体温(五条)


夏油が家入に接触を図った際、天眼の子供について言及があったらしい。夏油の手による誘拐を考慮し、天眼の子供は高専の敷地外への外出が禁止されることになった。未だ未知数である天眼が、呪詛師の手に渡ることは避けたいというのが上層部の考えだった。

五条と夏油の道が完全に分かれた日から数日が経過した。夜までかかった審問が終わり、その足で自室へと向かった五条の前には、二、三日振りに見る天眼の子供の姿があった。細い枝のような腕の中にはやはり枕が抱えられている。もうなにも残っていない夏油の部屋の前で小さく縮こまり自分を見上げるその姿を目にして、五条は気付けば怒鳴り声をあげていた。

「傑はもう帰ってこない! 無駄なことしてんじゃねぇよ!!」

子供はびくりと肩を跳ね上げるが泣き出すことはなかった。思えば五条は子供が泣いたところを一度だって見たことがなかった。

「帰ってくるって言った」

怒りを顕にする五条に、子供は淡々と口にする。夏油が最後の任務へ向かったその日、見送った子供に夏油はそう口にした。明日の昼には帰る、と。約束をしたのだと。

「傑くん、嘘つかない」
「……約束は、守れなくなったんだよ。……そんぐらい分かれよ」

みるみる怒りの感情が萎んでいき、視線が落ちていく。子供は痛いほどまっすぐに五条を見ていた。ぐるぐるの包帯を透かして特別な眼が五条を見つめていた。

「アイツは、非術師を殺して、呪術師だけの世界を作るんだと」
「……」
「おまえ、置いていかれたんだよ。呪術師になれねえ雑魚だから」

五条の言葉に子供は口を閉じてしまった。傷ついているのか悲しんでいるのか、感情の見えないその表情からはなにも読み取ることができない。

「わかったらもう、来んのやめろ」

結局、子供は何も言わずに五条の前から去っていった。五条はしばらくその場に立ち尽くしていた。




その翌日、五条は都内の病院に来ていた。天眼の子供の祖父。五条も何度か面識のある男だった。病室にやってきた五条を見て、男はゆっくりと上体を持ち上げる。二年前に初めて会った頃と変わりはないように見えたが、男には余命幾ばくも残されていないことを五条は知っていた。そしてこの男が死んだ後、天眼の子供が誰にも守られなくなってしまうことを。

「夏油傑がそのうち、あいつを攫いにくる」

用意された丸椅子に腰掛けることもなく口を開いた五条に、男は黙って話を聞いていた。

「アイツは傑のことが好きだから、ついていくかもしれない」

口を閉じた五条に対して男はゆっくりと口を開いた。長く生きたことが分かるような落ち着いた声だった。

「俺はもう長くない。あの子の身内は誰もいなくなる。……五条の坊よ、あれを任せてもいいか」
「……」
「夏油傑のことは心配いらない。あの子は呪詛師にはならない。夏油を敵に回すことは嫌がるだろうが、その手を取ることは絶対にない」

自分の靴を見下ろしていた五条は投げやりな口調で言った。どうしてそんなことが言い切れる。子供は傑に懐いていた。傑が帰ってくるんじゃないかと期待して、何度も部屋を見に来ていたのだと。

子供と出会ってからの二年間を思い返す。男や夜蛾、補助監督が不在のとき、子供の面倒を任されても五条はすぐに同級生や後輩に押し付けていた。子供の世話なんてしたことがなかった。いつも夏油や家入が子供の相手をするのを横で見ていただけだった。

心眼と天眼を持っているのに、長時間走ることも、高専の長い階段を自力で昇ることさえできない体。小さく脆い、弱い生命体。五条が今まで出会った中で一番の弱者。

自分が掴めばぽきりと折れてしまいそうな手足。壊してしまいそうだったから、子供は嫌いだから、興味が無かったから。五条が子供を遠ざける理由は色々あったが、なにより子供が好く遊びなんて知らない自分と居ても、楽しくないだろうという考えが少しあった。

外から見ているぐらいが、ちょうどいい距離だった。

特別な眼を持つ人間同士。
誰にも理解されない世界を見ている人間同士。
自分たちにはその共通点があるだけだった。

「俺にガキのお守りなんて無理だよ」

上手くできる気がしない。そう力なく言った五条に、男は笑った。そう難しいことじゃないんだ、と。誰にでも出来ることではないが、今の五条ならば出来ることだろうと。

顔をあげた五条の眼をまっすぐに見て、男は言った。

「傍にいてやるだけでいい」



▽▼▽


子供に与えられた高専施設の一室。夜蛾が作った呪骸に囲まれるようにして、子供は小さく丸まって眠っていた。子供に危害を加えようとすれば動き出すようになっているのだろう。いくつかの呪骸は部屋へと入ってきた五条をちらりと一瞥したが、すぐに視線を子供へと戻した。(よくこんなのに囲まれて眠れるなコイツ)五条は内心で呟いてから床に腰を降ろす。

「ちっせーベッド」

子供の体躯に合った小さなベッドは、長身の五条からはおもちゃのように見えた。

―――つーかコイツ、俺が部屋に入ってきたのに起きないって……どうなってんだ心眼は。危険回避に特化した眼じゃねえのかよ。

五条はごろりとその場に寝転がると、天井を見上げて深く息を吐いた。硬い床と頭の間に腕を差し込み、メルヘンチックな動物のウォールステッカーが貼られた天井に視線を滑らせる。そのうちに、五条は眠りに落ちていた。



「―――?」

妙な違和感に目が覚める。ぼんやりとした頭で、自分以外の体温がすぐ傍にあることに気付いた。そっと目を向けると、白い物体が体の真横にある。鷲掴める程の大きさのそれが子供の頭だとすぐに分かった。いつの間にベッドから降りてきたのか、そして何故自分の傍にいるのか。

五条は子供を起こさないように上体を起こし、ベッドから落ちそうになっているタオルケットに手を伸ばした。これまた可愛らしいデザインのそれを、眠った子供へとゆっくりかけていく。五条の身長の半分程の長さしかないタオルケットでも、子供の頭から足をすっぽり隠せる。悪戯心で全身にかけると、子供は寝苦しかったのかもぞもぞと動いてタオルから顔を出した。「はっ」と、気付けば五条は小さく笑っていた。そして気付いた。親友が去ってから一度も笑っていなかったことを。

「…………」

ぐっと眉間に力が入り、自分の目元を腕で覆い隠す。しばらくそうしてから五条は子供の方に体を向け、腕を枕に再び眠りについた。子供の体温は五条には少し熱いぐらいだったが、不快ではなかった。

しばらくして子供は天涯孤独の身となり、正式に五条家預かりとなる。