朝が来る陽が昇る人は往く
名前に嫌われることを俺はなによりも恐れていた。名前にはずっと俺のことを好きでいてほしかった。けど、もうそんなことは望まない。俺のことを好きじゃなくなってもいい。遠く離れてしまってもいいから。
その代わり、これだけは、どうか。
「おまえを好きで居続けるのを、許してくれ」
これから先、名前のことを想い続けることだけは見逃してほしい。ほかにはなにも望まない。返事が返ってくることも、星を散りばめた瞳を向けられることも。手を伸ばすことも二度としない。
涙で視界がぼやけては雫が溢れ落ち、名前の顔がはっきり見えたと思ったらすぐに輪郭が歪んでしまう。思い返せば俺、名前の前で泣いてばかりだな。
ぐいっとジャージで涙を拭ったとき、ずっと黙り込んでいた名前が口を開いた。「ごめんね」と。
腕に目を押し付けた状態で俺は動きを止めて、歯を食いしばった。
「私のせいで、たくさん悩ませたよね」
ちがうと言いたかったのに。開いた口は閉じたり開いたりを繰り返すだけで終わった。名前のせいじゃない。むしろ、こっちのセリフだ。俺のせいで名前はたくさん悩んだだろう。俺の母親から海外へ行くことを聞かされてから今日までずっと。
「徹が私になんて言うか、ずっと考えてた。一緒に来てほしいって、たとえ思ったとしても、私には言わないだろうなって」
名前が地元の大学を目指していることはずっと前から聞かされていた。勉強を頑張っているのをすぐそばで見ていたのだからよく知っている。名前が言うことを、一緒に来てくれたらと、考えなかったと言えば嘘になる。もちろん考えた。でも有り得ない幻想だと振り払った。
「幸せになってねって。私の手を離すんじゃないかって」
「……」
「徹にさようならって言われたら、私はなにも言えなくなる」
目に押し付けていた腕を下げると、引くほど涙で濡れていた。色の変わったジャージから視線をあげて名前の表情を見ようとして、怖くなってやめた。その瞳に映る色を見たくなかった。
「だから少しだけ、安心した」
「……名前」
「酷いことを言わせてごめん。徹を嫌いになんてならないよ」
名前の言葉に俺は久しぶりにまともな呼吸が出来た。俺が一番怖がっていたことにはならない。それだけで充分幸せな筈なのに、もっと求めてしまう。俺のことを好きだと言ってほしい。俺以外を好きになることはないと。この先誰のものにもならないことを、神に誓えなんて言わないから。言葉だけでいい。ただしばらくは夢を見させてほしかった。
「でもごめんね」
爪が食い込むほど強く握った拳を、優しく包むように名前が触れた。謝った名前の口を塞ぎたくてたまらなかった。
「私は酷い女だから、徹が言ってほしい言葉をあげられないの」
ずっと昔に名前が言っていた言葉を思い出す。いろいろ考えると精神が磨り減ってしまうのだと。何事も限界があって、もう無理だと判断したら、自分を守るために俺からは離れると。
「お願い」
もう聞きたくないと耳を塞いでしまいたかったけれど、俺は聞かないといけない。それが恨み言でも、俺を拒絶する言葉だとしても。深い傷を負うことになったとしても、俺が名前に与えてきた傷に比べれば浅く小さなものだろう。この先二度と消えない、名前が与えてくれるものなら、もうなんだっていい。
「どれだけ時間がかかってもいい。私を迎えにきて」
深く俯いていた俺の視界に、ぽたぽたと雫が落ちる。絶望してからからに乾いていた目を瞬きさせて、顔をあげた。
名前は泣いていた。大きな瞳から海が溢れたように、涙を落としていた。
「それ以外は望まないから」
決壊したように泣き続ける名前がずずと鼻を鳴らした。俺は初めて見る光景に言葉を失って、名前から目を離せない。名前は目元と鼻の頭を赤くして俺をまっすぐに見つめている。
「私のことが好きなら、私の我が儘を聞いてほしい」
俺がよく言っていたフレーズを震える声で口にして、名前は手の甲で涙を拭った。泣き慣れていない名前がごしごしと強く目元を擦るから、俺はその腕に手を伸ばしてしまった。拭われずに頬を滑り落ちた涙が名前のジャージに染みを作っていく。まるで俺みたいに泣くんだなと気付いたら冷静になっていた俺は、気が抜けたように脱力した。思いもしていなかった名前の言葉に脳が追いついていない。それでも好きな子が泣いていたら止めてやりたいと思うのが男の性で、空いた方の手でその頬に触れる。
「名前」
「うん」
「……名前」
「なに」
やっと泣き止んだ名前が擦り寄るように俺の手に頬を寄せる。俺は名前の掴んでいた方の腕を離して、両頬を包むように手を伸ばした。名前は大人しくしている。こうして触れていられることが信じられなかった。俺は全部手放すことになると、そう思っていたのに。
「俺のこと、待っててくれるの」
情けない声で言った俺に名前は頷いた。「死ぬまでに迎えにきて」と言われて頬に当てている手に力が入ってしまう。潰された頬とすぼめられた唇に、名前が不満そうに眉を顰める。
「本当に」
「ん?」
「本当に、俺でいいの? 何度も傷付けてきたし、これから先名前が不安なとき俺は傍に居ないんだよ? きっと辛い思いをさせる。……何度も泣かせることになる。おまえが泣いているとき、俺は地球の裏側でバレーボールをしてるんだ。本当に、そんな男でいいの?」
名前は頬を挟んだ俺の両手をそっと引き剥がして、俺を見上げた。その瞳には変わらない熱と星が輝いている。
「徹がどれだけ酷い男でも、何度傷付くことになってもいい。私は徹の、最初で最後の人になりたい」
我が儘ばかりでごめんと呟いたその唇を塞ぐ。胸が苦しくなって嗚咽をこらえるように呼吸を止めてようやく、自分が泣いていることに気付いた。目を開けた名前がそっと目を細める。俺は顔を離して言った。
「俺にはおまえだけだよ」
俺の髪を撫でた名前が満足そうに、本当に幸せそうに微笑むから、俺にはそれで充分だった。