祈っても消えないのです


少しだけ寝坊してしまった。それでもクロが来る時間には間に合うから、少しだけ、ほんの少しだけ支度を急いで家を出た。俺を見るクロはやけに機嫌が良くて、声がうわずっていた。「今日、席替えだったよな」楽しそうに笑うクロに、俺は何も言わなかった。自分のクラスならともかく、俺のクラスの席替えなんて関係ないだろうに。梅雨が明けたとたんに強くなった日差しが鬱陶しい。じわじわと額に浮いた汗に苛立つ。朝から虎とリエーフが煩い。今日のホームルームが無くなればいいと思う。何もかもが俺の気持ちを沈ませてばかりだ。

「おはよう孤爪くん」

朝練を終えて教室に入った俺に、廊下側から数えて二列目の一番後ろに座っていた苗字さんが声をかけてきた。真っ白なシャツと少し透けて見えるキャミソールから慌てて目を逸らす。

「おはよ」

そっけなく答えた俺に、苗字さんは屈託ない笑顔を向けた。ぎこちなく廊下側の一番後ろ、苗字さんの隣の机に荷物を置き、腰を下ろす。動くたびに自分から嗅ぎなれない匂いがして鼻がムズムズする。数日前にクロから押し付けられた石鹸の匂いがする制汗剤は、ここ毎日ずっと鞄に常備されていた。世話好きな幼馴染の、余計なおせっかいだ。それでも普段使っていた無香料の制汗剤は取り上げられてしまったので、これを使うしかない。汗臭いまま授業を受ける選択肢は無かった。

「朝練お疲れ様」
「ん」

一年の頃から同じクラスだった苗字さんは、普段からにこにこしているけれど、今日はいつにも増して雰囲気が楽しげだ。まるで今朝見たクロのように。向こうに比べて怪しさは一切無いけれど。

「今日席替えだね」
「……楽しみ?」
「席替え、わくわくしない?」

ふふふ、と口元を抑えて笑う苗字さんは可愛い、と思う。けど俺は賛同できなくて「普通かな」と答えた。嘘だ。普通ですらない。わくわくなんてしないし、厄介なイベントのせいで俺は朝から憂鬱だ。苗字さんは「また後ろがいいなー」なんてからから笑う。古典の授業に居眠りする苗字さんは、教卓前の席になったら大変だろうな、とぼんやり考える。