累すら及ばない秒刻
敵の斧が振り下ろされ、自身の体から血が吹き出しているというのに、私はそれを他人事のように見ていた。だというのに体だけは動いて、右手の剣で敵の手を斬りつける。斧を手放した敵兵の首に一閃、すると糸が切れたように男は息絶えた。
「――――!!!」
なにか、誰かが叫んでいるのに、よく分からない。
視界がどろりと崩れるようにして、私の視界が一変した。
左目が赤黒い色で埋まってやっと、自分が地面に倒れ込んだことに気付いた。
「―――」
誰かが私の体をずらす。両目いっぱいに濁った空が映り込み、呆然としていると見慣れた金糸が視界に散らばる。そして、温かいものがぽたぽたと頬を濡らした。
―――イングリットが泣いている。
あのイングリットが、幼い頃の私のように泣いていた。
人目もはばからず、顔をぐしゃぐしゃにして、子供のように。
なのに、声が聞こえなくて、音が何も耳に届かなくて、ファーガスの山の中にいるみたいだった。雪に音が吸われて、とても静かで、恐ろしいぐらいの世界で―――ただひとり。
―――いつだったか、殿下とこんな話をしたっけ。
誰かを庇って、命を落とすようなことはやめてくれ。
俺のことは守らなくていい。
―――やっぱり、無理だった。ごめん―――
ごめんね、と口を動かして言った言葉は、すぐそこに立ち尽くしている彼にも届いただろうか。イングリットがさらに泣き崩れるのをみるに、彼女には聞こえている。
―――残された方は、悲しいもんね。
私は、悲しかった。両親が死んでしまったこと、友人が死んでしまったこと、幼い頃から知っている騎士たちが死んでしまったことが。
大切な人と、もう会えなくなるという事実が恐ろしくてたまらなくて、誤魔化すように剣の稽古に没頭していた。過去を思い出すと身動きがとれないような気がして、必死に忘れようとしていた。
駆け付けたメルセデスが私の傷を見て悲しそうに眉を歪めてしまう。その横でアネットが、イングリットにも負けないぐらい泣いていて、二人の涙を拭ってあげたいのに、私の腕はぴくりとも動かなかった。
イングリットに上半身を抱えられる。
肩の向こうに、フェリクスとシルヴァンが駆けてくる姿が見えた。二人共はじめて見るかおをしていて
ここでしんだら、みんなを、かなしませることになる。
だから、わたしは―――
「しなない」
「し、ね、ない」
イングリットの耳元でナマエが呟いた。イングリットの泣き声を押し殺す声だけがあたりを包む。ドゥドゥーやアッシュと共に駆け付けたベレトが静かに、イングリットの傍らにしゃがんだ。そして、既に光を失いかけているナマエの頬に触れる。
「ああ、死なせない」
「もう、聞いてるの、ナマエ!」
「聞いてる……」
「本当に危なかったのよ!」
目を釣り上げて怒るイングリットに、ナマエは分かりやすく気落ちしていた。ディミトリを狙った伏兵の登場。隊を分断され、ナマエは孤立したディミトリを助けるために包囲を突破して敵の中心に向かったのだ。身を挺してディミトリを庇ったナマエの体へ斧が振り下ろされるより先に、追いついたベレトの天帝の剣が敵を切り伏せた。
―――もしも先生が間に合っていなかったら……。
そんな恐ろしい想像をして、イングリットは握っていたナマエの手を強く握り直した。この体温を、もう二度と、感じることができなかったかもしれないのだ。
「お願いだから、あんな無茶はもうやめて……」
「……ごめんね」
戦闘終了後、ディミトリは逃げるようにナマエから離れていった。自分の傍にいたら、再び自分を庇うかもしれないと考えたのかもしれない。代わりにナマエの周りには青獅子の学級の生徒が集まり、ナマエの行動を叱っている。
イングリットのお叱りはまだまだ長く続きそうだ。
ベレトがその光景をじっと見つめていると、その隣にセテスが並んだ。彼の妹もまた、ナマエの行動を叱るための集団に混ざっている。微笑ましそうに生徒たちを見るベレトの脳裏には少し前の光景が浮かんでいる。
血の海に倒れる生徒の姿と、その亡骸に泣いて縋り付く幼馴染たちの姿。
頭をゆるく振ってから、ベレトは足を踏み出した。
教師として、大事な生徒を叱るために。