真冬の空位
ガスパール城主となったアッシュの日々は多忙を極めていた。まだ若く、経験の浅いアッシュのことを領民は決して認めてはくれない。なにより、前任の城主であるロナートが起こした反乱の際に、アッシュが養父である彼に剣を向けたことも一因していた。恩を仇で返した貧民の子供。その事実が、領民とアッシュの間に決して消えない確執となって深く刻まれている。
「アッシュ、まだ眠らないの?」
執務室へやってきた妻の姿に、アッシュは眉の端を下げた。寝巻きのまま入り口に立つナマエの姿に、アッシュは背もたれにかけていた上着を掴んで立ち上がる。
机を離れたアッシュに期待したように顔を上げたナマエの肩に上着をそっとかけた。
「もう少しだけかかるかな……先に眠っていてください」
その言葉に、ナマエは「私にも出来ることはない?」とアッシュを見上げていった。ううん、と首を振って、随分冷えているナマエの頬に指を滑らせる。
「ナマエには、充分助けられてます。だから、今日はもう、ゆっくり休んでください」
頬に添えられたアッシュの硬い指に、ナマエが優しく触れる。夫の身を案じるように目を細めるナマエに、アッシュは自分の胸が早鐘を打つのが分かった。夫婦となって早数節、目まぐるしく時間が過ぎていく中で、夫婦としての時間はほとんどなかったと言っていい。それこそ結婚したばかりの最初の数日のみで、その後は城主とその妻としての責務に追われる日々だった。
「……アッシュ?」
自身の上着の中、ナマエが自分を見上げている。ほとんど無かった身長差はこの五年でナマエを見下ろせる程の背丈に変わった。誰に対しても分け隔てなく優しかった、同じ学級の友人。養父を失い打ちひしがれていたアッシュに、ナマエは何も言わず寄り添い続けた。
立ち上がれるようになるまで隣に居てくれたナマエが、アッシュに向けられる疑惑や敵意から庇っていたこと。その都度誤解を解いてくれていたことを、後になって恩師であるベレトから聞かされた。
その時ようやく、自分がナマエに抱いていた感情が、憧れではないことに気付いた。
アッシュは廊下の寒さで赤くなったのであろうナマエの頬に顔を寄せる。無意識の行動だった。音もなく静かにくちづけを落とすと、アッシュは伏せていた目を開き、間近でナマエの表情を見た。ナマエはしばらく固まってから、爆発した鍋のような勢いで顔を赤く染め上げていった。
「あ、う、あ、アッ……アッシュ……?」
夫の名前を口にすることさえ出来なくなっているナマエにつられて、アッシュも口吃る。きっと、自分も同じように真っ赤な顔をしているのだろうと思った。廊下から届く冷たい風が、これでもかと熱を持っている体をわずかに冷ましてくれる。アッシュは誤魔化すように手をナマエの頬から肩へと移して言った。
「そ、それじゃ、あ……。おやすみなさい……」
「お、おやすみなさい……」
ぎこちなく強ばった体を動かして手を振ると、ナマエは頬を押さえたまま廊下の奥へと消えていった。待機していた侍女と共に角を曲がって見えなくなってから、アッシュは執務室へと戻り、閉めた扉にずるずると背を押し付けて顔を覆い隠した。
「……はあ」
熱い息を吐きだし、よし、と顔を上げる。ナマエに会うまで微かにあった眠気は完全に吹き飛ばされた。あとひと頑張り。そう張り切って机に向かったアッシュだったが、自分の行動が原因で妻の眠気も覚ましていたことには、気が付かなかった。