オムライス
コタンに出入りする不思議な男女が居た。そのシサム達は、私が赤ん坊の頃からコタンに出入りしていた。男の方は動物の肉や毛皮を高く買い取ってくれる人間だ。その後ろに女はいつも居た。名を名前と言った。
名前はいつも「先代」と呼ぶ男と連れ立ってコタンへ来た。「先代」の名はキヨシで、名前とは同じ飲食店で働く同業者なのだという。年齢の近い男女だというのに二人は夫婦ではないそうだ。つまらない、と言った私に名前は口元を抑えて笑っていた。気品さすら感じられるその仕草と微笑みに、これだけ美人ならいくらでも嫁の貰い手が居るだろうに、と思った。実際キヨシが言っていたが、名前は何度も街の男達に求婚されることがあったらしい、時には華族令息とのお見合いなんて話も出たそうだが、名前は全て断ったらしい。
「やっぱりキヨシのことが好きなんじゃないか。結婚しろ」
キヨシは難しい表情でいつも私の提案を跳ね除けた。「俺はあいつの保護者みてぇなもんだよ」と言うキヨシに首を傾げる。二人は年頃が同じに見えた。保護者なんて言葉はそぐわない。なにより、仲が悪いようには見えなかった。それでも二人がお互いを見る目は、コタンの若い男が名前に向ける眼差しとは明らかに異なるもので「そういう関係もあるのだな」とそのうち気にしなくなった。
名前は艶のある黒髪を風で靡かせ、いつも花のような笑みを浮かべている女性だ。ふわふわとした雰囲気は周囲の張り詰めた空気を和らげ、名前の子守唄は即効性の効果があった。
「ねんねん ころりよ」
名前の歌声がじんわりと耳を溶かす。細い指先が私の髪を撫でるのをぼんやりとした頭で享受する。名前はコタンの子供達にとって良き姉であり、良き理解者だった。好奇心や探究心が人一倍強く、私達に寄り添って生きる強い女だった。
名前がコタンを訪れるのはそう頻繁では無かったから、私とアチャが山へ行ったのと行き違いになったこともあった。後々名前が来ていたことを教えられた私は随分とふてくされたりしたものだ。
「名前もコタンに住めばいい。みんな歓迎するのに」
麓で会った名前にそう言えば、名前は驚いたように目を丸めて、それから笑った。イトウの花を想起させるような笑みで、私もつられて笑ってしまった。でも、名前は自分の店から離れなかった。
キヨシが店を辞めるときも、名前は一人残った。若い女が一人でお店を経営して暮らすなんて危ないから、私もフチも、店を閉めてコタンへ来るように言ったんだ。
「何代も続いてきた店ですから、大事にしたいんです」
だから今も、名前は小樽で店をやっている。たまにコタンへやってきては肉や毛皮を高く買い取ってくれる。キヨシとは一度も会っていないし、名前も連絡を取っていないらしい。
「名前は悪事に関わるような人間じゃない。ましてや金塊なんて……結婚すれば裕福な暮らしが出来るのに、それを断って店を継いだような女だ。ありえない」
私の言葉に杉元が少しだけ眉を下げる。それでも瞳からは名前に対する疑心が消えていないようだった。まったく。
「そのキヨシって男が小樽を離れたのが五年前、アシリパさんの父親が殺される直前なんだろ?」
「………」
「コタンへは金塊の情報を探るため来ていたとも考えられる。囚人達は小樽へ迎えと言われていた。女が未だに小樽に留まる理由と関係しているのかもしれない」
黙り込んだ私を見て杉元が軍帽を被り直す。いま、杉元に何を言ってものっぺら坊に結びつけるだろう。キヨシが父達を殺し金塊を奪い投獄され、仲間である名前に金塊のありかを伝えようとしているのだと。
「そこまで言うなら名前に会いに行こう」
「え!?」
「会えば分かる。名前は私欲で人を傷付けるようなことはしない。あいつはリス一匹殺すのも上手くできなくて、いつの間にか絆されているような女だ」
ええ……と戸惑う杉元を置いてそそくさと山を降りる。
「今から行ったら着く頃には日が暮れてるよ」
「今日は名前のところに泊めてもらおう。あいつの店は二階が寝泊りできる部屋になっているから」
「俺、その人を疑ってるんだけど……」
「顔を見たら杞憂だったとすぐに分かる」
一人で店を切り盛りするようになって忙しくなった名前がコタンへ来る頻度は減った。それでも、アチャが殺された後、レタラが居なくなった後……名前は店を休んで私の傍に居てくれた。ずっと寄り添ってくれていた。抱きしめて、背を撫でて名前を呼んでくれた。血の繋がりがなくとも、一緒に住んでいなくても、
「名前は私の家族同然だ。疑われたままでは嫌だ」
「……分かった。行こう」
麓の街が見え、足を止める。名前の店の灯りが遠くにぼんやりと浮かんでいるのが見えた。ぎゅるるるると空腹を訴える音が自分の腹から聞こえる。
「名前の作る飯は美味い。食べながら話を聞こう」
「アシリパさん、それが目的なんじゃ」
アシリパさんの後を追って辿りついたのは、大通りから一本外れた路地にある建物だった。戸のガラスから室内の暖かい光が覗いている。看板には「ヤドリギ」とだけ書かれていて、初見で飲食店と気付く人は居ないだろうと思った。アシリパさんは「ここだ」とだけ言って扉を開ける。
―――アシリパさんのコタンに頻繁に出入りしていた男女。
そしてアイヌの金塊が奪われる直前に小樽から姿を消した男。
アシリパさんが家族同然とまで言うんだ、俺もそれを信じたいが……この目で見てみないことにはなんとも言えない。
「あら、アシリパ。おかえりなさい」
「ただいま、名前。今日は人を連れてきた。……なにしてる杉元、さっさとこい」
若い女性とアシリパさんの会話が外にまで届く。軍帽の鍔を掴んで被り直してから中へ入ると、そこには予想よりも若い見た目の女性がいた。赤い暖簾を片付けているところだった女性は、俺と同い年にも見えるがアシリパさんの話から察するに年上なのだろう。
「名前、杉元だ」
「杉元さんね。私は名前といいます」
「こんな時間に申し訳ない。店を閉めるところだったのに」
「いいんですよ。アシリパとそのお連れ様なら大歓迎です」
薄日が差すような優しい笑みに、なるほどと目を瞬く。確かにリスも殺せなさそうな人だ。斜め下から(ほらみろ)と言わんばかりにアシリパさんがフン、と鼻を鳴らす。
「ご注文は?」
「名前のおすすめがいい」
「じゃあ、俺も」
「本日のおすすめを二つですね。ちょうどアシリパに食べて欲しい料理を考えていたところなの」
名前さんは抑えきれていない笑みを手で隠し「おかけになってお待ちくださいね」と華やいだ笑い声と共に奥へと消えていった。すぐに水を運んでくると、再び奥へと戻る。なんというか……。
「疑ってた自分が馬鹿みたいに思えてくるよ。でも……」
「……まったく。名前が戻ってきたらキヨシの話を聞こう」
しばらく店内を見渡していると、名前さんが大きなお盆を手に出てきた。
「お待たせいたしました」
鈴を転がしたような声が室内に広がる。大皿が二つのったお盆を運ぶ腕は細く(落とすんじゃないか)と気が気じゃなかったが、名前さんは案外しっかりした足取りで机まで辿り着いた。
そして目前に置かれたその料理を目にして、思わず「な、なんだこれは!?」と大きな声を出してしまった俺の手の平より大きな皿に、楕円形の黄色い何かが乗っかり、その上に赤いソースがかかっている。
「チキンライスとトマトソースを炒めたものを、薄焼き卵で包んでるんです。上にかかってるのもトマトソースですよ」
お盆を胸に抱えた名前さんの言葉を聞いて、もう一度皿の料理を見下ろす。
「洋食が食えるなんて予想してなかったな……」
「卵の表面がツヤツヤだ。こんなの見たことない……。それに食欲をそそる匂い……やっぱり名前は料理の天才だな!」
目をキラキラさせて言ったアシリパさんの言葉に、名前さんはとろけそうな笑顔を見せた。
「いただきます!」
スプーンを手に料理に向き直る。どこから食えばいいのか……この完璧な造形を崩すのはちょっと勇気がいるな、と視線を上げると、楕円形の真ん中から崩しているアシリパさんが居た。ほんのり赤く染まった米と細かく刻まれた野菜が見える。卵は服のように薄く焼かれていて、綺麗に米を包んでいた。(どうやって作ればあんな綺麗に巻けるんだ?)
アシリパさんの口にスプーンが入る。舌に乗った直後、アシリパさんの青い瞳がぐわっと大きく見開かれた。ど、どうなんだ!? チキンライスとトマトソース。俺はどちらも食ったことがないので味の想像ができない!
おろおろする俺と、お盆から目の上を覗かせている名前さんの視線がアシリパさんに突き刺さる。スプーンを口から出したアシリパさんは瞳を閉じ、もぐもぐと咀嚼してから口の中のものを飲み込む。何も入っていないというのに俺もつられて唾液を飲み込んでしまった。
「……」
「……」
目を閉じて難しい表情をしたアシリパさんに、名前さんの表情がどんどん悲痛なものになっていく。洋食……アシリパさんには合わなかったのだろうか。そう考えた直後、カッと目を見開いたアシリパさんは鼓膜を突き破るんじゃないかという程の大声で叫んだ。
「うまい!!!!!」
その言葉に名前さんの表情がみるみる明るくなっていく。瞳を潤ませてへにゃりと微笑むと「良かったぁ」と言って脱力していた。がっついて食べるアシリパさんの口元に付着したソースの汚れを拭く名前さんを見て思った。
絶対悪い人じゃないや、この人。