透明になりたい
赤葦京治と名乗った目の前の長身の男に、名前は顔を上げることすらできずに俯いた。視界に映る二人分の足の大きさの差がひどく恐ろしく思えて、名前は息を呑む。いますぐ教室に戻ってうずくまってしまいたい。むしろ家に帰りたい。先日買ったばかりのゲームをやって目の前の現実から逃げ出したい。頭を抱えるかわりに、名前は強く目を瞑った。
何も言わない名前に、赤葦はもう一度同じ言葉を繰り返した。バレー部のマネージャー、やらない?
「や、やらない」
「どうして? 苗字さん、部活入ってないよね?」
声を震わせながら言った名前の言葉に、赤葦が疑問を投げかける。高校に入学してすでに1ヶ月が経過していた。新入生の門出を祝うように咲き誇っていた桜の花は散り、青々とした葉が生い茂っている。ほとんどの新入生はそれぞれが部活に入り、放課後の時間を費やしているが、名前は所謂帰宅部というやつだった。赤葦の言葉を聞いても名前の頭の中にあるのは何故私、という疑問ばかりだ。
部活に所属していない生徒ならばほかにも居る。例えば隣の席の女の子は運動神経も良くて性格も明るい。マネージャーの仕事すらよく分かっていない名前だが、少なくとも自分よりは良いだろうと口を開く。
「他の人に声をかけるつもりはないんだ。苗字さんにやってほしくて」
遮るような赤葦の言葉に、名前はでかかった言葉を飲み込んだかわりに小さく悲鳴をあげた。「ひい」と震えたか細い声に赤葦は反応しない。赤葦は決して強面ではないが、その長身からただ立っているだけで威圧感がある。人見知りで臆病な名前にとって、対面するだけで恐怖の対象なのだ。体の前で両手を握り締めたまま俯く名前が、恐る恐る顔をあげると黒々とした瞳と視線がかち合う。途端に青ざめて震えだす名前に、赤葦はこのまま倒れそうだなと考えていた。
「あの……」
「うん」
「なんで、マネージャーにぴったりって……その、赤葦くんと私、話したことないよね?」
勇気を振り絞って言った名前の言葉に赤葦は沈黙した。何かまずいことを言っただろうかと、名前はもっと顔を青くさせる。赤葦が自分の名前を呼ばれたことで、(苗字さん、俺の名前知ってたのか)と驚いていたことには気付かない。だって表情が変化しないのだ。
「バレーのルールも知らないし、邪魔になるだけだと思う……」
「ゆっくり覚えていけばいいよ」
「……私、非力だし、体力無いし」
「マネージャーに腕力は求めてないから大丈夫。それに苗字さん、そこまで体力無いわけじゃないと思うよ」
私が大丈夫じゃないんだよ、という言葉を飲み込んだ名前は再び俯いた。どうしてここまで赤葦が引き下がらないのかが分からない。このまま時間が経過して予鈴がなったら話は終わるはず。そうしたら話が流れないだろうか、と卑怯なことを考えている名前に、赤葦が「ちゃんと返事を貰えるまで何度でも言うから」と言った。
頭の中が筒抜けなことも、表情を全く変えずに話す赤葦にも、そもそも最初にやらないと返事をしているにも関わらず勧誘してくる強引さも全てが恐ろしくて名前は再び震えだす。
「苗字さんって人見知りでしょ?」
「知ってるなら……」
放っておいて、と続ける名前を遮って「この先、苦労すると思う」と赤葦は言った。その言葉に名前は震えを止めて硬直する。その変化に気付きながら赤葦は言葉を続けた。
「進学しても就職しても、対人能力は必要不可欠だからさ。今は仲がいい友達が数人居ればいいとして、高校を卒業したらその後は? 苗字さん、新しい環境で交友関係築いていける?」
正論のナイフがぐさぐさと名前の肌を突き刺していく。赤葦が言った言葉は幼い頃から両親に言われてきたことであり、数日前にも親しい友人に言われたばかりだ。
きゅっと眉根を寄せてしまった名前に、赤葦は自分が出せる最大限の優しさを声に乗せて言った。
「その特訓も兼ねてさ、バレー部のマネージャー、やってみない? 周りもいい人達ばかりだし、先輩マネージャーも居るよ。きっと優しくしてくれる。後輩が欲しいって言ってたから」
「……」
「俺もできる限りサポートするから」
恐る恐る顔をあげた名前に、赤葦は微笑を浮かべる。途端に悲鳴をあげて一歩後ずさった名前に、赤葦は対応を間違えた、と表情を消した。突然の笑顔に怯えた名前が走り去ってしまわないように、マネージャーになってほしいと思った理由を口にする。
「苗字さんって、すごく几帳面だよね。ロッカーの中とかいつも整理されてるし、授業中も机の上が散らかってるの見たことない」
「……」
「あと、一週間ぐらい前に、体調が悪い生徒に声かけてたでしょ? 俺、たまたま見てたんだけど、具合が悪いなんて気付かなかった。保健室付き添うとこ見て、苗字さんはよく気付いたなって思って」
「……えっと……」
考えるように視線をそらした名前を見下ろしながら言葉を続ける赤葦は、名前に(なんでそんなに見てるんだろう)と怪しがられていることには気付かなかった。
「先輩にマネージャーに向いてそうな子知らないかって言われて、真っ先に苗字さんが浮かんだんだ」
「そう……」
「……一回で良いから、見学だけでもしてみない?」
初めて聞く自信のなさそうな赤葦の言葉に、名前は気付けば小さく頷いていた。一回だけ、見学だけでも。二重に保険のかけられた言葉に安心して了承した名前に、赤葦は人知れず胸を撫で下ろした。
このままの状態で見学に行けば、名前は強烈なスパイクを見た途端に震えだし逃げるだろうと確信があった。(その前に外堀を埋めていこう。まずは二年のマネージャーに紹介して親しくなってもらってから……)
無表情のまま今後の思索にふける赤葦は、名前が張り切ったように拳を握り締めたことには気付かなかった。赤葦の勢いに負けたということもあるが、名前も変わらなければいけないと気付かされたのだ。多少強引だが優しい(と判断した)赤葦が言う「いい人ばかり」ならば大丈夫だという漠然とした思いもあった。
その日の放課後に話を聞いた二年の木兎光太郎が赤葦と名前のクラスに突撃し、過去最高レベルの震えを見せた名前を背に隠しながら、赤葦は「木兎さんはまだ早いです」と頭を抱えたのだった。