欠片ばかり降りそそぐここは常闇
ディミトリの視線の先に、アドラステアの皇女がいた。その後ろには顔を俯かせた少女が、同じ白銀を垂らして控えている。二人の顔立ちはディミトリの継母とよく似たもので、覚悟していたとは言え心が乱された。ダスカーの悲劇以降、自身の前に現れる亡霊の中の一人に、姉妹はよく似ている。
幼い頃の一年と少し、互いの素性を知らずに出会い、親しくなった友人。エル。そして妹のナマエは体が弱く、いつも義伯父の屋敷に篭っていた。
調子が良い時だけナマエは屋敷の外に出ることができた。その日のエルはいつもより嬉しそうで、二人は常に手を握って共にいた。二人は本当に仲の良い姉妹だった。
名前を呼び合って、絶えることのない笑顔を綻ばせて。
不自由な生活の中でも、二人は幸せそうだった。だというのに。
「―――ああ、彼女は妹のナマエ。事情があって、言葉を話すことができないの」
ガルグ=マクで初めて顔を合わせた時、一言も言葉を発さずに俯いていたナマエを不思議そうに見ていたディミトリに、エーデルガルトはそう伝えた。驚いて言葉を失うディミトリを置きざりに、エーデルガルトは「けれど、あなたの手を煩わせることはないから」と告げて去っていく。その後ろを彼女の従者であるヒューベルトが続き、ナマエはディミトリに一礼してから姉の後を小走りで追った。その小さな背を、ディミトリは目を見開いて見送る。
数年振りに会う彼女の瞳は仄暗く澱んでいた。
張り付いたような表情はぴくりとも変わらず、まるで別人のようだった。
それから数節が経ったが、ディミトリとナマエが顔を合わせる機会は訪れなかった。ナマエの傍には必ずと言っていいほど、エーデルガルトや、彼女を気にかけた黒鷲の学級の生徒がいたから。特に見かけたのはフェルディナントだ。フェルディナントの勢いに押され、ナマエが少し困ったような表情をしているのを訓練場で見たとき、ディミトリが抱いた感情は安堵だった。そうしている時だけは、かつての姿を重ねることができた。エーデルガルトがディミトリに対して強く意見したときに、ナマエは同じ表情を見せていたから。
それでも、あの日の声だけは、聞けたことがない。
鈴を転がすような、弾んだ、幸せを詰め込んだようなナマエの声を。
「エル姉さま! ディー!」
(ナマエが自分の名を呼んでくれることはない。それはエーデルガルトも同じで、彼女は、喋らない妹の傍らで、どんな気持ちでいるのだろう)
それは飛竜の節のことだった。今節に行われるグロンダーズ鷲獅子に備えた訓練が思いがけない魔法事故で中断され、教室へ向かう途中。花壇の奥に身を隠すようにして蹲る白銀を見つけ、考えるよりも先に足を動かしていた。
「ナマエ!!」
座り込んだままのナマエがゆっくり振り返る。青白いその顔色に息が詰まり、すぐ傍まで駆け寄り膝をつく。ナマエは驚いたように目を見開いてディミトリを見上げていた。
「体調が優れないのなら、医務室へ。歩けないのなら俺が……」
「……」
「……ナマエ、一人なのか?」
胸を抑えていたナマエだったが、視線を周囲に巡らせてからディミトリの手を取った。驚いて固まるディミトリをよそに、ナマエはディミトリの手を広げ、手の平をなぞるように指を滑らせる。
その時ようやく、ナマエが何も持っていないことに気付いた。いつも、筆談用の筆記用具や紙を大事そうに抱えていたのに。
白く細い指が自身の手の上を滑っていく。手袋越しに伝わる、擽ったいぐらいの弱さで伝えられた内容は「ベルナデッタが居たが、訓練場から聞こえた大きな音に驚いて走り去ってしまった」「自分も驚いただけ」というものだった。訓練場での事故と、その規模を考えればここまで音が届いてもおかしくはない。筆記用具もベルナデッタが持ったままだったのだろう。その事実に納得し「そうだったのか」と言葉を返す。ナマエの指は離れかけたが、もう一度戻ってきた。
―――だから、大丈夫です。ありがとう。
手に綴られたナマエの言葉に、ディミトリは静かに視線を落とす。
数年前とは明らかに異なる他人行儀な口調に、寂しさを抱いている自分がいることに驚いた。エーデルガルトと同じように、ナマエもディミトリのことを忘れているのだ。正直、このまま卒業まで関わることはないと思っていた。
「―――エーデルガルトは、一緒じゃないのか」
ディミトリの言葉に、ナマエは表情を固めてから、再び指を滑らせる。
実の姉の名前を聞いたにしては、ナマエは随分と緊張した表情をしていた。
―――姉は、モニカさんと一緒に居ます。
「……そうか」
前節に保護されたモニカ=フォン=オックス。去年の生徒だった彼女は、卒業前に失踪していて、同じように連れ去られたフレンと共に見つかった。今年度の黒鷲の学級に復帰して以降、エーデルガルトの傍には必ずと言っていいほど彼女の姿を見た気がする。
その代わり、エーデルガルトとナマエが一緒に居る姿は見なくなった。
二人共、お互いに近付こうとすらしない。
不自然なまでに、背を向けている。
「……」
踏み入っていい問題ではない。
姉妹揃って変わった髪の色。
声を失ったナマエ。
王都で別れてからの数年で、二人に何があったのか。
「君は……」
「?」
不思議そうにディミトリを見上げるナマエの表情は、あの日から変わっていない。
それ以外は、全てが変わってしまったというのに。
「―――立てるか?」
差し伸べた手に、ナマエが恐る恐る手を重ねる。相手を一切見ずに手を掴む姉とは違い、ナマエは相手の表情を伺ってから手を取った。見た目以外あまり似ていない姉妹に、自分はよく振り回されていたことを思い出してディミトリは笑った。突然笑ったディミトリに驚いたナマエに小さく謝罪を口にしてから、小さな手をそっと握る。壊さないように、傷付けてしまわないように。
「部屋まで送らせてくれ。ベルナデッタは、俺が探しておくから」
慌てふためくナマエの右手を握ってディミトリは歩き出す。利き手を塞がれて言葉を伝える術を失ったナマエは、すぐに大人しく後をついてきた。
あの頃と同じ、小さな手を握りしめる。
随分変わってしまった歩幅を意識して狭めて、ディミトリはゆっくりと歩き続ける。
寮の二階。
自室へ向かう途中に何度も横切った、彼女の部屋を目指して。
二人がそれ以上の言葉を交わすことはない。
ディミトリが、声を失った事情をナマエに追求することはなく、ナマエはどこか見覚えのある青年に疑問を投げかけることもない。二人の中には諦念ばかりが渦巻き、影を強めるばかりだ。
その常闇の中で、ディミトリは思い出している。
雲を晴らすようなあの日の笑声を。
遠い記憶に淡く残る、うつくしい少女たちのことを。