心穏やかに命柔らかく
スマホのアラーム音で目が覚めた。手に取って通知が来ていないか確認してから、立ち上がり締め切ったカーテンを開けると、朝日が暗い部屋に射し込んでくる。窓枠に寄りかかり外を見下ろすと、淡い色の花が咲く植木鉢が視界に入る。風に揺られて光を浴び、輝く姿を目に焼き付けてから部屋を出た。
朝食を食べて身支度を終えた頃に、スマホが二度続けて震えた。持っていたマグカップを机に置いて手を伸ばす。画面に出た二人の名前とメッセージを確認してから、一番上のトーク画面を開いた。
一のもうすぐ着くという内容にOKとスタンプを送り、もう一人の画面を開く。電話していいかと尋ねる徹に同じくOKスタンプを送るとすぐに既読がついて、着信を知らせる音楽が流れた。通話ボタンを押すと音が途切れて声が聞こえた。
「おはよう、名前」
穏やかな声が機械を通して耳に届く。きっと徹は家に帰った頃なのだろう。以前送ってくれた夜景の写真を思い出して「おかえり。お疲れ、徹」と答えた。
今日の講義、やっと慣れてきたバイト、最近花巻が彼女に振られたこと、二人で植えたマーガレットの花が咲いたこと、大学の傍に美味しいご飯屋を見つけたこと。今の宮城の天気は、今日の髪型は。私が話す内容に徹は何度も相槌を打つ。その声が今にも歌い出しそうに弾んでいて、私まで嬉しくなってしまう。目を閉じれば徹の柔らかい笑顔が脳裏に思い浮かんでくる。卒業式で後輩に囲まれて笑う横顔、空港で見送った時の泣きそうな顔、痛いくらい握られた手の温もりも、私はちゃんと覚えている。
「遅れるぞ」
「おはよう、一」
『あっ! 岩ちゃん? 名前電話変わってもらえる?』
「分かった」
お母さんが家にあげたのだろう。いつの間にか部屋の入口に立っていた一にスマホを手渡すと、起きたばかりで不機嫌そうな顔でそれを受け取った。鞄を手に取り一階に降りて水筒を用意していると、一の話し声が廊下から聞こえて遠ざかっていく。水筒を鞄に入れてリビングを出て廊下を進むと、靴を履き終わった一が「うんこ野郎だな」と呟くのが聞こえた。また徹がなにか怒らせるようなことを言ったのかな。靴を履いて戸を開けてくれている一に近付くとスマホを手渡される。お礼を言って受け取り、スピーカーのアイコンを押した。
「なんの話をしてたの?」
「んー、岩ちゃんは当分彼女が出来そうにないねって話!」
じっと隣を歩く一を見上げると、鋭い眼光が手元のスマホにぶつけられているのに気付いた。もしも徹がこの場に居たら殴られていただろう。一の怒りに気付いていない徹が向こうでの出来事を報告してくれる。
駅に着くまでの十数分の間、こうして三人で話をするのが恒例だ。一が欠けていたり、忙しい徹と電話が出来ない日も少なくはない。こうやって徹の声を聞いて一日が始まると、その日の気分はずっと良い。バイト先で嫌なことがあっても切り抜けられるほどの効果がある。
もうすぐ着くから、とスピーカーの状態を解除してスマホを耳に押し当てる。徹は「今日も一日頑張ってね」と楽しげに笑って言った。ありがとうと返して、これから眠りにつく徹におやすみを言おうとして遮られる。
「名前」
「?」
「愛してるよ」
自分で言った言葉に照れているのか、微かに小さく笑う音がした。
「私も愛してる」
隣で一がぎょっと目を剥くのが分かった。ずっと言葉に出来なかった私が、すんなりと気持ちを口に出来た理由はよく分からない。朝の目覚めが良かったからか、マーガレットの花が咲いたからか、頬を撫でていく爽やかな風が心地よかったからか。徹はしばらく黙り込んでから言った。
「俺はもっと愛してる」
徹は少し声が低くなったかな。眠いから掠れているだけかもしれない。耳をくすぐられて途端に恥ずかしくなってしまった私に気付いたように、徹は幸せそうに笑って「おやすみ」と呟いた。