陸を選んだ魚


バスを降りて通学路を歩いていると、見知った長身の二人組が視界に入った。ちょうど曲がり角から出てきた二人は、数メートル離れた距離に居る私に気づいたようで、岩泉が「よお、苗字」なんて手をあげて話しかけてきた。挨拶を返して自然とその隣に並び学校へと向かう。体育祭、文化祭、球技大会。最後のイベントも全て終わり、私達三年に残っているのは勉強ばかりだ。バレー部の岩泉もとっくに引退して、最近は自習室に来ることも多い。この前やった小テストの点数どうだった。普通だったよ。ってことは満点か、さすがだな。岩泉の低くかすれた声が空気を揺らす。
なにもかもがいつもと同じ。岩泉もそうだ。ただ一人、岩泉の隣で俯きがちで歩く及川徹以外は。
普段は止められても喋り続けている及川が何も話さないことに、岩泉は一度だけ視線を向けたけれど結局なにも言わなかった。面倒なことには巻き込まれたくないのか、まっすぐ前だけを向いている。



俺、高校卒業したら海外行くんだ。
最初に聞いたときは「死亡フラグみたいに言うんだな」って感想を抱いて、しばらく黙り込んでから「頑張れ」と言った。正直、私には関係ないなとも思ったし。でも、知らされないまま「及川は海外へ行った」と後になって聞かされたら、仲間はずれにされた気持ちになったと思う。だから、直接言ってもらえたことはほんの少しだけ嬉しかった。

私達は北川第一中学からの知り合いで、ちゃんと友人になったのは高校生になってからだ。もともとは岩泉と少し話す程度だった。私はずっと帰宅部で、バイトと勉強ばかりの日々を過ごしていた。岩泉は試験の少し前になると、私のところへ来て、私の好きないちごのサンドイッチを手に頭を下げる。赤点を取ると合宿に参加できない、とか。成績が悪くなると担任がうるさい、とか。私に頼み込むときの理由は毎回違っていて、私はそれを聞きながらサンドイッチを食べる時間が好きだった。私には縁のない部活、合宿、先輩後輩。いちごの甘酸っぱい味を噛み締めながら、「岩泉は青春してるなあ」と微笑ましく見ていたのだ。

勉強を教えていると決まって及川はやってきた。「岩ちゃん、休み時間にも勉強してるの? 熱出ない?」なんて笑って言う及川に、岩泉は毎回ブチギレて勉強会は中断された。及川は余裕があるようで、牛乳パンを片手に私達の手元を見下ろす。「ここ違うよ」と楽しげに岩泉のノートを指差す及川は、そのまま勉強会に参加することもあったし、彼女さんに呼ばれて教室を出て行くこともあった。私はその背を見つめながら、やっぱり「及川は青春してるなあ」と微笑ましくなる。岩泉は「及川が邪魔して悪かった」なんて苛立った顔で言うので、「二人は青春してるね」と返した。

岩泉は目を丸めて首を傾げてから「意味分かんねえ」と言うと、手元のプリントに視線を落とした。
後日、後輩の女の子から呼び出されて教室を出て行く岩泉を見送りながら、私は「青春してるなあ」と呟く。岩泉が座っていた椅子に腰掛けた及川は、不思議そうに私を見て「苗字さん、変なこと言うんだね」と笑った。





一言頑張れと言った私に、及川は楽しそうに笑って口を開く。

「苗字さんは東京の大学だっけ?」
「うん、ずっと行きたかったとこ」
「大丈夫だよ。ずっと頑張ってたんだから」

単語帳を見ながら会話をする私に、及川は嫌そうな顔を見せたことはなかった。たまに受験ストレスできつい言葉を浴びせる子がいるのだ。私は全然痛くも痒くもないのだけれど、隣に居る友人達はそうではないらしい。仲良しな女の子は可愛らしい顔を般若のように変え、私を励ますように抱きしめてくれる。岩泉なんてあからさまにぶすっと顔を歪めて、後を追いかけようとするものだから、私は何度も腕を掴んで止めた。別にいいから、気にしてないから。そう言う私に、岩泉は顔をしかめて「俺がよくねえ」と言う。及川は威圧感の凄い笑顔で相手を見つめ返して追い返してくれる。私は一ミリも傷付いてなんていなかったけれど、私のために、誰かが怒ってくれることは嬉しかった。

「努力は必ず報われるって言う人がいるけど、私はそう思えないの」

たまに意地悪なことを言ってしまう私を、友人達は一度も責めたりしなかった。努力が必ず報われて、誰もが求めているものを手にできるのならば、私の友人は県内でも有名な進学校に受かって、会うことなんて無かっただろうし、男子バレー部は全国大会に出場していただろう。努力が必ず報われるのなら誰も苦しまない。

「手が届かなかったら、周りの人たちは努力が足りなかったって言うけど。どこまで頑張れば充分な努力をしたって言えるの?」

体を壊すまで頑張れば、充分なのだろうか。

「結果なんてただの副産物。大事なのは結果に至るまでの過程で、精一杯積み上げてきた経験と、頑張ってきた事実だと思ってる」

だから私は、もしも受験に失敗して県内の大学に入ることになってもいい。先生や両親はがっかりするだろうけど、彼らの期待に応えるために勉強していた訳じゃない。そりゃあお世話になっている人たちを喜ばせたいとは思うけど。

「その事実さえあれば、この先どんなことがあっても、私は乗り越えられる気がする」

単語帳から目を離して及川を見上げた。

「だからきっと、及川も大丈夫」

根拠が弱いかなあ。でも私は、及川ならどんな場所でもやっていけると思うのだ。青葉城西の及川徹しか知らないけれど、それでも彼らが頑張っていたことは知っているから。

及川は嬉しそうにお礼を言ってから、締りのない顔でへらへら笑う。

「ねえ、苗字さん」
「なに?」
「俺たち青春してたよね」

俺たち、という言葉に首を傾げる。岩泉と及川のことを言っているかと考えていると、頭の中を覗いたように「俺と、岩ちゃんと、苗字さんの三人」と付け足した。

「私、勉強ばっかりで青春なんてしてないよ」

斜めの視界のままに言った私に、及川はからからと青東風のように爽やかに笑った。

「幼馴染で同じ女の子を好きになったんだもん。これ以上の青春なんてないでしょ」

言葉を探して結局見つからずに黙ってしまった私に、及川は「これからも仲良くしてね」と言った。多分、私の返事は必要ないんだろうな。「あー!すっきりした!」と腕を伸ばす及川を見つめる。私はただ一つだけどうしても及川に言いたいことがあって、その名前を呼んだ。

ねえ、及川

「岩泉に怒られないといいね」

及川は始めて笑顔以外の表情を見せて、だんだんその表情を青く変える。私はやっと緊張の糸が切れたようにからからと笑った。






学校まで歩き慣れたこの道を、青葉城西の生徒として歩けるのはあと数ヵ月。
岩泉が私に、勉強を教えて欲しいと話しかけてくるのはあと何回だろう。
私達に残された時間は、あとどれぐらいだろう。

及川が気まずそうに顔をあげない理由を、私だけが知っている。