光の円盤をもつ人
エーデルガルトがナマエと出会ったのは、二人がまだ二歳にもならない頃。父親達の意向で皇女の遊び相手として選ばれたナマエは、紋章の影響か体質か、一日の大半を眠っているような子供だった。一緒に遊んでいる最中にナマエが船を漕ぎ始める度、エーデルガルトが耳元で名前を叫ぶのが日常だった。本を読み、花を摘んで、お茶会を開き、皇女の前で不敬にも眠りこけるナマエを起こす。その役目はいつの間にか従者となったヒューベルトに変わりつつあったが、エーデルガルトにとっての穏やかな日常は続いていた。
政変によって叔父と共に王国へ亡命した日のことを、最後に引き離されるように見たナマエの菫色の瞳と揺れる髪を、エーデルガルトはよく覚えている。
いつもぼんやりとした眼差しは驚いたように見開かれ、小さな手をエーデルガルトへと伸ばしていた。エーデルガルトの亡命に手を貸したのは、皇帝と親しかったナマエの父親だった。
王国へと向かう馬車の中でも、王国で過ごした三年間も、エーデルガルトの頭の中には常にナマエのことがあった。自分が居ないあいだ、ヒューベルトはナマエを起こしてくれているだろうか。あの子は元気にしているだろうか。
誕生日に贈られた髪紐は、箱に入れたまま宮城の自室に置いてきてしまった。
それがずっと心残りだった。
自分の悲鳴で、エーデルガルトは目を覚ました。びっしょりと汗をかいている自分に気づき、震える手を顔へと押し当てる。血の気を失った自分の顔も手も冷えていて感覚が鈍くなっていた。
夢を見ていた。宮城の地下、鎖に繋がれる自分、もう動かない兄妹たち。
部屋へと駆けつけたヒューベルトに「なんでもないわ」と告げて、月明かりを窓越しに見つめる。気付けば、王国へ亡命した日から八年の月日が過ぎていた。
ナマエとはあの日から顔を合わせていない。唯一の成功例として地下から出された日、ヒューベルトの口から聞かされたのは帝国内の情勢の変化。その中には、ナマエの父親の死と、彼女の家が没落したという報告があった。ナマエは母親と姿を消したと伝えられ、エーデルガルトの胸に湧いた感情は二つ。「もしも奴らの手が、彼女にも伸びていたら」という感情の大部分を占めた恐怖と、「ナマエが遠くへ行ってしまった」という僅かな寂寥感だった。
その数年後、ナマエは同盟領で見つかった。強力な大紋章を宿す彼女はとある伯爵家の養子となったと人伝に聞かされた。家に迎えられたのがナマエだけだと聞いたエーデルガルトが、一緒に消えたはずの母親の行方をヒューベルトに調べさせると、病で亡くなっていたことを知った。何度か見たことがあった優しげな表情の女性を思い出し、エーデルガルトは強く目を閉じる。いつの間にか朧げになっていた記憶に蓋をして、そっと立ち上がった。
自分はナマエに会いに行かなければならない。
七貴族の変で皇帝に与したナマエの父親は、数節後に宮城内で不審死したらしい。強力な騎士団は解体され、財産や土地を奪われた彼女の家はすぐに取り潰されることになった。ナマエの母親が亡くなったのだって、度重なった心労が祟ったのだろう。
―――自分たちを恨んでいるだろう、と思う。
馬車の中で窓の外を眺めながらひとり考える。エーデルガルトはこれから彼女に会いにいくが、自分の宿願に力を貸してほしいと頼むつもりはなかった。
理由は一つだけ、一目だけでも会いたかった。
恨み節をぶつけられるか、そもそも姿が大きく変わった自分には気付かないかもしれない。エーデルガルトは視界にちらつく白銀の髪に視線を落とす。幼い頃、よくナマエが髪を編んでくれたことを思い出しながら、目的地へと近付いていくにつれて自分の心がざわついていくのを実感していた。
ナマエが居るのは、帝都にある墓所。そこには彼女の父親が眠っていて、同盟領で亡くなった母親の亡骸が移されるのが今日だった。
馬車を降りて歩き出す。曇天の下、今にも雨が降りだしそうな天気の中で迷いなく足を動かす。しばらく歩いていたエーデルガルトの目に、探していた少女の姿が映る。その後ろ姿にエーデルガルトは震える息を吐き出していた。
八年前と変わらない、菫色の髪を無造作に垂らす後ろ姿はよく見知ったものだった。
もしもナマエの美しい髪が自分のように色を失ってしまっていたら、エーデルガルトはこのまま動けなくなっていたかもしれない。
ゆっくりと近づいていく。十メートル程の距離まで近付いた自分に、ナマエは振り返る。
八年の月日は二人を子供から大人へと成長させていた。
ナマエの視線が自分に突き刺さるのをエーデルガルトは実感した。何も言わず、言われずに足を進める。お互いに手を伸ばせば触れ合えるほどの距離で足を止めたエーデルガルトに、ナマエは瞬きすら忘れて見入っていた。二つの双眸は見覚えのあるものだが、髪色が記憶と合致せずに疑問を浮かべる。
けれどその白銀を纏める髪紐には心当たりがあって、ナマエは強ばった表情を和らげた。
「よく似合ってる、エル」
エルと呼ばれた少女は唇を震わせてから笑みを返した。拒絶ではなく、自分を受け入れてくれた親友の名を呼ぶ。
それは多くを奪われ踏みにじられた二人が、ようやく取り戻すことの出来た薄氷の上の幸福だった。