を閉じても、まぶたの裏にずっと残る。

日の光によく似たものを自分は知っている。

「やっぱり、きみじゃないか」

首を傾げる審神者から視線を逸らして、もう一度向日葵を見上げる。遠くから聞こえる蝉の声。焦げるような夏の匂い。確かにここにある審神者の存在。肌を撫でていく涼しい風に身を委ねる俺の横で、「長義のことだってば」と不満そうな審神者の声が聞こえた。